読書な日々

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『寝ながら学べる構造主義』

2009年05月05日 | 人文科学系
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002年)

「サルでも分かる」とか「寝ながら学べる」とかいったキャッチコピーの本は、だれでもそうだろうと思うが、人を馬鹿にしていると反発してしまうし、だいたい構造主義ってもう過去の話じゃないのと思っていたので、あの内田樹がまたなんでいまさらこんな本をと思っていたこともあって、ずっと存在は知っていたけれども、手に取ることがなかった。連休前に図書館の返却棚においてあったので、ちょっと手にしてぱらぱらと読んでみたら、やっぱり内田樹の書くものはちがうと分かった。

私も学生時代に構造主義はかなり勉強したつもりだったし、20世紀(そして21世紀の初頭であるいまも)の人文系の知はすべてマルクス、フロイト、ソシュールの遺産で食っていると考えていたけれでも、流行に流されただけで、彼らの遺産がいかに現代のイデオロギーに浸透しているか、つまりパラダイムとなっているかということを理解していなかったのだなということがこの本で分かった。本当にたくさんの発見があった。

たとえば、いまの時代がポスト構造主義の時代、つまり構造主義的イデオロギーが支配的になった時代であることを示すものとして、内田は、絶対的な正義とか絶対的な悪が存在すると考えられていたのは1960年代までのことだという例を挙げている。たとえば1950年代のアルジェリア独立戦争にたいして当時の支配的イデオローグであったサルトルがあれかこれかのうちアルジェリアを支持する立場を表明し、アルジェリアに「絶対的正義」があると主張したこと、そしてどちらにも一理があり、どちらも間違っていると主張したカミュが孤立無援であったこと、ところが現在ではアフガンへのアメリカ介入をどちらが正しいともいえないという考えが「常識」になっていることを挙げて、構造主義的イデオロギーが支配的になった現在では世界の見方は視点が変われば変わるという考え方が当り前になったと指摘している。(相対主義)

構造主義の始祖であるソシュールの「構造主義言語学」(ソシュール自身はこんな命名はしていないけれども)は、言語はすでに存在するものに名前をつけたものではなく、それぞれの言語においてアナログな世界をデジタル的に切り取った結果であるとみなした。つまり語のもつ価値はそのシステムによって(つまり関係性によって)決まるということを明らかにした。(価値関係性)

この発見が東欧、ロシアのプラハ学派に受け継がれ、構造主義と命名され、さらにレヴィ=ストロース、ラカン、バルト、フーコーたちに継承されて、人文的分野での知を一変させてしまうという流れを示してくれたので、私の頭もすっきりした。あれやこれやをばらばらに読んでいた私はそのへんの流れがよく分かっていなかったみたい。

ソシュールの提示した構造主義的言語観は、その隣接分野にさまざまに波及していった。言語が関係性の網の目によってできており、すべては関係性のなかで決まるという見方は、主体性の揺らぎという考え方につながった。これまでデカルトの「我考える、ゆえに我あり」という定理に見られるように、主体というものがあらゆる思考・経験にさきだって確固たるものとして存在しており、そこから議論を出発させたものだったが、構造主義はこの主体性そのものが関係性の中で決まるものとして否定した。そして言語がラングという上位の規制とは別にもっている下位の規制がエクリチュールであることを示したのがバルトであった。エクリチュールという語は私も何気なく使ってきたが、こんなに明確な説明を見たのは初めてだ。バルトは「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の「自然」を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである」と書いているそうだが、言語はまっさらな客観的なものではなく、すでに色眼鏡であるということで、なにかを書くということは他者の言葉を繰り返している、というか編み直しているに過ぎないということの発見、そして書かれていることは、読むという行為のなかでしか発現しないことになり、それはまさに作者の死を意味するということへと議論は展開する。

人間はいまあるものは昔からずっと同じように存在していたと考えがちだが、制度にはつねに起源があるということを明らかにしたフーコーの議論も興味深い。「標準化」は思考だけでなく身体にも及ぶと指摘している。ナンバ走りの追放、三角座りによる身体の隷属化など、考えも及ばなかったことを指摘されて、驚くやらあきれるやら。ヨーロッパでは近代(つまり17世紀)になって狂気が正気と区別され医学的分類にふされるようになったということだとすれば、日本の近代はやっと明治時代になって始まったと見てもいいのかもしれない。

レヴィ=ストロースの親族構造の研究は、私も一応読んだのだけどよく分からなかったのだが、ここでの解説はよく分かった。すべての親族構造は二ビットで表せるという解説のしかたはなかなかのものだと思う。レヴィ=ストロースが発見したという不思議な法則の話、満男と寅さんの関係、ほほーでしたね。

これは前にも書いたことがあるが、私は、たとえばビートルズの曲を初めて聴いたとき、これいい曲だなと思うと同時に、この歌はずっと前からあり、いつも私は流行おくれの人だと考えていた。構造主義によれば、人間はいつも目の前にあるものはずっと前からあると思いがちだし、それは私が子どもから大人になるにあたって、世界は「すでに」分節されており、自分は言語を用いるかぎり、それに従うほかない、という「世界に遅れてやっていた」ことの自覚を刻みこむことの結果だという。それが「エディプス」と呼ばれる社会化のプロセスだということを構造主義は明らかにした。私もそうやって大人になったのだろう。私が自分のことをいつも流行おくれと思い込んでいたのは故なきことではなかったということが、これで分かった。

内田はここから「こぶとり爺さん」の話の「教訓」は「差別化=差異化=分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは、理解を絶しているが、それをまるごと受け容れる他ない」と子どもに教えることだと書いているが、ほんと、すごい!と思わずうなってしまった。

まったくスリリングな話の展開にけっして睡眠導入剤にはならないと言う意味で、たしかに「寝ながら学べる」本であった。内田樹さんて、ほんと、すごいわ。

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