仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

パパ…

2009年08月03日 | セレモニー
「西原さん、このあいだ墓前読経へ出勤してびっくりした。墓碑に“パパ”と刻まれていた」。友人のKさんの話でした。墓地が先祖を偲ぶ場所から、亡き故人(個人)との交わりをもつ場となっている。これは、ここ15年で急激に変化した。2000年に当寺の墓苑をオープンするとき、墓苑全体のコンセプトを考えた。当時、墓地全体が個性を重んじる傾向にあったので、あなたと私といった個性重視でなく、おおきないのちに包まれるという無量寿をコンセプトで行こうと考えた。もうその時には世間の流れが、墓地の顔が個性を重視する傾向に染まっていたのだろう。

元大阪大学 人間科学研究科 教授であった大村英昭さんが、日本近代化の中で、「煽あおる文化」「鎮めの文化」という言葉で、日本の文化のあり様を語っておられる。本来、鎮めの文化的機能をもっていた、葬儀や墓が欲望をあおる文化へと変わりつつあることを思う。

以前、感動葬儀について次の世に記している。

近年、葬儀式で色花を多くもちい、ナレーションや映像で故人をしのぶといった演出がなされるようになりました。葬儀には2つのベクトルがあると思います。1つは、諸行無常という大自然の摂理に悲しみを通して交応していく、欲望が否定される方向性を持った演出です。もう1つは、欲望を肯定する、つまり故人への思い出や名残惜しさを演出して右へ、たとえそれが幻で気休めであったとしても欲望が満足されていくような演出です。…あきらかに葬儀式が欲望をどう演出するかというベクトルに動いているという直感でした。

葬儀だけではなく墓も右へならえで、あおる方向へ傾斜している。個人の感情や欲望を重視する傾向は、自己決定の尊重の流れだが、これのよって何が失われていくのか。自己決定の尊重は、その人の決定を大切にしていく考えです。みんなバラバラ。現在は、日本が今だかって経験したことのない孤独を体験しているようです。

自死や若者の暴発、不安、たこの糸が切れた不安定な世相と個人のバラバラ感からくる不安さが生み出した世相です。(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする