ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

J-POP LEGEND FORUM(6/21)その4

2021-07-31 15:38:00 | メディア
甲斐バンド特集パート3は、甲斐さんが公私に渡って激動でいらした時期を扱っているので
我が家にある資料も膨大なため、これまでより横道への逸れ方が激しくなっております(笑)

田家さんが、画期的なドラマだったとおっしゃった「学園危機一髪」の話題から
「その主題歌『漂泊者』を今日お聴き頂こうと思うんですが、最後にお届けしようと思います
ライブバージョンでですね、この『漂泊者』をお聴き頂きたい

で、この『漂泊者』の入ったですね、オリジナルアルバムのタイトル曲を次にご紹介します
1980年10月発売『地下室のメロディー』」…を流されたあと
「『地下室のメロディー』…こういうタイトルのフランス映画がありました
でも、この曲の舞台はですね、フランスではないですね

『地下室』というのはですね、福岡の博多のフォーク喫茶…ライブ喫茶
『照和』が舞台だったという話を聞いたことがありますね」と触れておられましたが
いったん閉店していた「照和」の前を通られた甲斐さんが
「信じられないくらいノスタルジックな気分になって」お作りになった曲であり

また、この曲が収録されたアルバム「地下室のメロディー」は
かつて、アルバム「ガラスの動物園」を、恋人だった女性に捧げられたのと同じように
「全編、別れの曲」で占められていて…って

まあ、当時の記事によると…このアルバムがリリースされた10月にはもう離婚を公表なさって
「箱根・芦ノ湖畔ライブの頃みたいに、何も言えない辛さはなくなった」とおっしゃってましたけど

それは、やはり思いの丈を楽曲に注ぎ込まれて
多少は気持ちの整理がおつきになったからかなあと…?
でも、そんな時期とはいえ「良い曲書くねぇ!ずっと不幸だったらいいのに…(笑)」
…と声をおかけになった松藤さん、ある意味スゴイです(笑)

それはともかく…「で、よく『骨太のロックバンド』という言い方をしますけども
じゃあ『骨太』とは何だ?っていうことなんですね
あの時代の新しいリズム、色んな新しい要素を取り込みながら
バンドのですね、骨格が揺るがない

で、そこにこう…その都度その都度ですね
実験的な要素も採り入れながら、時代を疾走するというですね
甲斐バンドの12年間っていうのは、そういう時間だったと思いますね

で、この70年代後半から80年代の初頭にかけて
例えば、レゲエとかですね、スカとか、新しいリズムが台頭して来た訳で
日本のCMソングなんかでも、スカのですね、バンドが登場したりする時代が来ました

でも、この『地下室のメロディー』のように、スカを採り入れながらもですね
バンドらしさというのが、カッチリとあるというのはですね、そういうケリのつけ方
一つ一つですね、時代に対しながら答えを出して行くという例だったと思いますね

で、1980年『ビューティフル・エネルギー』『漂泊者』というシングルがありました
それから、初めての武道館ライブアルバム『100万$ナイト』も出ました
箱根のですね、芦ノ湖畔の野外イベントもありました

80年のですね、年末には『体育館ツアー』というのがあったんですね
で、体育館をですね、こんな風にツアーとして結んで行った
これは、ロックバンドとしては、甲斐バンドが初めてだったと思います

で、当時はですね、これを『スタジアム・ツアー』と呼んでたんですね
もちろん、ドームが出来る前ですからね
で、球場コンサートを経験してるアーティストは、矢沢永吉さんと西城秀樹さんしかいなかった
順番は、西城秀樹さんと矢沢永吉さんですね
そういう中で『体育館ツアー』を行なって、彼らは『スタジアム・ツアー』と呼んだ

80年12月の武道館でですね『逝ってしまったジョン・レノンのために』と言って
『100万$ナイト』を歌ってですね、80年にケリをつけて、で、81年に入って行ったんですね

81年9月に花園ラグビー場がありました
81年11月に、8枚目のアルバム『破れたハートを売り物に』が出ました
で、この81年のですね、武道館2日間コンサート
このあと、半年間ライブ活動を休止するんですね

そして、レコーディングに専念して、新しい扉を開けます
そういう変わり方…もっとも劇的にですね、80年代を迎えたロックバンドは
甲斐バンドだったっていう風に言い切ってしまっていいと思いますね

彼らは、82年2月に、トラックダウンのために、ニューヨークに向かったんですね
82年11月発売のアルバム『虜』から、お聴き頂きます…『ナイト・ウェイヴ』」を流され
その途中で「2019年に出た、45周年ベストアルバム『HEROES』から、お聴き頂いてますが
これは、12インチシングルとして発売されたものです

打ち込みで、オリジナル曲よりも、ちょっと違う音やサイズのダンスバージョン
12インチという新しいスタイルが、イギリス辺りから入って来て
色々なアーティスト、バンドが試みてました」…とカットインなさって

「甲斐バンドパート3…70年代から80年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド
ニューヨーク三部作の1作目のアルバム『虜』の1曲目がこれでした」と
「ブルー・レター」を流されたあと

「この曲はですね、当時、放送を見合せるという放送局が結構あったんですね
何故か?って言うと『孕ませる』という、あの言葉がですね
こう…問題になったのではないかと言われて
『ナンだ!?それは!?』っていう話を、みんなでした覚えがあります」と振り返っておられましたが

