仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

臨床宗教師活動とは

2017年12月26日 | 新宗教に思う
昨日届いた『中外日報』‘(2017.12.22日号)〈論〉に武蔵野大の小西達也教授が「宗教者としての本質が問われる臨床宗教師活動」執筆されていました。長い文ですが転載して紹介します。

布教はなぜ不可か
 臨床宗教師養成講座が全国の宗教系大学で広まる中、2016年度から始まった武蔵野大の同講座の2期生も順調に学びを深めている。既に知られているように臨床宗教師とは、「被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のヶアを提供する宗教者」(「日本臨床宗教師会設立趣意書」)である。
 そうした講座の初学者の奥型的な問いの一つに、「臨床宗教師活動において自らの宗教・宗派の教えが出せないとしたら、宗教者がそのような活動を行う意味はどこにあるのか」というものがある。
臨床宗教師活動は公共空間で公共の福祉を目的として行われるものであるため、ケア対象者の要望がない限り、特定宗教・宗派の教えを説くことはできない。「臨床宗教師会倫理綱領」でもその遵守の重要雑賀が繰り返しとかれている。
もちろんそうした疑問も無理はない。なぜならば宗戮者にとって「教え」こそが、そのアイデンティティ-の根幹であり、その布教・伝道こそがその最重要の仕事の一つと考えられるからである。
 しかし筆者は、臨床宗教師の原型である「チャプレン」としての、日/米、病院/在宅での実践経験から、「臨床宗教師活動」の場というのは、むしろその宗教者に、宗教者としての本質的な在り方の探究と実践を迫る場であると考える。

「生の立場」の正確な理解
公共空間で『教え』が持ち出せない最大の理由は、現代社会が個人の自律性尊重を重視する、いわゆる自由主義社会であるためである。しかも「教え」の主要テーマである、人の「生き方」は、個人の自律性の最根源に関わる事柄である。そうしたものについて、他者が特定の『あるべき』を指示することことは、はぱかられる。しかし「あるべき」なしで、一体どのように相手の生き方をサポートするのか。
 実はその実践が、臨床宗教師が主として提供する「スピリチュアルケア」である。その基本は、ケア対象者を理解し、その自己表現をサポートしていくことにある。具体的には、ケア提供者は対象者が置かれている人生や状況、いわば「生の立場」の、可能な限り正確な理解を試く中で、同時にその立場にも正確に位置づけていく。それがいわゆる「寄り添う」ということである。
 そしてその対象者の「生の立場」での情景やそこで実感を実語化し、それを対象者に返すことで対象者の表現をサポートしていく。そしてもし、その提供者による表現がケア対象者にとって適切なものであった場合には、それかケア対象者自身のものとなり、しかもそれにより対象者は『わかってもらえた』と感じ、そのさらなる自己表現意欲か促され、そこからその状況下での「生き方」発見へとつながっていく。
 このようにスピリチュアルケアは、アドバイスや教導と異なり、対象者の「心の深い次元」への目覚めを援助し、その内面生活を支えていく中で、ケア対象者自身が納得いく生き方を見いだしていくことをサポートするものである。
その際、その「心の深い次元」を、個我的自己を超えた宗教的世界観特有の次元と見ることも可能であろう。

異なる宗教ケア
 公共空間におけるケアのもう一つの大きな課題は、提供者と対象者の宗教が異なる場合のケアはどうするのか、ということである。
それは極端な例でいうならば、「仏教僧はイスラム教徒に対していかなるケアが可能か」ということである。そうしたケアは「インターフェイス異臭竟《信仰》問)ケア」と呼ばれる。これは異他性を有するものに対するケア、[異他ケア]として一般化することもできる。
 実は臨床宗教師のケアの対象者は、その「宗教」のみならず多くの面で異他性を有する。「経験」の異他性ということで言うならば、ケア提供者は多くの場合、対象者と同様の経験がない中でケア対象者の「生の立場」に寄り添っていく必要に迫られる。例えば臨床宗教師の多くは被災者としての経験を有さず、終末期患者としての経験は皆無である。
 もちろん「異他ケア」は容易ではない。一般にはケアは「共感(エンパシー)」をベースとして行われる。そこでは提供者と対象者の共通性を基盤として共感・理解を成立させていく。しかし「異他ケア」ではその方法が通用しない。異他の単なる「尊重]では「ケア」にならない。「ケア」にはどうしても「理解」の次元が必要となる。
 キーワードは「インタパシー」(参照、アウグスバーガー)である。「インタパシー」とは「Inter」の「Pathy」、つまり異他同士の間の共感・理解を意味する。そこではケア提供者が、自身の勝手な推測や憶測によることなく、先入観や偏見のないまっさらな心で対象者の語りと向き合い、その異他的なものさえも理解し得る、より包括的な視点へと目覚めていく必要かある。そのためには開かれた心、新しいものを吸収していく柔らかい心が必要だろう。それゆえ「インタパシー」は『教えて頂く』「学ぱせて頂く」姿勢で相手と向き合うことともいえる。


