読書な日々

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「海辺のカフカ論」

2006年07月04日 | 評論
小森陽一『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』(平凡社新書、2006年)

この本を読み終えて、私は呆然としているというのが、正直な感想である。『海辺のカフカ』は2月に読んだばかりで、このブログにもそのときの感想を書いているが、それを読み返してみると、あらすじを紹介した後、「私には村上春樹がこの作品でなにを訴えたかったのかよく分からない。でもヤンキーだった星野さんが芸術を理解するようになり、人とそういう話をして理解し合えるようになったところに注目したい」というコメントを書いている。正直言って、村上春樹がこの小説でなにを言いたかったのか私には分からなかったが、星野くんという人物やナカタさんの無垢そうな人物造形に、ある種の「なごみ」のようなものを感じ、作者がいいたかったのはもちろんそれではなかったのだろうけれども、それに多少とも安堵のようなものを感じていた。私は、この小説が出版された2002年頃にはこの小説のことはいっさい関心がなかったし、したがって出版社が作り上げた販売戦略がこの小説を<救い>とか<救済>の方向で読ませようとしていたことも知らなかった。ところが何の予備知識もなく読んだのに、当時の大方の読者の感想とおなじような感想を抱いていたので、この批評がこの小説のもっている反社会的な意図をつきつけてきたとき、呆然となってしまったというわけだ。小森も冒頭でこうした反社会性を読み取ったのは作家の角田光代しかいなかったことを指摘しているので、私が上のような読み方をしたとしてもしかたなかったのかもしれない。ということは逆に見れば、この小説には小森が指摘したのとは別の読み方も可能だということではないだろうか。

もちろん小森の読みは、この小説を時代の流れのなかに置きなおすとか、この小説のあちことにちりばめられている先行する文学や芸術とのテキスト相互性からの読みなど、作品解釈の正道を行っていることは確かだ。オイディプス神話の利用、『千夜一夜物語』にみる女性蔑視、夏目漱石の『坑夫』や『虞美人草』にみる女性蔑視、ナポレオン軍という近代国民国家のもとでの近代戦争への執拗なイメージ喚起、1944年11月7日という岡持先生が中田君を叩いた日の意味(大岡昇平の『レイテ戦記』から読み取る)、ナカタさんの記憶欠落の意味、佐伯さんのノート焼却の意味などなど、小森はぼんやりと読んでいたのでは決して見えてこない作品の重層的な意味産出構造をつぎつぎと暴いてみせる。

もちろん作者である村上春樹がどこまで意図していたのか、意識して書いたことなのか、いったい作家活動の7年の空白以前に書いた『アンダーグラウンド』のあと彼に何が起きたのかという問題は、またまったく別の問題であることは分かっている。作者村上春樹はこの評論にどのような反応を見せるのだろうか。

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