うろ覚えライフ。

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ゴミ屋敷

2014年05月13日 | 時事社会ログ

○ゴミ屋敷は「復讐」 作る人の傾向、背景

 

  最近、ゴミ屋敷がマスコミでしばしば取り上げられる。自宅、ときにはその周囲にまで大量のゴミや廃品をため込む、あれである。

 精神科に通院中の患者さんでも、長期間来院せず連絡もないので、自宅を訪ねてみると、足の踏み場もないほどゴミで埋め尽くされた部屋の中にうずくまり、室内にはすごい臭いが漂っていた、ということがよくある。害虫や悪臭が隣近所を悩ませ、トラブルになる場合もあれば、火災が発生することもある。

 ゴミ屋敷の背景には、「セルフネグレクト(自己放任)」の問題が潜んでいることが多い。セルフネグレクトとは、飲食、体調管理、衛生の保持など、通常の生活を送るのに必要な行為をしないために、安全や健康が脅かされる状態である。

 セルフネグレクトに陥りやすいのは、独り暮らしの高齢者で、自宅に閉じこもって親族や近所の人との交流がほとんどない場合である。

もっとも、若い人でも、リストラや愛する人との別離などをきっかけにして生きる意欲を喪失し、何をするのも面倒くさくなってしまうこともある。特に本人が孤立していて、外部からの介入がほとんどないような場合、ゴミ屋敷を生み出しやすい。

 背景には少子高齢化などの問題が潜んでいるのだろうが、精神科医として見逃せないのは、「緩慢なる自殺」としか言えないような事例が少なくないことである。医療や支援を受けるように勧められても、「放っといて」と拒絶する人もいれば、「死ぬのを待っている」とつぶやく人もいる。

 このように自暴自棄になるのは、それだけ絶望が深いからだろうが、同時に強い復讐願望が垣間見えることもある。汚い環境で暮らし自らの身体を粗末に扱うことによって、一見、自分自身を罰しているように思えるが、実はフロイトが指摘しているように、「自己処罰」という回り道を通って、「もとの対象」に復讐しているのだ。

 「もとの対象」とは何か? 自分をないがしろにした家族や社会である。もちろん、本人の錯覚にすぎない場合もあるにせよ、ないがしろにされたことに対する怒りや不満を、必要なことを「しない」という形でしか表現できない人が増えているのは、実に切ないことである。

 

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 TVのワイドショー番組とかでよく取り上げられる「ゴミ屋敷」というと、高齢者の住居やその庭など周囲が目立つけど、ときどき若者のアパートの部屋がゴミ屋敷然となっていることもあるようだ。若者もたいていアパート一人暮らしで、高齢者も独居老人の場合が多い。たまに、もうどちらも高齢者の、老人兄弟・姉妹が同居してる住居もあったりするけど。アパートやマンションの部屋の一間か二間を、ゴミ屋敷然としている若者たちは、メディアのニュースで「片付けられない若者」として取り上げられてたりする。昔の若者に対して異常な現象みたいに、今どきの若者には、それこそ病気の症状みたいに「片付ける」ことができない若者が存在する、トピックとして紹介している。「ゴミ屋敷」までの惨状でない、まだヤル気を起こして片付け始めれば、部屋の主独りでも、半日か一日で綺麗に片付きそうな部屋もある。こういうのは「汚部屋」というんだね。アパートやマンションの部屋でも、一人ではちょっとどうしようもない、まあ、一念発起してやればできるんだろうがそれでも一人では数日掛かりそうな「ゴミ屋敷」然とした部屋もある。体力があるのに片付けられない、というのは、立体(空間)認識能力みたいな脳の欠陥もあるのかも知れない。あるいは「ヤル気」が出て来ない、みたいな障害。そういうある種、病的な人も居るのかも知れない。最近は、識者の見方で、「大人の発達障害」という、先天性や幼児期の後遺症の強い、病的な見方も出て来ているし。

