仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言葉とは何か③

2017年12月23日 | 浄土真宗とは?
言葉の続きです。『真宗と言葉』(本願寺出版社)に大峯先生は次のように書いています。

人間存在そのものを救うものは、いかなる意味でも、人間の力では作り出せない言葉、如來すなわち真理そのものから発源した言葉だけです。『大無量寿経』に説かれた名号とは、十方衆生を救うために自己自身を捨てた如来の完全無欠な無我が形をとった姿だと言えましょう。
 名号は最も純粋な言葉と呼ぶことができます。純粋な言葉という意味は、言葉が言葉以外の要素によって汚染されていないという意味です。すでに見たような実用語はもとより、概念語や詩的言語であってもやはり、すでに人間存在を前提し、人間の自己中心性によって汚染され、不純なものに変質することをまぬがれえない言葉です。つまり、我の立場で考えられ、我の立場から発せられる言葉であっても、あるがままの言葉、純粋無垢な言葉とは言えません。しかるに本願の名号は、そういう汚染を完全にまぬがれています。いかなる自己中心性をももたない如来の知恵と慈悲が衆生に向かって語りかける言葉だからです。
(以上)

私たちは「言葉が言葉以外の要素によって汚染されていない」言葉を持ち得ていません。ただ悲しみや危険な状況のなかでの“叫び”は、言葉ではありませんが、「言葉以外の要素によって汚染されていない」声であるとも言えます。
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