執着からの自由へ
異他ケアに限らず質の高いスピリチュアルケア実現のための鍵となるのは、ケア提供者自身の価値観や信念などの「ピリーフ」から自由な在り方である。特定の対象へのビリーフに繋縛されている限り、それと異他的な物事に開かれることは不可能だからである。
 実はチャプレンや臨床宗教師の教育プログラムの主眼もそこにある。この「ビリーフ自由」の修行は、教育後もケア提供者であるかぎり生涯必要となる。しかも[ビリーフ自由]は、実は宗教者の重要課題である「我執からの自由」を意味する。それゆえ、そうした「ビリーフ自由」の修行は、宗教者本来の仕事にもかなったものであると言える。
しかもスピリチュアルケアの対象者は、人生の困難や危機を歩んでいる人たちである。彼らに寄り添っていくプロセスでは、ケア・提供者自身も、ケア対象者が直面している困難な状況と正面から向き合い、自分自身の問題として具体的な生き方を発見していかなければならない。そこではどのような困難でも通用するような普遍的な生き方か問われることになる。そしてもちろん、臨床宗教師のケア対象者には終末期患者も含まれる。
 臨床宗教師活動の現場はこのように、宗教者の本来の専門である、人間の実存的な生死についての探究と実践の極めて貴重な場でもある。ただし私たちは、ケアの第一義的な目的があくまでも対象者へのケア自体にあることを常に忘れてはならないだろう。

「教え」は何のためへの答え
 前述のように『臨床宗教師』活動の特徴の一つには「インターフェイス」性があるが、これは実は、ケア対象者との関係性に限ったことではない。現場では、宗教・宗派の違いを超えてケア提供者同士か協働する必要がある。そこではもちろん、現場でのミッション達成に向けた具体的な活動についての協働が中心となる。
 しかしそれは、同時に自らの宗教・宗派の教えの実践や体現が問われる場でもある。自らと異他的な教えを有す宗教の宗教者の、尊敬すべき人間性や優れた働きを目にした時などには、目身の信仰やその実践の在り方を根本から見つめ直すことにもなる。無論、互いの「教え」について他宗教・宗派の宗教者と会話する時間を見つけることも可能であろう。そこでは相手に対して自らの宗教・宗派の教えをわかりやすく、しかもその本質を明確に表現しなければならない。それは自らの教えについての理解の深さを問われる場ともなる。
 本論の冒頭において、臨床宗教師の初学者の問いに言及した。最後にその問いに立ち戻ってみよう。「臨床宗教師活動において自らの宗教・宗派の教えか出せないとしたら、宗教者がそのような活動を行う意味はどこにあるのか」。
それはさらに[臨床宗教師にとって教えは何のためにあるのか]との問いとして言い換えることができる。
 答えは次のようになる。すなわち、「臨床宗教師の現場では、『教え』は『伝えるべきもの』というよりも、むしろ『宗教者自身が体現すべきもの』である」。
(以上)


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古池に かわず飛び込む

2017年12月25日 | 浄土真宗とは?
昨24日午後、築地でお勤め教室のお経の指導、昼食で蕎麦屋に入ると宮崎ホスピタルの宮﨑幸枝さんとばったり。「カレンダー沢山有難う。病院では、あっちこっちに本願寺の法語がかかっています」とのこと。毎年、本願寺のカレンダーを40部ほど寄贈しているのでそのことです。宮崎ホスピタルでは毎月ビハーラの会という法話会を開催していまが、聞けば二カ月に一回になったという。

最近、ここ2.3年、招ねかれていませんが、前回お邪魔した折、法話会が終わり、茶室での茶話会のおり、参加されていた女性が、次のような歌を披露されました。「古池に かわず飛び込む 水の音」、“や”を“に”に変えることによって、阿弥陀さまが私の命に上に至り届いて、南無阿弥陀仏という念仏になるという歌になります。お見事。
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伝道の課題