当時の機関紙「BEATNIK」には…
「『ブルー・レター』が放送禁止になりそうだというニュースが入って来た
歌詞の中の『孕ませた』という箇所が、倫理規定に抵触するからというのが、その理由のようだ
『孕ませた』のどこがいけないんですか!?なんて、学生っぽく怒ったりするつもりはないんだけど
『どーゆーことなんだよ、お前』という気持ちはあった…(中略)…

一人の少年がいて、海辺で恋に落ちて、純情すぎたために
彼女を妊娠させ、その辛い思い出に苛まれる
そんなどこにでもある青春のワンシーンのどこがいけないのか
『孕ませる』という言葉を使わなければ、世の中丸く収まると思っているのだろうか

『ブルー・レター』は、男が泣ける歌だ
それは、そんな『言葉』の問題ではないところで、胸に迫って来るからだ
言葉でしか判断できない人は『感動』の全体を測ることが出来ない人たちだ

たとえ放送で流されなくても、コンサートでは歌われ続けることは間違いないのだ」
と記されていて、確かに「ナンだ!?それは!?」的な空気が漂っていたことが感じられます(笑)

ただ、甲斐さんが「1番のサビの前の2行を書くのに半年かかった
その2行が引っかかったから(レコーディングを)中断して…
あの曲で半年生きていたようなもんだよ

(頭の中が)全部あの曲の断片だった」と明かされたほど
難産の末に、ようやく誕生した曲だったにも関わらず
「放送禁止みたいなことでしか語られなかった
可哀想な曲っていう感じが、ずっとあった」そうで

86年の解散プロジェクトの一環で「夜ヒット」に出演なさった際に歌われた2曲…
「漂泊者」は「夜ヒット」と同じフジテレビで放送された
「学園危機一髪」の主題歌ということで、まあ順当なところだったんでしょうが

「HERO」や「安奈」「裏切りの街角」といった代表曲ではなく
「ブルー・レター」をお選びになったのは、可愛い我が子を「不憫な子」にした
メディアに対する、けじめをつけようとの思いがおありだったんじゃないかと…?

ただ、この「夜ヒット」へのご出演を決められたのは
「デビュー当時や初期から応援してくれた人で
今は、子育てなどでライブ会場に来られない人や
昔は好きだったけど、今は離れてしまった人にも、感謝の気持ちを伝えたい」
…というのが、大きな理由だったみたいですが

その初期のファンやライブから遠退いていらしたのは、ほぼ女性の方と思われる中
「『ブルー・レター』に出て来る男性の身勝手さがイヤで、好きじゃなかった
…と、おっしゃる女性が多かった曲を歌われたのは、ちょっと皮肉な感じですねぇ(苦笑)

でも、甲斐さんとプライベートでも親交がおありだった残間里江子さんは…
「ブルー・レター」を初めて聴いた時、無意識な風に見せてはいるが
ロックすることの中に、きちんと『私生活』を組み込んでいると感じられた

ファンはいつだって俺の『歌』を聴いていると
アーティストは思っていても
私的状況と繋げて聴かれてしまうことも少なくない
そんな中で、甲斐よしひろの描き出す世界は
ドロドロ的情念の匂いとはほど遠く、もっと硬くて乾いている

結婚して、離婚して、再び結婚して、父親になった彼が
『制度や世間』を無視することなく超えるためには
今、この歌しかなかったのかも知れない」…と話されていて

ハードボイルド風に綴られてはいても、ご自身の血肉を削りながら
「全てをさらけ出す」覚悟で曲をお書きになる甲斐さんの姿勢は
この頃も全く変わっておられなかったんだなあと…
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J-POP LEGEND FORUM(6/21)その3

2021-07-29 17:23:00 | メディア
「J-POP LEGEND FORUM 甲斐バンドパート3
70年代から80年代にかけての新しい時代を切り開いた栄光のロックバンドの軌跡
今週は80年代です。えー、次にお聴き頂くのは、80年代最初のシングルですね

作曲とボーカルはね、甲斐さんではなくて、ドラムの松藤英男さん
カネボウ化粧品のCMソングでした。で、お聴き頂くのはですね
1980年8月の箱根・芦ノ湖畔で行われた野外イベントのライブバージョン」と田家さん

「ドラムスの松藤が歌ってくれる!」という甲斐さんの紹介から始まる
「ビューティフル・エネルギー」を流されたあと
「1980年3月に発売になった『ビューティフル・エネルギー』80年代最初のシングルでした

79年はですね『HERO』がですね、CMソングでミリオンセラーになってですね
まっ、その次のCMソングですから、やっぱりこう…
当然、その第2弾というのはですね、周りが期待する訳ですが
そこに全く違うアプローチでですね、ドラムの松藤さんをクローズアップしたのが
これがですね、当時のバンドの一つの戦い方でしょうね

つまり、バンドの勢いをですね、えー、使って、外部の力とどう拮抗して行くか
相手にですね、流されずに、それをですね、自分たちのものにして行くという
そのバンドの戦略的な、こう…意図というのがですね、この辺に見えますね

しかも、79年にですね、ベースの長岡和弘さんが抜けて、3人になった訳で
バンドの再出発というですね、旗も掲げなければいけなかった
まっ、そういう中で『俺たちはこういうバンドなんだ』ということをですね
こんな風に見せたという、そんな1曲でした」

…と話されてましたが、当時の甲斐さんは「松藤がね、すごいイイ曲を書いて来たのね
すごいキレイなメロディで…で、俺はそれを…ナンて言うのかな?
その曲に松藤の人生を懸けさせてあげたかった」という風におっしゃったそうで
ファンの皆さんはほぼ全員「松藤さん、結婚するんだ!」と思われたんですよね?(笑)

