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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

死に際しての苦しみは

2022年05月26日 | 苦しみは成長のとびら

本願寺出版刊月刊誌『DAIJO』2022.6月号に執筆者無記名のコラムに執筆しています。4月号からの連載で、どうも当面、私一人で執筆するようです。

フオーカス 仏教ライフ 

死に際しての苦しみは

時代や地域をこえて、すべての人がいつか必ず直面する苦しみが「死」であろう。

その死を取り巻く苦しみに寄り添っていく宗門のビハーラ活動。死に際しての苦しみはさまざまだ。その一つは、物質的な豊かさを享受し、そこに幸せを感じている人は、その幸せとの別れが苦しみとなる。また私たちの多くは、希望を糧として生活している。死は、希望に向かって生きるという生き方そのものを否定してしまう。この世での希望の実現には生きる時間が必要だからだ。死を視野に入れたとき、希望の実現という生き方から、すでに恵まれていることに気づくという生き方への転換が重要になってくる。浄土真宗で言えば、人間中心・自己中心の生き方から、阿弥陀さまの願いに開かれた生き方への転換だ。阿弥陀仏の願いは、あらゆる人がどのような状態にあろうとも、その人の上に安心を成就するはたらきである。終末期の場で、その安心の達成に関わることが、浄土真宗をバックボーンにしたケアの実践であろう。

 昨年の東京オリンピックの中継放送で、あるゲストが「メダルをとったとき、いろいろな人に支えられてきたことを初めて意識して感謝の思いが湧いてきた」と語っていた。他にも多くのメダリストが、周囲への感謝を述べていた。なぜ感謝の言葉なのか。オリンピックに向け、金メダルという目的成就のために努力してきた。そして目標が達成されたとき、目的に向かって生きるという生き方そのものから解放される。そのとき感謝の思いが湧き上がってきたのだと思われる。実際、リベンジを誓う人からは感謝の言葉は聞かれなかった。

 死は希望に向かって生きる時間がなくなる時だ。死を前にして目的に向かって生きる生き方をどう手放すか。それが浄土真宗におけるターミナルケアの重要な視点だ。これは浄土真宗のみ教えである、自力心を手放すことと通じるところがある。

 

PTG(心的外傷後成長)

 「PTG」とは、ポストトラウマティック・グロウス(posttraumatic growth)の頭文字をとったもので、「心的外傷後成長」と翻訳される。深く傷つくような経験を、成長の糧へと転換していくということだ。

 「心的外傷後成長」としては、「自己認識の変化」「他者との関係における変化」「全般的な人生観の変化」の3つの成長があるという。重要な環境要素は、苦痛に満ちた出来事の中で、成長につながるというストーリーや文化を身につけている人が周りにいると、成長が促されやすくなる。逆にそうした成長の考え方や文化をもたない人の中では、PTGの萌芽が仮にあったとしでも、その表出はためらわれるという(『PTGの可能性と課題』宅香菜子編著)。

 共に歩んでくれている人の成長への理解の広さや深さが、その人の可能性を開く要因となるということだ。たとえば、ある人が病気になる。その患者が病気を治すことだけに希望を見出している人たちに囲まれていたら、患者は病気が治癒することが唯一の希望となる。しかし、その患者が「人は病を得ていても今を受容し、自分が自分であってよかったと思える」といった可能性を実感している人に囲まれていたら、そのまなざしの広さや深さを通して今を受容し、新しい自分に出会っていくことが可能となる。ケアする側の理解の深さが重要だと指摘されているのだろう。

 生の営みの中で、希望を実現するという生き方を断念して、すでに恵まれていることへ心が開かれていく。浄土真宗でいえば、自力心から他力回向の恵みへと生き方が転換されていく。これを終末期のケアの中で実践する。ここに浄土真宗をバックボーンとしたケアの真価があり、受け継がれてきた浄土真宗の伝統を、現代という場で展開していく可能性があるのだと思う。

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