『多様性を再考する マジョリティに向けた多文化教育』 (2021/12/23・坂本光代編集)、の続きです。
特権 「特権」の概念 北米社会と白人特権の考察 出口真紀子
日本ではまだあまり馴染みのない[特権]という単語は、英語の「プリビレッジ」の訳語で、[特別の権利。ある身分・資格のある者だけがもっている権利]または「特定の職務にある者が、その職務の故に与えられている特別な権利。例えば外交官特権など」と定義されている(文省堂大辞林第三版)。
日本では、「学割が使えるのは学生の特権だ」「お酒が飲めるのは大人の特権だ」、また、国会議員の不逮捕特権(国会会期中は逮捕されないなど)といった使い方が一般的である。つまり、使い方に共通しているのは[一時的]な立場・役割で自動的に恩恵を受ける、または努力等によって得た職務による権力という点である。しかし、アメリカの社会的公正(socialjustice)や反人種差別運動の文脈で広まった特権の概念は「あるマジョリティ性のアイデンティティを有した社会集団に属することで、労なくして得られる優位性」と定義されている(Mdntosh,1989)長持って生まれた「属性」(性別、人種・民族、社会階層、性的指向、性自認等)すなわち[アイデンティティ]によって自動的に受ける恩恵であり、原則として努力によって得たものではない、という認識の上に立つ。本章では社会的公正の文脈での「特権」について掘り下げていく。
特権は持っている側か自分の持っている特権になかなか気づけないという特徴がある。例えば大卒の両親のもとに生まれた子どもが「T大学に行くのは当たり前」とされる環境で育つことで大学生になった場合、大抵は「自分が受験勉強をがんばったから合格し、大学生になれた」と本人の努力と能力が合格の要因だと語ることが多いが、実は自分では気づいていない親の経済的基盤、安定的な家庭で勉強に集中できる環境、塾や予備校などの指導があった、など本人の努力以外で優位だったことが多くあるはずである。イメージしやすい比喩としては「自動ドア」がある。自動ドアは透明なガラスでできていることが多く、人を検知すると自動的に開く。特権を多く有している側の人すなわちマジョリティ性を多く持った人は目的地に向かって進もうとしたとき、自動ドアが常に開いてくれるので、ドアの存在自体をほとんど意識せずに目的地に辿りつける。ドアがその都度開いてくれることでますますドアの存在を意識しなくなり、特権があるということに気づかない。また、多くの人は同じような特権を持った人たちの集団にいることが多く、周りもみな自動ドアが開いてくれるので、ますます「当たり前」であると思う。だが、特権を持っていない側の人すなわちマイノリティ性を多く持った人には自動ドアが開かないことが多い。自分に特権がないことに気づくと同時に他の人に対してはドアが開いている様子を見ることで、[差別]に気づきやすい立場にいる。たまに前の方に進んだ人が、後ろの方で中々進めずにいる人に対して、善意で「そんなところで何をしてるの、早くこっちにおいでよ」と呼びかけたとしても、マイノリティ側の人は構造的・制度的・文化的な障壁のせいで辿り着けない。特権を有している側は、そうした構造的・制度的・文化的な障壁に気づいていないゆえに、なぜ遠く後方にとどまったままでいるのかが理解できない。こうした形で、ますますマジョリティ側とマイノリティ側の世界観についてのギャップが生じるのである。(以上)