ちなみに…「ビューティフル・エネルギー」の歌詞に
ストーンズの曲みたいにWミーニングが潜ませてあるのは
「俺が歌うと生々しくなっちゃうけど、松藤のアノ爽やかな声なら…(笑)」と
松藤さんのボーカルありきで、お書きになったからなんだとか…

ともあれ…「で、80年代の始まりの曲ということで
もう1曲ご紹介しなければいけないのが、80年7月に出た『漂泊者』ですね
『漂泊者』と書いて『アウトロー』と読みます
これは、テレビドラマ『学園危機一髪』のですね、主題歌だったんですね

で、80年代初頭のですね、世間…世の中の出来事…まっ、社会状況
えー『荒れる学校』というのがですね、問題になっておりました
警察白書というのがですね、当時の校内暴力の発生件数というのを全部記録してますが
80年、81年というのはですね、校内暴力が発生した件数一番多いんです
それも、中学校だったんですね

そういう背景を舞台にして『金八先生』というのが、大ヒットする訳ですが
この『学園危機一髪』はですね『金八先生』よりもドキュメンタリータッチのドラマでした
で、1回目がですね『ガラスの動物園』というタイトルのドラマだったんですね
で、(挿入歌の)選曲がですね、甲斐バンドだった

テレビドラマの中でですね、全曲がそういう主題歌を歌った
バンドやアーティストの曲っていうのも、それまでに例がなかった記憶がありますね
しかも、70年代全くテレビに出なかったロックバンドをですね
そんな風にフィーチャーしたということでも
この『学園危機一髪』はですね、画期的なドラマでありました」と説明なさってましたけど

「金八先生」のモデルが、尾木ママこと尾木直樹さんでいらしたのに対し
この「学園危機一髪」は、今で言うところのフリースクールみたいな高校の校長
若林繁太さんの「教育は死なず」が元になっていることもあり
よりリアリティがあったんじゃないかと…?

第1話の「ガラスの動物園」で、田中邦衛さん演じる英語教師が
自分の英語が外国人に全く通じないと知り、酔って泣き叫ぶシーンは
「『聖職』に就いてる先生だって、やっぱり人間なんだ」ってことが
リアルに伝わって来て、今でも強く印象に残ってます

その第1話で、挿入歌として流れたのは
「この夜にさよなら」「ゆきずりの風」「翼あるもの」だったんですが
山田太一さんが、かつて甲斐さんに宛てた手紙に
甲斐さんの曲をご自身のドラマに使いたいと思っても
甲斐さんの作品は、しっかりした自分の世界を持っているから
ドラマの方が負けてしまいそうだと書かれた通り

甲斐さんのお書きになる曲は「情景が目に浮かぶ」曲が多いし
何より、甲斐さんの声に耳を奪われ、ドラマの内容が入って来にくいような気が…?(苦笑)
このドラマでも、やはり全編に渡って甲斐バンド尽くしとは行かなかったみたいで
通常のSEや無音で流した場面もありましたよね?(笑)

そうそう!この「学園危機一髪」の画期的な点といえば
「ナナハン・ドラマ」との番組枠名が示すように
午後7時半から9時までという「90分枠」だったこと
テレ朝の2時間ドラマ「土曜ワイド劇場」は始まっていたとはいえ
「火サス」はもちろん、スペシャルドラマなどもなかった時代に
「1時間モノ」じゃないドラマというのは、かなり異色だったなあと…

その「プラス30分」のおかげで、余裕があったのか?(笑)
主題歌を2分半、丸ごと流すことも前代未聞だったでしょうし
そのタイトルバックの映像も、男女の高校生それぞれの1日を描いた
一編のドラマのように凝ったものでした

そのタイトルバックには「主題歌:アウトロー・漂流者
甲斐よしひろ&甲斐バンド」とクレジットされていたんですが
奥さんによれば…当時、甲斐さんが「『漂流者』にするか『漂泊者』にするか迷ってて
その頃、ちょうどツアーで北海道を廻った時に、流氷をみたんで
『漂流者』にしようかと思ったんだけど
『ドリフターズ』と一緒になっちゃうのはチョットね(笑)」と話されていたんだとか…(笑)
そのクレジットが「漂泊者・甲斐バンド」に訂正されたかどうかは不明です(苦笑)

当初、レコード発売の予定はなかったものの、視聴者からの反響が大きくて
A面のみのレコードを番組プレゼントとして出したところ
80名の募集に80万通の応募があったらしく、緊急リリースが決定
佐藤剛さんが、カネボウ化粧品に出向かれ
「ビューティフル・エネルギー」とカチ合ってしまうことを謝罪なさったんですよね?(苦笑)

それはともかく…79年の春のツアーが終了後、長岡さんが体調を崩され入院なさったため
甲斐さんは「秋のツアーを中止する」とまでお考えになったくらい
「甲斐バンドは4人揃ってこそ甲斐バンド」と思っていらしたのに
結局そのまま、長岡さんは脱退されることになったり(汗)

80年1月に、長らく同棲されていた方と晴れて入籍なさった…と思っていたら
実は「3月の時点でもう家を出て、ホテル暮らしをしてた」りと
公私共に激動の時期を迎えておられた訳で(汗)
この「漂泊者」には、大森さんが、甲斐さんご夫妻の喧嘩の仲裁に入られた翌日に
作って来られたことに驚かれたというエピソードもありましたし

