仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

なぜハロウィンで騒ぎたがる

2023年11月20日 | 新宗教に思う

『産経新聞』(2023.11.19)「考」蘭に『なぜハロウィンで騒ぎたがる』というテーマで帝京科学大准教授 小堀馨子さんが執筆しておられました。以下転載

 

 

 多くの日本人は自分のことを無宗教だと思っているとよく言われる。

 実際に自分が何らかの信仰心があるという意識を有する人はどのくらいいるのだろうか。宗教統計調査によれば、宗教法人の信者の総数は2021年の統計では約1億7900万である。同年の日本の人口が約1億2000万人だから、明らかにに1人の人間が複数の宗教法人から信徒として数えられていることになり、この数字には意味がない。一方、NHK放送文化研究所が参加している国際比較調査グループーSSPが19年に発表した宗教意識についての調査によると、日本人全体のうち「宗教を信仰している」割合は全体の36%に過ぎなかった。3人に2人は自分が無宗教だと考えていることになる。

 しかし、こんな人は身の回りにいないだろうか。

 初詣に神社に行く人、七五三で神社にお参りする人、地域振興で神社の祭礼に加わり神輿を担ぎ屋台を楽しむ人、教会で結婚式を挙げる人、葬式をお寺で行う人、桃の節句でひな人形を求める人、端午の節句で武者人形を購入する人、困った時に神頼みをする人、何か困りごとがあるとおみくじを引く人。

 このような行為は客観的に見れば宗教的行為と言える。このような行為を日常生活で時季に応じて行っている人が人口の3分の1しかいないとは到底考えられない。本人たちが宗教的行為を実践していると意識していない場合もあるのだろうが、それにしても、日本人が考える

「宗教」とは一体、何なのか、何を根拠に自分だものことを無宗教と思っていると言われるのか、考察してみる必要があろう。

 筆者が教鞭をとっている大学において、宗教学の授業で「先生はA先生と仲が悪いのですか?」と尋ねられたことがある。A先生は生物学の先生だが、私とは読書会を一緒に行い、学術議論も交わす仲である。学生に「どうしてそう思うの?」と尋ねると、「宗教と科学って仲悪いんですよね」という答えが返ってきた。どうやら、その学生は「宗教と科学は相いれないものだ」と思い込んでいたようなのである。これに類する反応は毎年1件くらいは見かけるので、世間にある程度広まっている日本人のものの見方だと推測できる。

 

他人の信仰に敬意払わず

 

ところで最近、東京・渋谷でハロウィンの期間に渋谷駅のハチ公口周辺が封鎖されるという出来事があった。ハロウィンは欧米から日本に伝わり、この十数年で急速に広まった祭りだが、毎年、若者が渋谷で大騒ぎをするようになり、特に今年はコロナ禍の自塾があけたということで、渋谷区や警察などが警戒を強めていた。死者や怪我人が出ないよう警戒するのは分かるとしても、そもそも、ここまで規制しなければならないほど若者が羽目を外したがるのなぜだろうか。

 ハロウィンとは本来はヨーロッパのケルト人発祥の祭りでる。キリスト教では11月1日は万聖節という死者を記憶する祭日であり、日本の七盆やお彼岸のような日である。

その前夜(「HalloW's evenin」)すなわち「Halloween」は死者に対する畏怖を表現する祭りであり、この世に戻つてき霊霊が外を歩いていて、生者を捕らえて死の世界に引きずり込むので、彼らに引きずり込まれないよう生きている人間が死者のような格好で仮装したのが起源である。死を防ぐための祭りなのに、そこで死んだり怪我をしたりするのは本末転倒ではないか。少なくとも、本来のハロウィンの意味を知った上で、お盆やお彼岸同様、死者に対する畏怖の念を思い起こしながら祭りの時を過ごしてほしいものだ。

 思うに、ハロウィンの本来の意味を知らない若者がハロウィンで大騒ぎするのも、学生が 「宗教と科学は相いれないものだ」と考えるのも、そもそも現代の日本では宗教が知的ではないもの、科学的ではないもの、現代にそぐわないものと考えられているからではないだろうか。

 渋谷に集まる若者は、ハロウィンという異なる宗教文化の本来の意味を無視して、形だけ真似て娯楽として消費することも厭わない。それはつまり、科学全盛の現代において、宗教とは無縁の立場に身を置き、遅れた時代の遺物を娯楽アイテムのひとつとして弄ぶことを楽しんでいるつもりなのではないか。だとすれば他人の信仰に何ら敬意を払っていないのであり、それどころか、他人の信仰を、ひいてはその人の属している宗教文化伝統自体を愚弄しているに等しいのではないか。時折、ハロウィン騒ぎを多文化共生とか文化交流などと呼んで正当化する人がいるが、どうも納得がいかない。

 

 

 

宗教を考えられぬ日本人

科学や現代という時代を否定するつもりはない。そうではなく、宗教は、科学とも現代とも共存するという現実をよく考えるべきだと思う。

 現代の日本人は憲法と民主主義さえあれば良い国になると信じている節があるように見える。しかし世界の歴史を見ると、多くの場合、憲法や民主主義はあくまで国などの政体が取るべき制度の一つであり、民主主義の思想自体に精神的基盤があるわけではない。古代から現代に至るまで、国の精神的基盤が、その国の宗教文化伝統に全く根差していない例はないと言っても過言ではない。

 旧ソ連のように一時的に、宗教を全否定する体制が成立する例はあるが、そのソ連ですら、ひとたび政治体制が変化して国名がロシアになった際には、伝統的なロシア正教が復活している。アメリカでは宗教離れが進んでいるといわれるが、その代わりに自己啓発セミナーやスピリチュアルといった代替活動が盛んになっている。それは既存体制から脱却できない伝統宗教から人が離れ、新たな宗教的な何かを求めるようになっているに過ぎない。

 逆にフランスでは非アラブ系であってもイスラームに改宗す人が増え、政教分離の最先端とみられる国でありながら、例えば、イスラーム女性のかぶるヒジャブの是非などをめぐり宗教的対立が顕在化し、複雑な社会問題を抱え込んでいる。政教分離原則が徹底し過ぎた社会にも、政教一体型の厳しい社会にも問題は生じるのである。

 逆に言えば、宗教が、政治や社会とバランスが取れた距離を保つことができれば、社会や政体の安定に寄与する。私の専門である古代ローマ帝国は1000年ほどの歴史のうち最後の1世紀余を除き、古代地中海世界の宗教伝統と上手く習合しながら帝国を運営して成功を収めていた。古代ローマ人は日本人が中世に神仏習合を行ったように、帝国の版図に組み入れた土地の土着神を自らの神体系(パンテオン)の中に組み入れて、安定した統治を築いたのである。

 よく日本のジャーナリズムで、社会問題や国際問題の原因を「宗教」の一言で片付けようとするのを目にする。しかし、日本人が「宗教」という言葉でひとくくりにして忌避してしまう社会現象は、実は倫理観・死生観・世界観など多岐にわたる多様な要素を有しており、それらは国民や民族の生き方に染みついている。宗教の存在は無視できるものではないし、あるいは娯楽として弄ぶことが相応しい対象でもない。本稿が、宗教とは何であるのか、なぜ人間は宗教を必要としなければならないのか、宗教が無い社会がどのような社会になるのか、考えていただけるきっかけになれば幸いである。(以上)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 法蔵菩薩が覩見された内容 | トップ | クローン犬3匹 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

新宗教に思う」カテゴリの最新記事