いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
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三島由紀夫の憲法改正。 constitution revision by y.mishima

2013-09-06 19:57:46 | 日記
 (1)三島由紀夫が私的右翼思想集団の楯の会々員を率いて東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、総監を人質にとって自衛隊にクーデターの決起をうながしたのが43年前の1970年11月25日だった。学生運動が盛んな頃だった。

 三島は総監室外の2階バルコニーから騒ぎを聞きつけて階下広場に集まった自衛隊員に対して、自衛隊組織は現行憲法違反はあきらかでそれに甘んじているのは屈辱ではないかというようなアジテーション(agitation)をくり返して、三島は自衛隊にクーデターの決起を盛んにうながしたが、下に集まった自衛隊員からは失笑、ヤジ(当時ニュース映像)も飛んで、これに失望したのか三島はバルコニーから総監室に戻って自決した事件だった。

 天皇を国民の象徴として政治体とは切り離して憲法第9条で戦力不保持を謳った、米国の占領日本統治の基本法憲法をいただくことが、長い天皇護持の歴史、伝統、文化、文明をいただく日本の国体を崇拝する三島は我慢がならなかったのだろう。

 (2)政治は日米安保条約による同盟関係により米国、米軍に安全を守られ、自衛隊は都合のいい憲法解釈論でかろうじて存在が守られていた時代だった。
 三島は遺稿となる豊饒の海四部作の最終作の天人五衰を書きあげて出版社に原稿を送った(報道)あとの決起行動だった。

 天人五衰では「輪廻」、生まれ変わりがテーマとなっており、三島が自らの右翼思想主義による不条理(unreasonableness)を呼びかけた憲法改正論議が43年後に注目を集めることになる。

 (3)その三島が自衛隊に乗り込んでクーデター決起をうながした前夜に書き上げたとの宣伝コピーの「天皇に捧ぐ憲法改正」(元楯の会班長監修)が時宜(じぎ)を得たのか出版された。

 新聞広告には43年前の時間の止まったままの楯の会軍服姿の若々しい三島のまっすぐ前を見据えた敬礼写真が印象的だ。当時すでに作家三島の軍服姿そのものが異質ではあったから、今ではなおさら時代錯誤のめずらしさ、不可思議を憶(おぼえ)えさせる写真だ。

 (4)旧文体にこだわって日本文化、伝統、仏教思想を色濃く具現化、文学表現した作家三島がなぜ死に急いだのか残念な気持ちで見ている。三島の日本の政治、社会に対する色濃い不満へのまるで見せしめるかのような犠牲的(victimization)精神性のあらわれなのか、いつかは生まれかわり再びこの日本を再建する精神性のあらわれだったのか。

 その後、日本は現行憲法下で個別的自衛権が広く認知されて自衛隊の海外派遣にまで拡大解釈されて、今は国防軍化、集団的自衛権の行使容認の憲法改正論議が政治課題にのぼっている。

 (5)三島の天皇制中心の国体が世界外交も含めてどういう構想を描いていたものなのか全容はよく理解できないが、かってのアジア植民地支配のような軍国主義に戻ることなど出来ない、ありえない日本だ。

 三島は当時学生運動を主導した全共闘の招きでひとり集会に乗り込むなど文学者としての識見、自負、自信を持ち合わせており、その右翼思想主義は理論的な比較検証主義のものであり、その「内」なるものへの精神性ではなかったのか。

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