「バンドの勢い」とか「戦略的な意図」といったことだけでは説明がつかない
もっと壮絶なオーラみたいなものに包まれておられたんじゃないかと…?
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J-POP LEGEND FORUM(6/21)その2

2021-07-28 21:05:00 | メディア
甲斐バンド伝説の1つ、花園ラグビー場でのライブについて…
「で、2曲目に歌われたのが、1978年のアルバム『誘惑』の中の『翼あるもの』
この『翼あるもの』が始まった途端にですね
2万人のお客さんが、一斉にステージに押し寄せて来たんです」と田家さん

もちろん(笑)奥さんは「私は押し寄せてないけどね!
いきなり後ろから、なだれ込んで来られただけですけど、何か?(笑)」とツッコミ(笑)
両手を上げて手拍子していた時に、背中にものすごい圧力を感じ
「えっ!?」と思う間もなく、バンザイエビ反り体勢のまま、前へ前へと押し流され

「今、ここで倒れたら確実に死んでしまう」という恐怖と
呼吸もままならないほど圧迫された肉体的苦痛が
その後も数ヵ月間に渡って、ちょくちょくフラッシュバックしたらしく(汗)
いまだに「『花園で前に押し寄せた』と話す人には好感が持てない」んだとか…(苦笑)

ともあれ…「その時のですね、ライブバージョンをお聴き頂こうと思います
『翼あるもの』の花園ラグビー場バージョン
2019年の45周年ベスト『CIRCUS & CIRCUS 2019』からお聴き頂きます」
…と「翼あるもの」が流されたあと

「あの時、あそこにいたんですよね…ってことで
何かがですね、分かち合えたような気がするもんですけど
この会場にいらっしゃった方々がですね、今、何してんのかなあ?というのが
しばらく頭の中にありましたね」と振り返っておられましたが

我が家の住人は、あの大混乱の渦の中で、バッグを失くしてしまい
その中に入れていた通学定期…それも、夏休み明けに買って貰ったばかりの
…半年定期を紛失したことを母上に告げることが出来ず…って「そんなこと言った日にゃ
二度とライブになんか行かせて貰えなくなる!(汗)」という訳で
それから半年間、少しでも交通費を節約するために
最寄り駅の一駅先の駅まで歩いて、通学していたそうです(笑)

もっとも、当日はライブ終了後に、臨時の「落とし物預かり所」が設置されたり
数日後には、遺失物問合せの電話番号が発表になったりしたみたいだけど
残念ながら、バッグは行方不明のまま…(苦笑)
それでも「靴は両方揃ってたし、友達がポシェットを提げてライブを観てたから
電車賃を借りて、ナンとか帰って来られたし…」と奥さん

ラグビー場から最寄り駅まで歩いて行く途中には
片方だけの靴を持って、裸足で歩いている方々や、公衆電話の前に行列を作っている方々
その行列のそばや、最寄り駅の前で「お金を貸して下さい!必ずお返ししますから!」と
訴えている方々が大勢いらしたらしく、今ではライブそのものよりも
その終演後の光景の方が、より強く印象に残ってるんだとか…

「『翼あるもの』はですね、どのライブでも、お客さんは大合唱が起きるんですけども
今お聴き頂いて、お判りのようにですね、合唱が起きないですね
悲鳴のような声が記録されております
つまり、イントロが始まって途端にですね、お客さんが前に押し寄せて来たんですね

で、ステージはですね、当時、日本で使われた野外イベント用のステージの中で
一番大きかったでしょうね。ストーンズと同じものだって言ってましたから…
で、そこにですね、お客さんがこう…殺到した…2万人ですからね

芝生の上にですね、座布団が敷かれていたんですよ(笑)これがね、1981年ですね
野外イベントのノウハウなんか、何もなかったんですね。席をですね、座布団で示していた
で、お客さんが興奮して、自分の足元の座布団をですね、一斉に投げたんですね
そして、前に押し寄せて来た

あの空をですね、お客さんが投げた座布団が乱舞していて
何枚かの座布団がですね、ステージで歌ってる甲斐さんと松藤さんの胸にですね
当たったりするという、そういう光景がですね、繰り広げられました」と説明なさってましたけど「座布団」って…(笑)

実物は、30センチ角の厚さ2~3センチくらいのビニールシートなんですが
知らない方が、この説明をお聴きになったら
大相撲の土俵の上を座布団が飛び交う光景を思い浮かべられるんじゃないかと…(笑)

もっとも奥さんは「記念にお土産として持って帰って貰えるかなと思った」と
のちに、甲斐さんがおっしゃっていた通り
座席番号が記された、このビニールシートを目にした途端
一度も座ることなく、持っていたバッグに大切にしまい込んだみたいで
1曲目の「破れたハートを売り物に」から、この大切なお土産を
ステージに向かって投げるファンが、大勢いらっしゃることに心底ビックリしたらしい(笑)

ただ、この花園ライブの前年に行われた箱根・芦ノ湖畔でのライブは
日本に初めてブロック制が導入されたライブと言われているのに
花園ライブで、そのノウハウを採り入れなかったのは何故なんだろう?と思ったら
花園ラグビー場ライブは、最初から野外イベントを開こうと計画されたものではなく
大阪にある既存のホールでは、収容人数が少な過ぎるため、より広い会場をお求めになった
…というのが、そもそもの始まりだったみたいで

もちろん、他府県から参戦された方もおられたでしょうが
当初は、一大野外イベントというよりも、ちょっと大きめの地方ライブ的な扱いだったようです(笑)
まあ、そこに「ロックは格闘技だ!」という、甲斐さんの思いつき(笑)が
反映されたのであろうことは間違いないんじゃないかと…?(笑)

