ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

ヒットソングを創った男たち2

2022-03-26 15:19:00 | メディア
「アイドルからシンガーソングライター、アニメ、映画音楽まで
幅広いフィールドで活躍を続けるマルチプロデューサー」長岡和弘さんへのインタビューの続きです
「甲斐バンドは、11thシングルの『HERO』(78年12月)が
デビュー5年目で初のオリコン1位を獲得
所期の目的を達成した長岡さんは翌年、バンドを脱退されてキャニオンレコードに入社」
紹介されているんですが、その入社試験で原稿用紙4枚くらいの論文課題を出された際に…

「大学時代いちばん聴いていたのが、今でも大好きなCCR」と長岡さん
「私は、CCRの歌詞を対訳を見ずに、自分で訳していたんですね
特に『プラウド・メアリー』(69年)の歌詞は『人生とはこういうことだよな』と思わせる内容で
ただ対訳を眺めるよりも、よっぽど感動的だった(笑)
ですから『自分もこういう曲が作れるディレクターでありたい』と書いたんです」と明かされてます

そして…「希望の制作部には、すぐ配属されたのでしょうか?」との質問に
「ええ、入って3ヶ月くらいは見習いという形で
先輩ディレクターのアシスタントに就いていたんですが
制作の現場に行ったら、バンド時代にやっていたことと、あまり変わらなかったんですね
それで『これならすぐに出来そうです』と言ったら
『じゃあ、これからはお前が石川ひとみさんを担当しろ』と…

実は私、キャニオンに入社する時の面接で、当時の社長から
『担当したい歌手はいるのか』と訊かれた時、石川ひとみさんの名前を挙げて
『歌が上手いのに、どうして売れないのか判りません』って答えていたんですよ
そういう経緯があったので、担当に指名された時は
『意外と簡単に決まるものなんだな』と思いました(笑)」とお答えになってますが
そんな逆指名をなさっていたことにビックリ!?

「石川ひとみさんは、78年にデビューされていますが
長岡さんはどの時点で引き継がれたのでしょう?」と訊ねられ
「『秋が燃える』(80年9月)というシングルのレコーディングからです
この時はすでに作品が出来上がっていたので
私が一から作ったと言えるのは、次のシングル『夢番地一丁目』(81年1月)から…

甲斐バンド時代は自作の曲だったので、作家さんとの打ち合わせは初めてでしたが
渡辺音楽出版の良田性正さんにアドバイスを頂きながら作り込んで行きました
当時、大学周辺でフォーク喫茶がブームになっていたので、そういう所でかかる曲を作ろうと…
ガロの『学生街の喫茶店』(72年)を手がけた山上路夫さんに作詞をお願いしたのも
そういう狙いがあったからです」と返されてますけど

長岡さんが転身なさった当時のインタビューでも…「これまでの僕の立場とまるで違って
作詞家や作曲家に作品を依頼したりすることから仕事が始まるんです」と
「作家さんとの打ち合わせ」の他にも
「歌謡曲のタレントの場合だと、レコーディングのやり方もまるで違っていて
僕が歌唱指導したり、イメージ作りをしたりする訳ね」と
担当歌手のイメージ戦略を練ること…衣装合わせやジャケット撮影
プロフィールやコメントの作成などに立ち会うことも
ディレクターの仕事だとお知りになって驚いていらっしゃいました(笑)

ちなみに…「学生街の喫茶店」が大ヒットした翌年に
同じく「古くから学生街にある喫茶店」を舞台にした
あべ静江さんの「コーヒーショップで」がリリースされてますが
こちらは、当時のキャニオンの社長が、阿久悠さんのご自宅で作詞を依頼なさった際に
たまたま、スランプの相談におみえになっていた三木たかしさんに
阿久さんが「一緒に作ってみないか」と声をおかけになって誕生した曲だそうです

そういえば…デビュー当時の甲斐バンドのインタビュー記事で
「好きな女性タレントは?」という質問に
長岡さんが「あべ静江さん」とおっしゃっていたのは
あべさんが同じ「シンコーミュージック」の先輩でいらしたからでしょうね?(笑)
まあ、甲斐さんも、シンコーの福利厚生費で行かれた旅行の話をなさった際に
あべさんのことを「しーちゃん」と呼んでおられたし、ホントに近しい先輩だったのかも…?

