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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

知的障害のある成人男性の性的欲求と支援①

2024年09月01日 | 現代の病理
『知的障害のある成人男性の性的欲求と支援――語りと連帯が変えてゆく、まわりの人々との関係』(2024/7/23・石黒慶太著)からの転載です。

成人に対する性教育を実施している女性の講演会があるということを聞いたため、その講演会に参加した。その女性は、第1章のボランティア団体の代表者であるが、筆者がその女性と出会ったのはこのときが初めてだった。

講演後の質疑応答の時問では多くの挙手があった。司会者に指名されたある女性は、マイクを受け取り、特別支援学校の教員をしていることを述べたうえで、次のようなことを言った。

知的障害のある児童・生徒や知的障害者の性的欲求を認めたり、教えていったりすることは、問題行動を許すことになるし、保護者にも説明できません。とくに男子は。

この言葉は、筆者の身体を凍りつかせ、今でも頭の片隅に残っている。今にして思えば、講演者の女性は、怒りを抑えながら、そして冷静にその発言に応答していたと思う。
 筆者は、聴講している人たちがどのような反応をしているのか確かめようと、周囲を見わたした。筆者は後方に座っていたため、聴講している人たちの反応は確認しやすかったと思うが、筆者が確認したかぎりでは、質疑者の発言に対してうなずく人たちが多かった。

この発言に含意される問題性が、筆者のなかで看過できない問いとして顕在化したからである。では、その問いとは何か。挙げればきりがないため、いくつかに絞ろう。
 まず、知的障害と性的欲求が結びつくことが、問題行動として捉えられてしまうということである。先にも述べたが、この発言の「知的障害」の箇所を「健常者」に入れ替えて発言してしまえば、それは性別による差別問題、そして人権問題として理解される。しかし女性の質問は、性別による差別問題、そして人権問題として理解されることにつながる雰囲気はなかった。それは、「知的障害のある男性は、相手と合意をすることができない」という前提があるからではないか。
 次に、そもそも性的欲求は誰かに教えられたり、許されたりすることによって成立するものなのか、という点である。これに関しても、健常者に向けて述べられれば、問題発言として捉えられるだろうが、知的障害児・者であれば問題今言にはならないのだ。
 そして、「とくに男子」という点である。知的障害があるということ、かつ、出生時に男性という性が割り当てられた存在であることによって、いかに性的加害性をつねにもつということが健常者によって規定され、正当化されるというのか。
 そのうえ、「保護者にも説明できません」である。自分の性的欲求について、親に報告され、さらに親から監視されるということは、健常者であれば考えられないのではないか。考えられるとすれば、性被害や性加害であったり、援助交際といったものだったりするだろう。しかし定型発達の子どもを含行健常者の場合、性的欲求は年齢によって生起するものであり、「思春期だから当たり前」とさえいわれるし、それについて理解が示される。つまり健常者の場合、犯罪や危険につながらないかぎりでは、性的欲求は肯定的に意味づけられて捉えられているものの、一方で、知的障害児・者の性的欲求は、親の監視の対象となり、さらに「保護者にも説明できません」にもあるとあり、親以外の健常者からの監視の対象にもなるという否定的な意味づけが付与されているのだといえる。
 最後に、知的障害児・者の性的欲求を人としての権利であると捉えている者について、周囲を巻き込みながら、そして違和感なく同意を得られるような形で批判することができる、ということである。
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