ちなみに…甲斐さんは、芝生の上にズラリと並べられたビニールシートをご覧になって
「大丈夫なの?これで…?」とお訊ねになったものの
「自分が買った席なんだから、その場でなら立っていい」という
甲斐さんのスタンディング・オベイション布教が浸透していたことで
周りの関係者の皆さんは、すっかり安心なさっていたため
「大丈夫ですよ!」と太鼓判を押されたそうです(笑)

それはともかく…
「もちろん、一番前に鉄柵はあったんですが、その鉄柵がですね
ズルズル、ズルズルとこう…ステージの方に、まあ動いて行くというシーンを見ておりましたね
カメラマンの井手情児が、真っ青になっておりました」と田家さん

映像で拝見する限り、甲斐さんがよく話されているみたいに
まるで電柱のような太い鉄柵ではないので(笑)
押し寄せるファンと、鉄柵を両手で支えて踏ん張っておられるスタッフの皆さんの間で
ボキッと折れてしまいそうだったし
2万という数の人流が、背後に迫って来たら、どなたでも真っ青になりますよねぇ…(汗)

「で、6曲目に『嵐の季節』という曲が歌われて
甲斐さんがですね『怪我人が出そうなんだ!一歩下がってくれ!』っていう風に言って
そこで、いったん空気が変わるんですね」…って
伝説の「説教タイム」なのに、そんな優しい言い方でしたっけ?(笑)

奥さんは、流されるだけ流されながらも、真っ直ぐ進めば
鉄柵と人流の間に挟まれ、身動き出来なくなってしまうと思い
少しずつ外側へ向かう流れの方に体を斜にして
早く甲斐さんが気づいてくれないかと念じつつ
ナンとか、楽に呼吸が出来る辺りに辿り着いた…と思ったら
元いた場所からは程遠い、後方の見切れ席の辺りだったらしく

甲斐さんが「センターの後ろ、下がれ!2メートル!」とおっしゃった時に
思わず「イヤイヤ!『元の席に戻れ!』でしょ!」と口答え(笑)
なんせ、せっかく3列目ど真ん中という夢のような席を手にしたのに
その幸せは「破れたハートを売り物に」1曲分しか続かなかったもので…(苦笑)

まあ、それを言うなら「翼あるもの」から「嵐の季節」まで
間違いなく演奏されたはずの5曲も全く記憶にないみたいだし(苦笑)
説教タイムが挟まったせいで、カットされてしまった曲もあったでしょう
奥さんが「THE BIG GIG AGAIN」開催決定を聴いた時に
「花園ライブで予定されていたセトリ通りのライブもやってよ~!」と
切に願っていたのもムベなるかなと…(苦笑)

「で、甲斐さんは、打ち上げで『オルタモントにはしたくなかったんだ』って言っとりましたが
この花園ラグビー場のですね『翼あるもの』
これはもう、まさにライブ伝説そのもののような曲
たぶん、この花園のライブバージョンがですね
CDになったのは、これが初めてだと思います
1981年9月13日、花園ラグビー場のライブバージョンで
『翼あるもの』をお聴き頂きました」と紹介なさってましたが

「CIRCUS & CIRCUS 2019」収録の「翼あるもの」の音源は
ライブCDのBOXセットの中に収められた「花園ラグビー場」の中のものですよね?
まあ、この日は「破れたハートを売り物」と共に「翼あるもの」も2回演奏されたそうで
…って、奥さんは、甲斐さんが「『♪今夜かぎりね♪』と歌いたくない」と
「翼あるもの」に差し替えられた「きんぽうげ」が聴きたかったみたいです(笑)
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J-POP LEGEND FORUM(6/21)その1

2021-07-27 15:25:00 | メディア
第3週目の放送内容をご紹介する前に、6月16日付の田家さんのブログには…
「甲斐バンド特集、後半2週…2週間分のまとめ録り
今日、収録したのは、3週目と4週目…『1980年~82年』『83年~86年』という2本

判りやすく言うと…『HERO』以降、70年代のアルバムの中にあった
青春の残滓のようなヒロイックな生々しさが、大人の痛みに変わって行った時期
ハードボイルド色が色濃くなって行った時期…そして、解散のドラマですね

全部のアルバムを聞き直しましたよ
自分の本や、当時書かれた記事を読み直したり、色んなことを思い出しました
自分にとっても青春だったなあという感じでした
特に『虜』『GOLD』の辺りは、そういう感じでした
『ラブ・マイナス・ゼロ』を加えた、ニューヨーク三部作の頃ですね

ニューヨークに取材で同行してましたからね
思い出すことが多いのも当然な訳ですが
でも、今思うと、あれだけの規模のレコーディングをよくやったなという感じですね
ボブ・クリアマウンテン、ニール・ドーフスマンという
2人のグラミー賞エンジニアを起用して、現地で作業している訳ですからね

僕も音楽プロパーのライターだった訳でもなく、業界のことをほとんど知らなかった
1枚のアルバムを作る工程とか、コストとか、今なら当然思い浮かべるようなことも
当時は考える余裕もなく、はしゃいでおりました

あの時代の音楽状況とか、その中での、どのくらい大胆な冒険だったのか、今の方が判ります
そういうものかも知れませんが…それが若かったということなんでしょう
もっと語られるべきことが沢山あった。違う評価をされて、しかるべきだった
自分も含めて、あの頃のメディアとか
音楽ライターの力量不足だったということなんだろうな…と、改めて思いました」

