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仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

大川隆法の親鸞理解

2014年09月01日 | 新宗教に思う
アマゾンで「仏教」で検索したら「他力信仰について考える」(幸福の大学シリーズ)大川隆法著でありました。古本でもと思って内容を見ると8月29日刊とあり、新刊を購入。昨日届きました。せっかく1500円で買ったのですが5分で読書完了。

親鸞聖人の“悪人正機”“往還廻向”などが解説されていました。浄土真宗の理解が、宗教になっていない。宗教とは、東大の岸本博士は(1961)が仮説的規定として「宗教とは,人間生活の究極的な意味を明らかにし,人問の問題の究極的な解決にかかわりをもつと,人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である」。

人間の究極的な問題である「闇が明らかになる」、人間の根本問題の解決に触れる兆しもない。おそらく幸福の科学自体の宗教理解が、丹波哲郎的な冥界思想を説いているのでしょう。
下記の、その本の結論部分です。

釈迦は、「悪をなさず、善いことをしなさい」と説いていたわけなので、親鸞は、それとは正反対のところまで行ったということです。
 親鸞の思想は、「救いたい」という気持ちが極端まで行きすぎていて、まともに修行をし、信仰している人が、少しばかを見るようなところもあります。親鸞の教えは、広がりすぎた場合には、こういう難点を持っています。
 浄土教、浄土真宗系には、救いもありますが、地獄界につながっている部分もあるように思われます。私か見たところでは、地獄界のなかに、やはり「念仏地獄」があります。
 あの世で地獄に堕ちて、念仏を称えても救われない人たちは、どうすれば救われるのでしょうか。「念仏を称えるだけでよい」と教わっていたのに、念仏を称えても救いが来ないし、天国にも上がれない場合、どうすればよいのでしようか。彼らは、それについて教わっていないのです。
 「念仏だけで救われる」という教えは、緊急避難的な最後の手段としてはしかたがありませんが、できれば、きちんとした信仰をし、教学もしたほうがよいですし、反省もしていただきたいのです。「このレベルぐらいまでは行ってほしい」というのが、私の本音です。
 親鸞の教えには、「救済を広げようとしたら、薬が薄まってしまった」というところがあるのです。(以上)

自分の物差しを正しいと見立てて、すべてを推し量っていく。これだったら何千冊もかけるはずだというのが感想です。少しお説教に使って1500円を取り戻します。
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