NHK大河ドラマ「黄金の日日」や「ウルトラセブン」、映画「異人たちとの夏」などテレビや映画の脚本などを多く手がけた脚本家・市川森一(いちかわ・しんいち)さんが10日午前4時43分、肺がんのため東京都内で死去した。70歳。数カ月前に肺炎にかかり、検査で肺がんが発覚。先の仕事を多く抱え、関係者の中には「急死では」と早すぎる死を惜しんだ。今年11月11日に、自作の長編小説が原作で脚本も担当したNHKドラマ「蝶々さん」の試写会に登場した際には「こういう作品が生涯の遺作になれば幸運」と語っていたが、くしくもその言葉通りとなってしまった。
死期を悟っていたのか。今年11月11日、市川さんは自身の長編小説が原作で、脚本を手がけた「蝶々さん」の試写会に登場した際、最初のあいさつで、いきなり「遺作」という言葉を持ち出した。
「この年になると、1作1作が遺作のつもりでやっている。作品によっては、これが遺作になるのはイヤだなと思ったりする。今日、この作品を拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなと思ったりしました」と語った。
公の場に登場したのは、この時が最後となった。「遺作」という言葉を持ち出したが、終始元気な様子だった。ただ、関係者の話を総合すると、すでにこの時点で肺がんであることは知っていたようだ。
市川さんと女優・柴田美保子さん夫妻と20年のつきあいがあるという長崎県壱岐市「平山旅館」の女将(64)によると、市川さんは数カ月前に肺炎を患い、通院を余儀なくされた。その過程で肺がんが発覚した。
だが、この事実を周囲に知らせることはなかったようだ。「蝶々さん」で一緒に仕事したNHKの関係者も「大病を患っていることは試写会の後に聞いた。それまでは病気のことは、一切言っていなかった。試写会当日も、体調を崩したので、出席は微妙と聞いていたので心配したが、元気な様子でしたので」と振り返った。
元気そうなそぶりとは裏腹に病状は確実に進行していたようで、試写会から12日後の11月23日には夫婦で壱岐に赴くと旅館の予約をしていたが、直前になり市川さんの体調不良でキャンセル。夫婦の旅行はかなわないまま、市川さんは逝った。
テレビ界の主流だったホームドラマのハッピーエンドを嫌い、脱ホームドラマ、脱リアリズムを掲げ「太陽にほえろ!」なども手がけるなど、人間の聖と俗にこだわり描き続けた市川さん。
「遺作として幸運」な作品で華々しい人生を締めくくれたことを、天国で満足しているに違いない。
僕は子供の頃、「ウルトラセブン」が大好きだった。「ウルトラセブン」で一番印象深く憶えているのは勿論、金城哲夫さん。その次が実相寺昭雄監督。そして市川森一さんだ。まあ、勿論、脚本に限っては他に、上原正三さん、佐々木守さん、藤川圭介さんなども有名だけど。特に市川森一さんはその後の、大人向けの本格ドラマや時代劇、映画脚本などでも有名になり、脚本家としてメジャーになり成功された方だと思う。「怪獣ブースカ」の脚本を書いていたとは知らなかったけど、これがTV脚本の初仕事らしい。その後も、デビュー後初期は、「帰って来たウルトラマン」他、TVの子供向け番組の脚本仕事が多かったみたいですね。懐かしいな、「マキちゃん日記」の脚本も書いていたんだ。僕の少年時代、日曜日の朝やってました。マキちゃんの憧れの、義理のお兄さん(叔父さん)役で関口宏さんが出演していた。何でも市川さんの奥様は、その「マキちゃん日記」で出演されていた女優だった人だとか。市川先生は見るからに知的な相貌で、頭の良さとインテリ味がにじみ出てるような、品の良い紳士然とした雰囲気の方だった。あの雰囲気の初老はカッコイイな、と思っていたものです。懐かしいな、九重由美子の「コメットさん」の脚本も書いたんだ。「仮面ライダー」も。
相変わらず、僕が子供の頃や少年期のTVや映画、雑誌などの、いろいろな面で活躍し、昭和を作った有名人や文化人たちが、ここ十年、毎年毎年、あるいは毎月のような早さで、次々と現世を退場して行く。今年は何人亡くなったろう。数え上げても十脂では足りない。寂しいですねえ。昭和はどんどん遠くなって行く。