…と記されてますが、甲斐さんも「この国は何でも3回やらないと判らないから(笑)」と
ニューヨーク三部作の3作目である「ラブ・マイナス・ゼロ」をリリースなさった時に
ようやくメディアが注目してくれたと明かされてました(苦笑)

「でも、楽しかったです!FM COCOLOのスタッフのご主人が、甲斐バンド好きで
82年に出た写真集『1982 BEATNIK』を、スタジオに持って来てくれましたし
自分で作ったのに、僕、持ってないんですよ
珍しくスタジオの中にギャラリーがいるという感じだったんで
思いきり力んでしまいました」と田家さん(笑)

その写真集の中に、マイクスタンドを蹴り倒して、ステージを降りてしまわれたライブのあと
路地に座り込んでおられる甲斐さんの姿が掲載されているのは
「撮っていいんだろうか…」と戸惑われていた井手情児さんに
田家さんが「撮った方がいい」と声をおかけになったからなんですよね?

「4週間で何曲流せたんだろう?…8曲ずつで32曲か
『ポップコーンをほおばって』と『破れたハートを売り物に』は
時期の違うバージョンで、2回流しましたから、30曲か…流したい曲の7割は入ったと思います
『そばかすの天使』『昨日のように』『昨日鳴る鐘の音』
『荒野をくだって』が洩れたのは残念でしたけど…

自分の番組で、甲斐バンドの曲をかけるのは
去年『LEGEND FORUM』の『ライブ盤特集』で
79年の武道館ライブを流したのが初めてかな?
(甲斐バンド特集を)やるのなら、他でやらないような徹底したものにしたかったんで
『終活番組』にふさわしい内容になったんじゃないでしょうか
思い残すことが、またひとつなくなりました(笑)

もっと語られるべきなんだよなあ…というところから始まりましたからね
洋楽マニアで、甲斐バンドは全く聴いてなかったという、60年代生まれのディレクターは
終始『そうだったんですか』『勉強になりました』を連発してました
そういう人に聴いて貰えたらなと思ってたんで、初期の目的も果たせた感じでした

たぶん、今までの放送のテンションとは、少し違うかも知れないんで
そのへんもお楽しみ頂けたらと思います
あれから35年…6月の特集『甲斐バンド』…無事終了しました
あ、もちろん放送はこれからですけど(笑)」
…と綴られていて「やりきった感」満載でいらっしゃいましたが(笑)
確かに、前回・前々回よりも、声の調子が明るくて、テンション高めなご様子?(笑)

もっとも、奥さんによれば、甲斐バンドの男性ファンが激増したのは
ナンと言っても「HERO」以降、次いでニューヨーク三部作の頃らしく
田家さんは、甲斐さんがセイヤングのパーソナリティをなさってる時から
甲斐さんのことをご存知だったそうですけど

甲斐バンドへの取材という形で、正式に甲斐さんとお会いになったのは、78年12月…
つまり「HERO」リリースの直前みたいですし
ニューヨークに同行なさった頃のことが、一番印象に残っておられるようですし
男性ファンの皆さんが、甲斐バンドの「虜(笑)」になられたのと時期を同じくされている…
というか、ここからリアルタイムで、甲斐バンドとその楽曲に接し始められた訳で
そういう意味では、一番身近におられた男性ファン代表という感じだったのかなあと…?

ただ、田家さんが、当時の音楽ライターの中で
甲斐バンドの楽曲のバックボーンについて、唯一反応なさったと
お名前を挙げられていた萩原健太さんが、甲斐さんに初めて取材なさったのも
やはり、ニューヨークで「虜」をお作りになった頃ですし
その後、かなり音楽的な内容の記事をお書きになっていたんじゃないかと…?

まあ、一方で、その男性ファンが増加した時期に
甲斐バンドから離れて行かれた女性ファンが、少なからずいらっしゃったのも事実らしく
結婚や出産など生活環境の変化による場合もありつつ
やはり、当時の甲斐バンドに「ついて行けない」と思われた方が多かったというのは
それだけ甲斐バンドが進化したってことなんでしょうね?

さて、その第3週の放送は…「今流れているのは、甲斐バンドの『破れたハートを売り物に』
1981年11月発売のアルバムタイトルの曲です
2019年に出た45周年ベスト『甲斐バンド HEROES』からお聴き頂いてます。今日の1曲目です

音楽変わりましたでしょ?歌のバックで乱舞しているアフリカン・パーカッション
そして、エコーのかかった太いドラム
『生きることを素晴らしいと思いたい』というですね、生きることへの真っ正面からの肯定
80年代の新しい世界が、ここから始まった…そんな1曲です」…という言葉で始まり

「2021年6月の特集は甲斐バンド…
1974年にデビューして、1986年、解散公演としては
当時史上最大の武道館5日間公演で解散しました
70年代のはっぴいえんどから、80年代のBOOWYにかけての最重要バンド
まだロックバンドが不遇の時代に、不退転の活動を続けた彼らの12年間
栄光の12年間を辿ってみようという1ヶ月です

今週はパート3…70年代から80年代…『HERO』以降ですね
世界の音楽状況が激変する中で、メジャーシーンに躍り出た
不屈のロックバンドが、どう80年代を迎えたか?
えー、その1つはですね、野外イベントですね
1980年の箱根・芦ノ湖畔、1981年 花園ラグビー場
1983年 新宿西口新都心、全て野外でした