2017年12月24日 | 現代の病理
『読売新聞』12月22日夕刊 「よみうり寸評」に.“家庭に1台しかなかった電話を各自が1台ずつ 持つようになった。そこで何が起きたか。エッセイストの酒井順子さんが書いている。〈人 は膨大な量のプライバシーを、抱え込むことになった>(文春文庫『黒いマナー』”とありました。「人 は膨大な量のプライバシーを、抱え込むこと」によって、何を失ったのか。

ご門徒の娘さん(40歳)を失った父親と葬儀の打ち合わせの会話の中でのことです。私が「弔問の人は、どのくらい来られますか」と訊ねると、「それがさっぱりわからないのです。今は、スマホなどで関係性が見えないので…、少しづつ電話が来ているのですが…」とのことでした。一対一の関係が、だれとつながっているのか両親には見えない。これが先の自殺願望者の他殺事件の背景なのでしょう、

『阿弥陀経』に「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔」とありますが、青い色には青い光がと言った個性の尊重だけではなく、「微妙香潔」という全体が清らかな香りで満たされているという全体の概念を説く必要がある。これがこれからの伝道の課題でしょう。
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言葉とは何か③

2017年12月23日 | 浄土真宗とは?
言葉の続きです。『真宗と言葉』(本願寺出版社)に大峯先生は次のように書いています。

人間存在そのものを救うものは、いかなる意味でも、人間の力では作り出せない言葉、如來すなわち真理そのものから発源した言葉だけです。『大無量寿経』に説かれた名号とは、十方衆生を救うために自己自身を捨てた如来の完全無欠な無我が形をとった姿だと言えましょう。
 名号は最も純粋な言葉と呼ぶことができます。純粋な言葉という意味は、言葉が言葉以外の要素によって汚染されていないという意味です。すでに見たような実用語はもとより、概念語や詩的言語であってもやはり、すでに人間存在を前提し、人間の自己中心性によって汚染され、不純なものに変質することをまぬがれえない言葉です。つまり、我の立場で考えられ、我の立場から発せられる言葉であっても、あるがままの言葉、純粋無垢な言葉とは言えません。しかるに本願の名号は、そういう汚染を完全にまぬがれています。いかなる自己中心性をももたない如来の知恵と慈悲が衆生に向かって語りかける言葉だからです。
(以上)

私たちは「言葉が言葉以外の要素によって汚染されていない」言葉を持ち得ていません。ただ悲しみや危険な状況のなかでの“叫び”は、言葉ではありませんが、「言葉以外の要素によって汚染されていない」声であるとも言えます。
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言葉とは何か②

2017年12月22日 | 日記

昨日の続きです。“如来の名号は、如来が人間に何かを語ることではなく、如来それ自身を語ること、自己自身を名乗っていることである。如来という形なきものが言葉となって、人間に語りかけ、人間存在を肯定しているということが、浄土教が明らかにした言葉の最も深い秘密である。

”“言葉はその最後の深みにおいては、人間以上の世界から人間世界への通路なのである。”という。

少し分かった気がします。
言われていることが深いので、上記以上の言葉でお伝えすることはできません。こういう場合は譬喩表現となります。

今朝、ウオーキング中に思ったことですが、人が人に、ある感情や思いを言葉で伝えることには限界があります。深い感情や思いを表現する言葉を持ち得ていないからです。

比喩とは次のようなことです。過般、ご門徒のご子息が自死してしまい、その葬儀がありました。スポーツ、学情、就職、それぞれ否の打ちどころのない青年でした。それが突然の出張中での、高僧ホテルから飛び降り自殺です。

私とほぼ同じとして父親、私にはかける言葉がなく(法話は別)、またたとえその心境を伺っても、表現する言葉がないという状況だったのだと思われます。

私は、知らせを受けてからどんな思いで九州まで飛び、どんな思いで警察の霊安室でご子息と対面したのか。それを思うと、何も聞けないというのが、初めてお会いしたときの私の思いでした。

その父親の衝撃、悲しみを言葉では思い知ることができなくても、その父親が、遺体を前に泣き崩れる姿(叫び、慟哭)を見れば、その父親の置かれている心情が理解できます。


“如来それ自身を語ること”とは、父親の泣き崩れる姿(叫び、慟哭)の中に、その父親の存在のあり様を知るように、「南無阿弥陀仏」という言葉の如来となった、その事実こそ、如来それ自身であり、南無阿弥陀仏を通して、私は如来そのものに触れていくのでしょう。(つづく)

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