仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

多様性を再考する②

2022年04月25日 | 現代の病理

『多様性を再考する マジョリティに向けた多文化教育』 (2021/12/23・坂本光代編集)、の続きです。

 

特権 「特権」の概念 北米社会と白人特権の考察 出口真紀子

 

 日本ではまだあまり馴染みのない[特権]という単語は、英語の「プリビレッジ」の訳語で、[特別の権利。ある身分・資格のある者だけがもっている権利]または「特定の職務にある者が、その職務の故に与えられている特別な権利。例えば外交官特権など」と定義されている(文省堂大辞林第三版)。

日本では、「学割が使えるのは学生の特権だ」「お酒が飲めるのは大人の特権だ」、また、国会議員の不逮捕特権(国会会期中は逮捕されないなど)といった使い方が一般的である。つまり、使い方に共通しているのは[一時的]な立場・役割で自動的に恩恵を受ける、または努力等によって得た職務による権力という点である。しかし、アメリカの社会的公正(socialjustice)や反人種差別運動の文脈で広まった特権の概念は「あるマジョリティ性のアイデンティティを有した社会集団に属することで、労なくして得られる優位性」と定義されている(Mdntosh,1989)長持って生まれた「属性」(性別、人種・民族、社会階層、性的指向、性自認等)すなわち[アイデンティティ]によって自動的に受ける恩恵であり、原則として努力によって得たものではない、という認識の上に立つ。本章では社会的公正の文脈での「特権」について掘り下げていく。

 特権は持っている側か自分の持っている特権になかなか気づけないという特徴がある。例えば大卒の両親のもとに生まれた子どもが「T大学に行くのは当たり前」とされる環境で育つことで大学生になった場合、大抵は「自分が受験勉強をがんばったから合格し、大学生になれた」と本人の努力と能力が合格の要因だと語ることが多いが、実は自分では気づいていない親の経済的基盤、安定的な家庭で勉強に集中できる環境、塾や予備校などの指導があった、など本人の努力以外で優位だったことが多くあるはずである。イメージしやすい比喩としては「自動ドア」がある。自動ドアは透明なガラスでできていることが多く、人を検知すると自動的に開く。特権を多く有している側の人すなわちマジョリティ性を多く持った人は目的地に向かって進もうとしたとき、自動ドアが常に開いてくれるので、ドアの存在自体をほとんど意識せずに目的地に辿りつける。ドアがその都度開いてくれることでますますドアの存在を意識しなくなり、特権があるということに気づかない。また、多くの人は同じような特権を持った人たちの集団にいることが多く、周りもみな自動ドアが開いてくれるので、ますます「当たり前」であると思う。だが、特権を持っていない側の人すなわちマイノリティ性を多く持った人には自動ドアが開かないことが多い。自分に特権がないことに気づくと同時に他の人に対してはドアが開いている様子を見ることで、[差別]に気づきやすい立場にいる。たまに前の方に進んだ人が、後ろの方で中々進めずにいる人に対して、善意で「そんなところで何をしてるの、早くこっちにおいでよ」と呼びかけたとしても、マイノリティ側の人は構造的・制度的・文化的な障壁のせいで辿り着けない。特権を有している側は、そうした構造的・制度的・文化的な障壁に気づいていないゆえに、なぜ遠く後方にとどまったままでいるのかが理解できない。こうした形で、ますますマジョリティ側とマイノリティ側の世界観についてのギャップが生じるのである。(以上)

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多様性を再考する①

2022年04月24日 | 現代の病理

『多様性を再考する マジョリティに向けた多文化教育』 (2021/12/23・坂本光代編集)、この本は論文集をまとめたような本です。

権力者(マジョリティー)が抱えている気づくことのない差別的特性に光を当てようとするものです。

 

はじめに 坂本光代

 

新自由主義に傾倒する社会への警鐘

 [人間の幸せの実現は自己責任である]そう考える人が多いのではないだろうか。良い教育を受け、良い会社に就職し、家庭を持ち、家を建て、安定した老後を送るという人生設計を理想として思い描く人は少なくないかと思う。人はどのような人生を歩もうともそれは個人の自由であるとし、社会的・政治的に制約されない自己決定権を持つとする思想を自由主義と呼ぶ。自由主義では、人間は自由で平等であるとし、この考えの復権を主張する近代思想を新自由主義と言う。

 人は平等である、という思想は一見素晴らしいと思う人も多いだろう。実際、人種に基づく差別などは社会から排斥されるべきだ。しかし、自由主義の、個人に何もかも責任を見出すという側面も忘れてはならない。貧乏である、病弱である、学歴がないなど、自由主義的観点から検証すれば、それらは全て自己責任となる。勉強しなかったから学歴がない、学歴がないから良い企業に就職できなかった、良い企業に就職できなかったから収入が少ない、収入が少ないから貧乏である、または健康に投資できず結果病弱である…。負の連鎖である。

 

昨今[グローバリズム][国際化][多様性][ダイバーシティ]という概念が日本でももてはやされてきた。それら概念は今まで肯定的に語られ、日本にとって望ましい状態として描かれてきた。しかし、日本語を母語とせず、日本文化に精通していない人たちとの共存は、もちろん望ましく素晴らしいものではあるが、実現するには日本人・外国人双方の歩み寄りが不可欠というのは当たり前であり、日本人側の意識改革なくして実現しえない。日本人が今までのまま、外国にルーツを持つ大たちに「郷に入っては郷に従え」と、十方的に日本の言葉・文化・思想・価値などを押し付けることが「日本の国際化」ではない。「日本語ができない」「日本文化を知らない」「教養がない」[常識がない]と日本人の価値観を基準に判断し、拙速に相手を責めることは、マジョリティ惻の傲慢であり、無知である。(つづく)

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多様性って何ですか?

