goo blog サービス終了のお知らせ 

読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『プレートテクトニクスの拒絶と受容』

2008年11月21日 | 自然科学系
泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容』(東京大学出版会、2008年)

おぼろげにしか記憶にないのだが、私が初めてプレートテクトニクス理論(PT理論)を聞いたときに思ったことは、「そんな馬鹿な、地表をそんな板みたいなものがうごいているわけない」というものだったが、今にして思えば地球は丸いという説を初めて聞いた昔の人が「そんな馬鹿な、丸かったら落ちてしまうがな」と馬鹿にしたのに似ていた。この感想そのものは素朴な日常経験に基づいているのだが、それゆえにまったく先端理論には理解できなかった昔の人と同じだね。

ましてや、別の理論をもち、それで一時代を形成してきた研究者なら、余計に自分の理論が意味を失ってしまうような理論には拒絶反応を示すのは、まぁ普通でしょう。しかしそれが民衆のための科学、民主的な科学を標榜してきた団体やその幹部であるのなら話は別だ。自分を否定するような理論に対しても真摯な態度を失ってはいけないのであって、いわんやアメリカ帝国主義の国の理論だなんて言いわけで拒絶するなんてもってのほかだ。

この本は1950年代から60年代、さらにプレートテクトニクス理論との関係で言えば、1970年代の地質学会を支配してきた地学団体研究会の幹部たち(とくにスターリンの崇拝者だったらしい井尻正二)がPT理論にたいして拒絶の反応を示したことで、PT理論の受容が日本で大幅に遅れたことの次第を緻密に研究したもの。

たぶん1970年代の初めに高校時代を過ごした私も、彼らが主張した地向斜造山理論というものを地学かなんかで習い、日本列島はそうやってできたと信じ込んでいたのだろう。だからPT理論を初めて聞いたとき、拒否反応を示したに違いない。(右のイラストはANS観測網という地震観測関係のサイトから借用しました。http://www.ailab7.com/)

ちょうど今年30回で終わることになった東京女子マラソンが始まった頃に、「女性がフルマラソンを走るなんて、無理だ」と決め込んでいたのに似ている。どうも私も思い込みというのか偏見というのかそういうものが強いのだろう。頭を柔軟にしかないといけないな。

それにしてもしてはいけないことは、きちんと総括もしないで立場を変えることだ。組織としてPT理論を拒絶したことはないと言い逃れするのはみっともないよ。

かつて上田耕一郎がソ連の核を「きれいな核」と言っていたというから驚きだが、しかし当時の米ソの冷戦構造がいかに一触即発で世界戦争になるかもしれないほどの緊張感をはらんでいたことや、そのあいだにあった日本人を強烈に支配していたかということを考えれば、そういう発想になったことも理解できないことではない。ただ核開発が何回も地球を破壊できるほどの核兵器を作り出したことやチェルノブイリ原発事故などを見れば、それが誤りだったことは明白だろう。だから総括をしてそれを公表すべきなのだ。人間、間違ったことに気づいたときの行動こそ、その真価が問われるのではないか。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『「地球温暖化」論に騙され... | トップ | ロードバイク講習会 »
最新の画像もっと見る

自然科学系」カテゴリの最新記事