それはさておき…
「石川さんは、その次のシングル『まちぶせ』(81年4月)がオリコン6位をマークする大ヒット
デビュー4年目で、ついにブレイクを果たします」というインタビュアーの方の言葉に…
「当初は、そのB面に収録されている『懐かしきリフレイン』をA面にするつもりでした
自分としては、一生懸命考えて作った曲なんですが
トラックダウンしたものを聴くと、今ひとつインパクトに欠ける

それで、岩崎良美さんの『I THINK SO』(80年)とか
キャニオンから出ている他のアイドルのシングルを聴いたら、すごく華やかなんですよね
『アイドル歌謡っていうのは、こういう所が違うんだ
作り直したいけど、時間も予算もないなあ』と悩みながら、色々と聴いていたら
その中の1つに、三木聖子さんが歌った『まちぶせ』(76年)があったんです

『さすがユーミン』と思って聴いている内に『待てよ』と…
三木さんとひとみさんは同じキーだし、2人とも渡辺プロの所属
ということは、渡辺音楽出版にマルチテープが残っていれば
歌だけ録り直してカバーするという手法もありじゃないかと思いついたんです
でも、渡辺プロに確認したら、有楽町から引っ越した時
マルチを処分していたことが判明して…(苦笑)

ただ、当時のマネージャーが持っていたカラオケのテープがあったので
まず、ひとみさんに歌って貰ったら、すごく嬉しそうなんですよ
それまでは、与えられた歌に対して『好き』や『嫌い』を一度も言ったことがなかったのに
この時は『この歌、大好きなんです。シングルになりませんか?』と私にだけ言って来た
それを聞いて私も彼女の初めての自己主張に応えたいと思った訳です」と話されてますが

「もういちど流行歌・まちぶせ」でご紹介しましたように
石川さんが高校時代に通われていた音楽学院では
ナベプロの新人歌手の曲が課題として出されていて
三木聖子さんの「まちぶせ」を与えられた石川さんは
「女の子の気持ちがそのまま歌詞になっていて『わかるわぁ〜』」と思っていらしたところへ

デビューなさって4年目、次の10枚目のシングルで
一度、区切りをつけて、ご自身を見直そうと決心なさった時に
長岡さんから示された何曲かのシングル候補の中に「まちぶせ」があり
「この曲じゃないとイヤです!これが歌いたい」と希望されたんだとか…

ともあれ…「結局、オケは録り直すことになったんですけど
松任谷正隆さんが、アレンジを快諾してくれて、演奏もオリジナルと同じ…
ドラムが林立夫さん、ベースが後藤次利さん、ギターが鈴木茂さん
パーカッションが浜口茂外也さん…ほぼティン・パン・アレーという
すごいメンバーでレコーディングすることが出来ました」と長岡さん

「当時のアイドルシーンで、過去にシングルとして発売された楽曲を
シングルA面としてカバーするのは異例のことでした
半年後に『ハロー・グッバイ』(81年/柏原芳恵)が続きますが、歌謡界にカバーブームを招来したのが
『まちぶせ』であると言えそうです」というインタビュアーの方の言葉に

「オリジナル盤が、6万9千枚だったものが
最終的に50万枚近いヒットになりましたからね
でも、発売までは、かなりの反対を受けました
渡辺晋社長からは『昔出したものをもう1回出すなんて』と言われましたし
原盤制作ディレクターは、別の曲を用意していたくらいですから…

それを私は『この曲は、いまだに人気があって
銀座の有線放送ではベストテンから外れたことがない』
…みたいな嘘を並べて(笑)必死に説得を続けたんですが
その内に賛同者が増えて来て、シングルA面にすることが出来たんです
でも、一番大きかったのは、本人が『歌いたい』という意思表示をしたことでしょうね
この曲がヒットしたおかげで、ひとみさんは自分の意見を言えるようになったと思いますし
それは私にとっても嬉しい変化でした」と振り返っていらしたけど

石川さんも「この曲のおかげで、歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った
私の心をさだめてくれた曲です」とおっしゃっていて
石川さんがこの曲に出会われたこと、長岡さんが石川さんを逆指名なさっていたことに
ちょっと怖いくらいの巡り合わせを感じてしまいました
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