2022年04月23日 | 現代の病理

『SDGs、ESG経営に必須! 多様性って何ですか?D&I、ジェンダー平等入門』(2022/1/14・羽生祥子著)、多様性に関する本を数冊借りてきました。以下基礎的なものですが転載します。

 

 

この多様性という言葉ですが、もしかしたら皆さんの周囲の会社や組織の中で、より聞き慣れているのは、ダイバーシティという言葉かもしれません。ダイバーシティという英語を日本語に訳すと、「多様性、さまざまな種類、相違、食い違い」です。

 ただ、この多様性やダイバーシティという言葉。ちょっとばやっと抽象的で、具体的には何を指しているのかよく分からない、という感じがしませんか? そこで、多様性といったときに具体的に何を指し示しているか、挙げてみましょう。

 組織に求められる多様性の中で、最も代表的な属性が、性別です。男女比率など、組織を構成する性別の多様性です。「ジェンダーダイバーシティ」「ジェンダー多様性」と表現されることもあります。最近はそこに、LGBTQといった性的マイノリティーも概念として入ってきます。そして、次に注目される属性が年齢です。高齢者なのか中高年なのか、若年層なのか。こういった年齢の違いも多様性のうちに入ります。

 さらに、民族や国籍、宗教まで入ってくるのが、世界で指し示している多様性の特徴です。日本ではそこまで問題化されることがまだ少ないですが、この民族や宗教、国籍は人権問題として大きなテーマになっているのはご存じかと思います。

 

 SDGSをおさらいすると、国連総会が2015年に掲げた持続可能な開発目標のことです。2030年に向けた目標は17佃あり、回国・健康・教育・気候変動など、全世界共通の目標と言い換えられます。さてその中に、多様性に直接関連する項目はどれくらいあるでしょうか?

 

No5 ジェンダー平等を実現しよう

No 人や国の不平等をなくそう

No 平和と公正をすべての人に

 

 no5はまさに性別の多様性がテーマですね。no10では多様性の範囲がさらに広がり、「年齢、性別、障がい、人種、民族、生まれ、宗教、経済状態などに関わらず、すべての人が、能力を高め、社会的、経済的、政治的に取り残されないようにすすめる」と、『2030アジェンダ』に明記されています。no16では、包摂的な社会を推進しよう、包摂的な制度を構築しようと掲げられています。

 SDGsの17ゴールのうち3つが直接的に多様性の確保を実現しようとしていることが分かりました。これだけでも十分に多様性が強調されていることが分かりますが、しかし、それだけではありません。国連事務総長のアントニオーダテーレス氏は、SDGsの報告書の中で次のように勧告しています。

 

ジェンダーに基づくステレオタイプ、女性はこうあるべき、男性はこうあるべきという固定観念、思い込みが根強く社会に残っている。そしてこれらを排除することがSDGSのNO5だけではなく、他のゴールの達成にも寄与する。

                     国連事務総長 アントニオーグテーレス

 

 この国連事務総長の勧告は、多様性の中でも、特にジェンダーダイバーシティが、他の問題を解決するための礎だと伝えているのです。(以上)

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日本語は『性差』のある言語である

2022年04月22日 | 現代の病理

『人文社会科学とジェンダー 』(学術会議叢書29・2022/1/31)

人文社会科学系におけるジェンダー研究の過去と未来、人文社会科学におけるジェンダー問題など、ジェンダーについての様々な学術的検討の結果をまとめた本です。

 

その中から、あまり考えたことのない「言語学とジェンダー ―日本語学の視点から」という論文(同志社女子大学教授 森山由紀子)が掲載されていました。日本語の持つ性差をどう考えるか、興味深い。関心のある所だけ転載します。

 

 日本語にはジェンダーとの関わりにおいて、他の多くの言語とは異なる事情がある。それは、「日本語は『性差』のある言語である」という命題が、長らく日本語の「特徴」として述べられてきたという点である。この命題は、「多くの言語では、会話文を見ただけではそれが男性の言葉であるか女性の言葉であるかわからないことが多いのに対して、日本語では、文字化された会話文からでも人称詞や終助詞などから発話者の性別の推測か可能である]という、所謂「絶対的性差」が存在することを指摘している。この指摘は、必ずしも「日本語学」の世界に限られたものではなく、むしろ、日本語が持つ他言語との差異という点で、言語学や社会言語学の概論にも見いたされる。

 

