読書な日々

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「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。」

2006年09月09日 | 評論
佐藤幹夫『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』(PHP新書、2006年)

以前読んだ小森陽一の「海辺のカフカ」論もそうだけど、村上春樹論が面白い。私の場合、彼の文章の上手さに「騙されて」、なんだかそこから深く読もうとか、登場人物や彼らのセリフの意味を考えてみようという気にならない。文章の上手さに、それがもつ非日本文学的雰囲気に酔っているところがあるからでしょう。そういう気分だけの読者に、村上春樹の軽妙な文体のうらに隠された姿を深読みによって見せてくれるのが、この評論ですね。じつみ面白い。

だいぶ前にテキスト相互性ということが、あれはロシアのフォルマリズムの人でしたか、言われて、日本でも語感のよさもあって、けっこう流行ったようですが、これなんかは特別なことではなくて、芸術を含めてあらゆる人間の理性的感性的思考にはつきもののものだと思うのですね。先人の残した作品、研究、哲学的思考を土台にして新しいそれらが出来上がるのであって、それらなしに新しいものを生み出すことはできないのでしょう。問題はそれがどのようなかたちで組み込まれているかということを解きほぐしてみせることにあるのかなと思います。この評論の場合は、だれも指摘しなかった、そして作者自身からは「日本の小説はほとんど読まなかった」というコメントがあるだけに、だれも見向きもしなかった日本戦後文学の巨匠たちとのテクスト相互性を指摘してみせたことは、この評論の素晴らしいところでしょうね。まさか太宰の『人間失格』と第一作の『風の歌を聴け』がそのあらすじのレベルでも比較対照できるとは、『ノルウェイの森』が三島の『春の雪』を、『ダンス・ダンス・ダンス』が『奔馬』を意識して作ったものだなんてねー、だれも思わないでしょう。

もう一つこの評論で感心したのは、研究者の論文によくあるような、対象になっている作品そのものを碌に読みもしないで、他人の研究論文ばかり詮索しているということが、いっさいないということです。この人は「ウラをとる」といういいかたをしますが、ようするに作品を何度も読み返して自分の主張の論拠を探してくるという作業を丹念に行なっていることです。けっしてだれそれの研究者がこう言っているから、○○が言うように、などという根拠づけはいっさいしません。そして作者自身の発言もそのまま信じるというようなことはせず、必ず作品ではどうなっているかを調べるという態度が、じつに素晴らしい。凡百の大学教授の書くものよりも、どれだけ素晴らしいか。

これを読んで私は「村上春樹って何者?」と思いました。彼はいったいどういう理由で作家になったのだろうか、彼が太宰や三島をこれほど意識して、この評論家の言うところによれば「村上春樹にとっては死は生の一部である」というテーゼを作品化していこうとするモチベーションとはどこからきているのか、など分からないところが、もっと出てきましたが、もちろん、こういったことを知りたければ、自分で彼の書いたものを読んでいくしかないのでしょう。

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