85年には、初めての両国国技館…コンサートに初めて使ったんですね
誰もやってなかった場所で行なうというのはですね、彼らの旗印でありました」…って
甲斐さんの、いわば「思いつき(笑)」で発せられた言葉を実現させるために
周りの方々やスタッフの皆さんが、どれだけ苦労なさったか…を
少し聞きかじっただけでも「本当に頭が下がるよ」と奥さん
当時は、そんなご苦労にまで考えが及ばず、ただただライブを楽しんだみたいだけど…(苦笑)

ともあれ…「で、この『破れたハートを売り物に』は、一番最初に歌われたのがですね
1981年、伝説の花園ラグビー場なんですね。1曲目だったんですよ
あの…打ち込みの曲なんで、ドラムの松藤さんがですね、ドラムセットの所にいないで済む
松藤さんと甲斐さんがですね、ステージのフロントで並んで歌ったんですね」

…と説明なさってましたが、当時の松藤さんが、ドラムセットから降りて来られるのは
ライブ中盤のアコースティックセットで、生ギターをお弾きになる時と
メンバー紹介の時…今はドラムセットの上におられますけど…だけだったらしく
「かなりの衝撃映像だった(笑)」んだとか…(笑)

まあ、そんなオープニングに観客が大いに高まったことも
花園ラグビー場でのライブが「伝説」となる一端だったのかなあと…?
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J-POP LEGEND FORUM(6/14)その4

2021-07-26 14:07:00 | メディア
「♪スポットライトはどこかのスターのもの♪」と歌っていた甲斐バンドに
「スポットライトが当たるようになりました
彼らは、それをどうハネ除けようとしたか?
象徴的だったのは『ザ・ベストテン』に出演した時の出来事ですね」と田家さん

「彼らは、東芝EMIのスタジオにいて、そこにTBSがカメラを持ち込んで放送した
その東芝のスタジオで行われていたのは、NHK-FMの…甲斐よしひろが出演していた番組
『サウンドストリート』の1周年記念ライブだったんですね
本来は、NHKのスタジオでやるはずだったんですけど
NHKのスタジオにTBSのカメラは持ち込めないということで、東芝EMIのスタジオでやったと…

甲斐さんは、そこで水割りを片手に歌を歌って、茶の間の顰蹙を買いました
『あの若者はナンだ!』『テレビに水割りなんか飲みながら出るのは不謹慎だ!』と
バッシングされたことがありました
番組には出るけど、俺たちは媚びを売らないということを身をもって示した」
…と、いわゆる「水割り事件」に触れておられましたが

メンバーがTBSのスタジオに行くのでも、ライブ会場に中継カメラを入れるのでもない
この「第3の方法」を実現させた、NHKの「ミスター太っ腹」ディレクター氏自身が
「ハッキリ言って異様でしたね。でも、その異様な感じを見て『あ、これで大丈夫』と思ったんですよ
この異様な感じを出せれば、テレビに飲み込まれないで済むって思った
もし、あの時にすんなりテレビに同化してたら、負けてたでしょうね」とおっしゃっていて

それは、甲斐さんが「INVITATION」で話されていたこと…
「たまに(テレビに)出る映画スターが歌うと
ナンかブラウン管からハミ出してるじゃないですか
(企画サイズにハマらない)あの感じが、すっごいイイなと思ってて…

ナンか、ああいう感じのイメージなんです、僕、ロックミュージシャンって…
まっ、テレビにはほとんど出なかったんですけど
出る時は、ああいうハミ出した感じで出て行かないと面白くないなっていうのは
ナンか、自分のプランの中ではありましたよね」…に通じるものがあるような気が…?(笑)

ともあれ…「『HERO』が収録されたベストアルバム『甲斐バンドストーリー』も発売されて
シングルとアルバム両方でチャート1位を席巻している時に作られたアルバムが
1979年10月に出た『マイ・ジェネレーション』…から、お聴き下さい
これも、1979年12月の武道館ライブバージョンです」と「三つ数えろ」が流され

「ザ・ローリング・ストーンズが『俺たちにはストリートで踊ることくらいしか出来ない
俺たちはストリートで戦うことしか出来ないんだ』と言った、1970年代の終わり頃の東京…
大都会の若者たちのさまよえるパッションと言うんでしょうか

ザ・ビートルズに始まり、ザ・ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイ
ロキシー・ミュージック、ブライアン・フェリーら、イギリスの洋楽をモチーフにしながら
日本の若者のリアリティをずっと歌い続けて来たのが
その頃の甲斐バンドだったと言っていいでしょうね」と田家さん

でも「ストリート・ファイティング・マン」のような歌を歌いたい
政治を端的に歌うことが合ってるんじゃないかと思って上京して来た若者は
神田の舗道に敷石がないのは、学生運動が華やかなりし頃
学生たちが機動隊に敷石を投げつけたため
お役所がコンクリートで固めてしまった…という話を聞いて
「遅かった…」とショックを受けたんですよね?(苦笑)

もっとも、そのおかげで「男と女の話の隙間から、社会が見える」
ラブソングを書くことになさったみたいだし、胸が締めつけられるような名曲が生まれたなら
「遅れて来た全共闘少年」で良かったんじゃないかと…?