「日本語は『性差』のある言語である」という記述は、日本語学会(旧国語学会)が編集し、過去二度改訂を行った『日本語学大辞典』の3バージョン(19う5年版、1980年版、2018年版)のうち、1955年と1980年版の記述に登場する。

                                            -女性特有の単語

固い言葉(漢語)や野卑・下品な言葉を避ける

強意語(間投助詞・終助詞)を多く用いる

敬語・丁寧・婉曲・言い切らない言い方が多い

音域が高い

抑揚や音の強弱など変化に富む

変体仮名を好んで使う

 

 要はく日本語の男女の言葉の違いは古来から存在し、「地域・環境」に根差すものもあるが、「生理的・感情的な条件から自然に生ずる」ものもある〉という記述である。

 

 一方で同辞典には「女性語・男性語」という項目もある。この項目は冒頭「奈良時代までは日本語に女性語・男性語という性差は存在しなかった」という記述で始まる。そして、室町時代の宮中の女房たちが「隠語として、独自に作った女房詞」が、上品な言葉として広がり(略)「幕末の遊女語が加わって、明治時代の婦人語が形成された」とする。ただし、江戸時代でも一般庶民は男女変わらない話し方をしていた例を指摘し、明治以降の共通語教育と女子教育、昭和以降の「女性は男性より」丁寧な言葉遣いをしなければならないという教育と同時に『女性語』が確立]しかと述べる。つまり、「女性語」は近代になって生まれたという立場がとられており、同一辞典の中で二つの項目問の記述に[ずれ]があるということになる。

 

 

「(男女)特有の語」のうち、人称詞を除く差異は、「断定や命令を含み、主張、説得をする」(同上)か、「断定を避け、命令的でなく、自分の考えを相手に押し付けない」(同上)かという表現の志向の差が使用語彙の違いとして表れたものであるといえる。すなわち、「男女特有の語」とされるものも、[主張することが許される男性と許されない女性]という、社会規範の差異を反映したものだといえる。

 

 このように考えると、「日本語は性差のある言語である(その差異が失われつつある)」という言説は、[日本語は性による社会的文化的な差異が使用語彙の差として顕著に表れる言語である]と言い換えられるべきではないか。(以上)

 

日本語の男女の差異は、男性と女性を取りまく社会環境によって生じたもので、今般的な男女の性差によるものではないということです。

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音楽療法の基礎③

2022年04月21日 | 苦しみは成長のとびら

『音楽療法の基礎』(村井靖児著)の続きです。

 

「同質の原理」は、アメリカの精神科医I.アルトシューラーによって、1952年に初めて発表されました。それは、精神病院で精神分裂病患者の音楽法を行うときの治療戦略として考えられたものでした。

 精神分裂病患者は当時も今も変わりなく、活気がなく、自分から進んで話をせず、放っておけば何もしないでただぼんやりしている人達、そんな印象が、アルトシューラーが扱った精神分裂病の患者にもあったと思われます。

 彼は、まずそういう人達にどんな音楽を最初に与えたらよいのかを考えました。そして結論として二殼初に与える音楽は、患者の気分とテンポに同質の音楽であるべきだと考えました。これが音楽療法における有名な「同質の原理」です。

 アルトシューラーの優れていたところは、患者さんの心理を気分とテンポの2つの面で捉えたことです。それは、音楽が持つ気分とテンポという2つの性質と対応しますと同時に人間の感情の動きにはテンポがあるという鋭い洞察に関わります。

 気分がテンポを持っている、あるいは感情の動きにはテンポがある。そのことを日常私達は暗黙裡に認めているのではないでしょうか。なんとなく浮き浮きしているとき、とてもイライラしているとき、気分か滅入っているとき、私達が同調できるテンポが違っていることは、読者諸氏も既にお気づきでしょう。

 心のテンポはそのときの気分によって支配されています。そのことが分かると、同質の原理で、精神分裂病の患者さんに最初に提示する音楽が、気分とテンポの両面で同質でなければならないことの重要さが了解できます。私達は、憂鬱なときには憂鬱な音楽を聴きたいですが陽気なときには陽気な音楽を聴きたい。深刻なときには深刻な音楽を求める。そういう具合に、自分のそのときの気分と同じ音楽を選んで聴こうとします。

 

 

異質への転導

 同質の原理で述べたI.アルトシューラーは、精神分裂病の音楽療法のもう1つの重要な治療戦略として「水準戦法」を提案しました。

 水準戦法は、人間の音楽に対ずる反応を、ますリズムへの反応の段階、次に和声を伴った旋律への反応の段階、さらに音楽の持つ気分の利用の段階、そして最後に絵両的な音楽で人間の連想を刺激する段階、と分け、その順序に従って刺激の種類を変えていく方法です。

 つまり本能的なリズムの刺激で、精神分裂病の患者さんの不活発、無為に治療的に迫り、次に旋律と和声の協和が小脳への刺激を伝達し、さらに気分的な音楽を持ってくることで患者さんの関心を引き付け、それを望ましい気分の方向へ転導していき、最後に絵画的な音楽で現実世界へ患者さんの思考を収り戻すことで、治療の一まとまりとします。

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