仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

末法という絶望的な感覚

2012年03月26日 | 浄土真宗とは?
東京の日の出は5時36分、10日で約20分早くなりまいた。私が住職を務める西方寺は、住宅と田園の中間地点にあります。冬の早朝5時はまだ暗いので、電灯のある住宅街を歩きます。

彼岸を終えて日の出が早くなったので、今日から夏コース(田園地帯)のウオーキングとなりました。


家路につき、朝のお勤めを終え、産経新聞を見て、朝食、その朝食中に読売新聞を開きます。これがいつものパターンです。

その読売新聞(24.3.26)に「論壇誌3月」というコーナーがあります。その紙面を開くと
その紙面に大きな活字で「東日本大震災1年」とあります。

文化部の植田滋記者が“ 東日本大震災の発生から1年を迎え、3月の各誌は震災1年に何を思い、考えるべきなのかを問うている。改めて印象づけられるのが、「悲しむ」ことの重みだ”と、『世界』『中央公論』『希望』に掲載されていた“悲しみ”についての記事をピックアップして紹介していました。

それぞれ内容のあることなので“図書館へ行ってコピーを”と思いましたが、今日は月曜図書館の休館日です。
    
その記事の中で次のような文章がありました。

『世界』の特集は「悲しもう…」。… この中の「悲しみを抱えて生きる」で日本思想史学者の片岡龍氏は、ある被災者が「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい」と語った現実を紹介し、その絶望に気づかない日本人に問いかける。「生きることの哀しさも寂しさも知らない頭でっかちの人間、いつからこの社会は、そんな人間の数が増えたのか」
 その上で氏は、鎮魂をテーマとする東北の芸能には、死者に 「苦しかったこと、悲しかったことを、わたしたちにお伝え下さい」と激しく求める所作があることを伝え、「悲しさや寂しさから目をそらさず、それにきちんと向き合うことでしか、その運命をみずから乗り越える道はない」と述べる。(以上)

“みんなが俺たちと同じ目に”と語った方の真意がどこにあるのか、またその言葉で何を訴えたかったのかは、言葉の当面には出てきません。きっと深い解決されない悲しみが、そう言わせたのだと思われます。

私は、この文章の中の“ある被災者が「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい」と語った”箇所を読んで、昨日、産経新聞でみた「海に神さまはいるのか…」の記事を思い出しました。
 
昨日の記事にあった「海に神さまはいるのか…」の当事者は、まさに先の震災津波で自宅が全壊し、気仙沼市郊外の運動公園内に建てられた仮設住宅で暮らしている中で、漁船を保有する鹿児島市の春日水産から遭難の連絡を受けたのです。

言葉を換えて言えば「もう一度津波が来て、みんなが俺たちと同じ目に遭ってほしい」といっている本人の所に、もう一度、津波が来たという状況です。

絶望的な状況が連続する。あるいは慢性的な絶望。そのような状況を人類は幾度となく経験しています。私の連想は親鸞聖人の時代へと移りました。

平安時代の末も、そのような時代であったようです。政治の中枢は武士が実権を握り、武家政権誕生への足音は次第に強くなる。巷では権力闘争の嵐が吹き荒れ、加えて地震・大火・飢饉・疫病など未曽有の天変地異の頻発していました。

その絶望的な状況に、とどめを刺したのが、「末法(まっぽう)の世」という実感です。末法とは、釈尊入滅後仏教が、「正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)・末法」という三つの段階を経て次第に衰退していくという考え方です。

今の時代の混迷は、1つの状況ではなく、回復の見込みなしという絶望を裏打ちしたのが末法観です。

その絶望を通して、親鸞聖人をして見えて来たものがあった。それこそ阿弥陀仏の本願の真意であり、人は救われなければならない存在であるという人間が持っている闇の深さです。

書いているうちに説教風になりました。ただ絶望的な状況は、浄土真宗とは無縁ではないということです。また悲しみや絶望的状況の中にあって、浄土真宗の門徒としてすべきことがあることを強く思いました。

思うだけではだめです。(自分へ)
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