それはさておき…「この『三つ数えろ』も映画がありまして
1955年に公開された、ハンフリー・ボガートの主演作です
原作は、レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』という小説で
映画の中には、名探偵…私立探偵のフィリップ・マーロウが登場する作品でした

これが『三つ数えろ』というタイトルで、1970年代の終わりに甦っている
(甲斐さんの)映画好きと小説好きの一面であり
それから、ハードボイルドというのは、今後さらに色濃くなって行くテーマです
…と、その後の「ニューヨーク三部作」に触れられ

「甲斐バンドの歴史は『HERO』以前・以後に、明らかに分かれてますが
これは、ヒット曲ということだけではなく
1979年の前半のツアーの最終日で、ベースの長岡和弘が抜けて、休止期間があった
そして、1979年の秋のツアーに入って行くんですけど、初日はNHKホールです

NHKホールをロックに初めて使ったのが甲斐バンドですね
それまでは、小椋佳さんやユーミンは(ライブを)やってましたけど
ロックバンドには、なかなか敷居が高い場所でした
そこで、甲斐バンドが初めてコンサートを行って、テレビでも放映されました」

…と説明なさってましたが、これを実現させたのは
やっぱり「ミスター太っ腹」氏だったんじゃなかったっけ?(笑)
甲斐さんは、紅白歌合戦出演オファーをお断りになった際に
NHKホールの使用とテレビ放映を申し入れたとおっしゃってましたけど…(笑)

その番組に「ヤング・ミュージック・ショー」という
海外のミュージシャン…エルトン・ジョン、ストーンズ、キンクス、ディープ・パープル
オールマン・ブラザーズ・バンド、ロキシー・ミュージック等々…のライブ映像を流す
不定期番組のタイトルが付けられたことを、ものすごく喜んでおられたんですよね?(笑)

それはさておき…
「アルバム『マイ・ジェネレーション』のリリースと同じ月にシングル『安奈』が出ました
これは、チャート4位のヒット作となりました
今日は、1979年12月の武道館ライブでの『100万$ナイト』で締めたいと思ったんですが
9分以上あるので、この『安奈』を…1983年のライブ
『THE BIG GIG』のバージョンでお聴き下さい」

…と「安奈」を流されたあと「この話は、来週のテーマにもなるんですけど
この『THE BIG GIG』は、1983年8月7日に、新宿の都有5号地…
今の東京都庁がある一角で行われた、甲斐バンド3回目の野外ライブですね
あそこで2万人くらい集まって、こういう一夜を過ごしたということを
小池百合子都知事は、ご存知ないでしょうね(笑)

甲斐バンド 栄光の軌跡パート2…1970年代から1980年代にかけての
新しい時代を切り開いた栄光のロックバンド・甲斐バンドの12年間を辿っております
今週は、1977年から1979年までお話ししました

1970年代から1980年代の変わり目というのは、本当に色々なことがありました
1人のアーティストやバンドのコンサートが象徴してることで言うと
この甲斐バンドの、1979年と1980年の12月に2日間ずつ行われた武道館公演ですね
ロックバンドがメジャーになって行く瞬間と
時代が変わって行くんだということの記録として、今でも鮮明に思い出すことが出来ます

1979年の武道館の『100万$ナイト』では
甲斐さんが『1979年のドラマは全て終わりました。俺たちは80年代に行きます』と歌い始めた
その1年後、1980年12月の武道館での『100万$ナイト』
この日は、ジョン・レノンが殺された日だったんですね
甲斐さんは、集まってくれた人たちへの感謝を口にして
最後に『逝ってしまったジョン・レノンのために…』と言って歌いました

1979年12月と1980年12月、それぞれの『100万$ナイト』は
時代の変わり目を物語っていました」と話されてましたが
79年は、いわゆる「ニューミュージック」系のアーティストが
軒並み武道館ライブを行うという「武道館ラッシュ」の年で
そのステージ演出には、当時最新だったレーザー光線を用いるのがトレンドだった中

甲斐さんは「武道館だからって、特別なことはしない」と
地方の会場と同じ舞台装置や照明でライブを行われたんですよね?
その姿勢は、そのまま翌年のツアーでも貫かれ…って
逆に「武道館と同じセットを持ってツアーを回る」ことになった訳で(笑)
会場の規模や設備によっては使用出来ない機材も全て運んでいらしたようです

ただ、その当時のミュージシャンにとっての武道館は
数々の外国ミュージシャンがライブを行なった「聖地」とも言うべき
ある種のステータスを示す場所だったにも関わらず
「武道館でライブをやるって言っても、小さな記事にしかならなかった」ことが
甲斐バンドの「誰もやったことがない場所」でのライブに展開して行くなんて
その時は想像できなかったんじゃないかと…?(笑)

ともあれ…「先週も今週も、RCサクセションの名前が出て来ません
RCサクセションのファンは沢山いらっしゃるでしょうし
日本のロックバンドの歴史で言うと、RCサクセションは欠かせない存在です

はっぴいえんどからBOOWYの間に、RCサクセションが抜けてるよと
ツッコまれる気がしてるんですけど
実はその頃、RCサクセションはまだ見えてなかったんですよ
渋谷・屋根裏で爆発寸前ライブを繰り広げるようになったのが、1980年の終わり
チャボさんが加入して、5人体制になるのがこの頃

1979年12月は、武道館ラッシュがあって
その中の1組・Charさんが武道館ライブをやった時に
まだ、どうなるか判らないRCサクセションが、ゲストで呼ばれてました
当時のバンドシーンの最前線は甲斐バンドだったと、声を大にしながら、また来週…」
…と、甲斐バンド特集パート2は終了♪
確かに、武道館ラッシュの翌年、何組のアーティストが
再び武道館のステージに立ったか?を考えれば
田家さんの最後の言葉は、決して誇張ではないと思えますよね?
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