 高齢者になると、掃除や片付けが億劫になる、というのはあるよね。体力の面で。まあ、普通に歳を取ってて、障害とかなければ掃除くらいはできるだろうケド、片付けは大きな物・重い物は骨折るよね。電気製品とか家具とか、量のある本や雑誌・新聞とか。昔は親子孫三代とか一緒に住んでたり、隣近所との付き合いが密だったりしたから、体力のない高齢者のできない掃除や片付けを他の比較的若い者が代わりにできた。でも今の超核家族時代というのか、独居老人が数多く存在する現代、高齢者が一人だけでなかなか掃除が行き届かず、片付けも放ったらかしになってたりする。老夫婦の爺さんの方が無理をして動けなくなることだってある。車椅子、寝たきり、身の回りがやっとや片方が施設に入ったり。高齢者の住居は程度の差こそあれ、自然、掃除がされてない、片付いてない、ひどいときはゴミ屋敷に近い状態になる。日本は高齢化社会で、もう超高齢者社会に入って行っている。人を雇う、たって、日本は老人が金を持ってるって言うけど、割合から言えば比較的貧乏な方の高齢者の方が圧倒的に多い筈だ。便利屋みたいな商売も人件費があるし、頼めばそれなりに費用は掛かるだろう。老人のみ家庭ではかなりの負担になるに違いない。日本は富が高齢者に集中している、というのは、金持ちと呼べる老人のみ家庭は多分、一握りであって、割合では圧倒的に貧乏の領域に属する老人が多い筈だと思う。まあ、極端な言い方をするとここも多分、富の一極集中なんだろう。高齢者(のみ)家庭は、程度の差こそあれ、ゴミ屋敷方向になっていきやすい。

 そういえば思い出した。随分昔の話で恐縮だが、僕が子供の頃、隣の家がとても大きな家で、住人は老夫婦だけで、その広い家は一階が六間くらい、二階が四間くらいあった。爺さんの方は肺を悪くしていて杖を衝いて散歩くらいしかできず、その内寝込んでしまった。僕は婆さんの方に可愛がってもらってたので、小さい頃はよく遊びにお邪魔してたが、広い家の中を猫を追っ掛けて走り回っていると、普段の生活で全く使っていない二階などは、全ての部屋が埃だらけでクモの巣が張っていたと思う。一階も部屋以外に風呂や台所もあるのだ、おぼろな記憶だが多分、掃除の行き届かない部屋も、いくつもあったと思う。まあ、昔々の話だけど。まあ、その当時は「婆さん」と呼ぶには失礼な年齢だったかも知れない。実際、僕も当時、「おばちゃん」と呼んでたし。

 最近は掃除をしなくていい学校って、けっこうあるでしょ。小学校でも生徒が掃除しなくてよくて、週に一回とかプロの業者がやって来て校内の掃除をする。僕らの頃は掃除は必ずあった。当番でなくて毎日、全員でやってたと思う。帰りは必ずあったけど、朝はどうだったかな。朝掃除というのはなかったんだっけ。やっぱ、あったか。忘れた。中学までは帰りは毎日、必ずクラスの全員でやってたな。高校は掃除はなかったんだっけか。高校でも帰りはあったのかなあ。当番制だったんだろうか。忘れた。でも高校では業者が入っていたな。たまに廊下がワックス塗り替えられてた。教室もだったのかも知れないけど、忘れた。高校時代の掃除の記憶がほとんどないなあ。小学校のときは、廊下を雑巾掛けで何度も往復していた記憶がはっきりある。朝はどうだったんだろうなあ。中学時代は朝はなかったみたいだな。まあ、いいんだけど。僕は幼児期から家では掃除はほとんどしたことがないと思う。ごくごくタマに廊下の雑巾掛けをしていたようには思う。それも気が向いたらやってただけのことだ。部屋の掃除もしたことない。家の中の掃除は毎日全部、母親がやっていた。僕の机の上の片付けも全部、母親がやってくれてた。僕が掃除をやるのは本当にごくごく稀に、気が向いたとき好きでやるだけだった。

 掃除や片付けは子供の幼児期に、親が積極的にしつけないといけない、と思う。掃除や片付けって、教えるもんだよね。できるだけ幼児期から。僕は、父親が、まあ、放任主義的な感じで、子供は可愛がってたけど、子育てはほとんど母親任せだった。母親は、僕の場合、全部やってくれてた。そういう意味では「しつけ」みたいのはあんまりなかった。もう、物心着いたときから、僕が勝手に遊んで散らかした、積み木でも絵本でも玩具でも、僕が遊び飽きると、母親が全部きれいに片付けてくれてた。僕が大人になってから思うに、やっぱ、あれは駄目だったと思う。だいいち、僕は小学校上がったときに、身体検査で、自分の着てる衣服・肌着の着脱が、クラスで僕一人だけできず、担任の女先生に脱がしてもらった。馬鹿みたいだけど、脱ぎ方が解らなかったのだ。やっぱ、できるだけ幼児期、掃除や片づけを含む「しつけ」を教えないと駄目だよな。大人になってからかなり響いて来ると思う。何事も基本的訓練は大事。

 

 

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