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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

五箇山に本願寺常設展を

2012年03月31日 | 都市開教
読売新聞(24.3.30)に「合掌造り民間売買に波紋」(富山支局・小川洋輔)という記事が掲載されていました。

岐阜県の白川郷、世界遺産に登録されている五箇山地区の合掌造り家屋が民間入に売却されたというのです。ネットオークションでの売り出し価格が高値だったため、地元の自治体も手が出なかった。オクション最低落札価格が1250万円だったとか。結局、落札もされなかったが、ネットオークションで売りに出されているのを知った埼玉県川口市の元自営業の男性(56)が、不動産業者の仲介で昨年12月に購入した。購入した男性は、周囲の景観を損なわないように配慮しながら家屋を整備し、無料休憩所として開放する考えを伝えてきたため、市や地元住民は胸をなで下ろしたとありました。

「世界遺産・合掌造り民家、1千万でネット競売に」は、昨年知っている人は知っているというオープンな情報らしく、私を含め本願寺派の方が購入して、“五箇山と本願寺”という常設展示場と休憩所を兼ねて施設にすればと思いました。

以前から、五箇山世界遺産集落にある本願寺派の伽藍をもっと活用すればよいがと思っていたので、事前にしていれば、半分本気で私財を投入して、受けてくれるのならば本願寺へ指定寄付をと、迷ったところでしょう。

2005年に当地を訪ねたおり、お寺の寺報に次のようなことを書いています。執筆者は私です。

 七月下旬、宗派の仕事で北陸へ出張しました。前日、宿泊して五箇山を観光しました。五箇山は世界遺産に登録されている場所でもあります。
 
 五箇山はかつて本願寺領だった所で、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、栂谷の五つの谷に散在する集落をまとめて「五箇谷間」といい、共に本願寺の念仏道場を中心に形成されている集落です。真宗中興の祖である蓮如上人も、幾度も五箇山に足を運んだと伝えられ、蓮如上人にまつわる伝説も伝わっています。
 
 蓮如御一代聞書にも「蓮如上人、細々、御兄弟衆等に、御足をみせ候う。御わらじの緒、くい入り、きらりと御入り候う。「かように、京・田舎、御自身は、御辛労候いて、仏法を仰せひらかれ候う」由」とあります。お子さんたちに再々、わらじの食い入った痕を見せ、色々の人と仏教を語り合ったことを何度もお話しされたようです。当時、五箇山に人々は、上人のご逗留を、感激を持って喜んだことは想像にかたくありません。

 信長の時代、越中をはじめ加賀・越前・美濃・飛騨・近江は本願寺の強力な地盤でした。強大な武力を背景に、着々と全国制覇をもくろむ信長にとって、最大にして最後の敵は、蓮如宗主以後、本山を大阪へ移した、浄土真宗の総本山石山本願寺でした。

 1570年(元亀元年)9月、信長は石山本願寺に兵を進め、11年に及ぶ石山合戦が始まります。全山を信長の軍勢に取り囲まれた本願寺は、諸国の寺院・門徒に檄を飛ばして決起を呼びかけます。当時の越中でもこの檄に呼応し石山合戦に多数の農民がかけつけました。なかでも、五箇山の浄土真宗寺院・門徒は出陣しては大いに手柄をたてています。

 この石山合戦に、紀州根来寺(岩出町)の僧兵が鉄砲を持参して本願寺側に加わり、信長軍と戦って威力を発揮しました。この根来寺の鉄砲は、1543年(天文12年)種子島に伝来された鉄砲を、根来寺の杉坊妙算が火薬の製法と共に本願寺に伝えたものです。

 鉄砲の威力に自信を深めた本願寺は、北陸の軍備強化のため、金沢の尾山御坊へ鉄砲を送り、火薬を五箇山で製造するため、塩硝製造技術者を五箇山に派遣しました。また、僧を大阪堺に派遣し塩硝製造法を習得させ五箇山に広めました。

1572年(元亀3年)五箇山から石山本願寺へ運びこまれた火薬は実戦に用いられ、鉄砲を背景とした本願寺勢は、信長の天下統一の野望を打ち砕いたのです。五箇山は信長との抗戦における本願寺の懐刀だったのです。 
 そして歴史は信長との和睦、家康の東五条の地の寄進による東本願寺の別立と続いて行きます。
 
 今、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら五箇山を歩くと、信長の当時、本願寺を支えてくださった五箇山の人々の苦労や、五箇山の人たちに念仏を届けて下さった蓮如上人のご苦労が偲ばれ他人事でなくあり難く感じられたことでした。
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1 コメント

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五箇山の真宗門徒 (齋藤仁之)
2012-04-01 00:10:36
いつも楽しみに拝見させていただいています。

五箇山をはじめとした砺波地方は私の田舎の相馬地方への真宗移民の故郷としても有名です。浅間山の噴火が原因となった「天明の飢饉」の折、東北地方太平洋沿岸部の相馬藩は大打撃を受け、農民がほとんど餓死する状態になりましたが、その際に五箇山や砺波地方から真宗門徒である農民の次男・三男家族が加賀藩を脱藩して相馬地方に移住しました。

相馬への真宗移民は何回かに分けられていて、入植地区によっては他の地方からの移民の方も居られますが、7代程度前のご先祖様が砺波の家の出であると分かっているご門徒さんも多数居られます。不慣れな相馬の土地に移って地元の方に混じって、信仰を支えに結束して農地を耕してきたご先祖様たちを偲んでの真宗信仰というものがここにはあります。

いま原発被害を受けている地区がほぼ旧相馬藩領内と重なっていて、それは本願寺派の寺院の小単位である組としては「相馬組」となりますが、ここでは伝統的に東西問わず真宗寺院間に交流があり、また今回の震災/原発事故では、これも東西を問わず皆の故郷である砺波地方の真宗寺院からのご支援や慰問をいただきました。

相馬の真宗寺院の本堂には外陣空間に所狭しと、永代経懇志を納めた証の祠堂札(しどうふだ)と呼ばれる金箔にて装飾された木札が掲げられており、東北地方の中でも相馬組寺院に特有のこの風習は、遠く五箇山や砺波の真宗寺院にみられる(しかも高岡地区などでは見られない)と聞いています。
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