
昨3日は、当寺の報恩講、久しぶりに満堂になりました。と云っても小さな本堂なので、その狭さが幸いしてのことです。
講師は兵庫県の竹内俊之ご講師、学生時代からの友人です。たっぷりと親鸞聖人の話を聞かせてくれました。報恩講に親鸞聖人の逸話を聞くことも良い物だと、あらためて感じ、何ヶ寺か報恩講に招かれているので、親鸞聖人のことに、ふれてから本題に入ろうよ思い直したことです。
『親鸞物語ー泥中の蓮花』という小説を書いているが、足跡は、大方忘れているので、また学び直さなければと思っています。
その小説の中に道元(1200-1253)さんと親鸞聖人が出会う場面がありります。お二人が出会った可能性は、30パーセントくらいあると思っています。その小説の後書きに次のようにあります。
小説「親鸞物語」では、聖人が道元さんや明恵師と会話をする場面があります。
歴史学者で出会いを明言する方はいませんが、これは私の想像です。
道元さんとの出会い可能性
(あとがきから)坂東性純先生(元大谷大学教授・翌年一月ご往生)を上野の報恩寺に訪ねたのは、二〇〇三年十月のことでした。先生とは、先生の著作である『カセットブック 親鸞和讃――信心をうたう』(日本放送出版協会刊)に私が本願寺派のお経を録音したことが縁で、面識をいただいておりました。
本堂で参拝していると、奥から鎌倉時代の京都の古地図と親鸞聖人の家系図をお持ちになり、聖人の末娘覚信尼が道元禅師の兄で当時内大臣であった久我通光公の館に女房(女官)として勤めていたこと、また禅師が示寂に際して数日間滞在した西洞院高辻西は、親鸞聖人が八十一歳の折に居住していた西洞院高辻下の斜め前であることなどを説明され、「その折にお二人は会われていたに違いない」と熱心に話されました。報恩寺の寺宝である親鸞聖人のお木像が持つ払子(ほっす)は、聖人が禅師から贈られたものという伝承がお心の奥にあったからかも知れません。(以上)
実際に下京区西洞院高辻西に「道元終焉の地」という碑が建立されており、その近くに光円寺という親鸞聖人が滞在されていたと伝承されているお寺があります。
講師は兵庫県の竹内俊之ご講師、学生時代からの友人です。たっぷりと親鸞聖人の話を聞かせてくれました。報恩講に親鸞聖人の逸話を聞くことも良い物だと、あらためて感じ、何ヶ寺か報恩講に招かれているので、親鸞聖人のことに、ふれてから本題に入ろうよ思い直したことです。
『親鸞物語ー泥中の蓮花』という小説を書いているが、足跡は、大方忘れているので、また学び直さなければと思っています。
その小説の中に道元(1200-1253)さんと親鸞聖人が出会う場面がありります。お二人が出会った可能性は、30パーセントくらいあると思っています。その小説の後書きに次のようにあります。
小説「親鸞物語」では、聖人が道元さんや明恵師と会話をする場面があります。
歴史学者で出会いを明言する方はいませんが、これは私の想像です。
道元さんとの出会い可能性
(あとがきから)坂東性純先生(元大谷大学教授・翌年一月ご往生)を上野の報恩寺に訪ねたのは、二〇〇三年十月のことでした。先生とは、先生の著作である『カセットブック 親鸞和讃――信心をうたう』(日本放送出版協会刊)に私が本願寺派のお経を録音したことが縁で、面識をいただいておりました。
本堂で参拝していると、奥から鎌倉時代の京都の古地図と親鸞聖人の家系図をお持ちになり、聖人の末娘覚信尼が道元禅師の兄で当時内大臣であった久我通光公の館に女房(女官)として勤めていたこと、また禅師が示寂に際して数日間滞在した西洞院高辻西は、親鸞聖人が八十一歳の折に居住していた西洞院高辻下の斜め前であることなどを説明され、「その折にお二人は会われていたに違いない」と熱心に話されました。報恩寺の寺宝である親鸞聖人のお木像が持つ払子(ほっす)は、聖人が禅師から贈られたものという伝承がお心の奥にあったからかも知れません。(以上)
実際に下京区西洞院高辻西に「道元終焉の地」という碑が建立されており、その近くに光円寺という親鸞聖人が滞在されていたと伝承されているお寺があります。
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