旅限無(りょげむ)

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北朝鮮の核 余話 其の参

2008-10-20 17:08:32 | 外交・情勢(アジア)
--米ブッシュ政権の6カ国協議についての評価は

「結果は出ない。北朝鮮は核を放棄するつもりは全くないからだ。6カ国協議は幻想だ。(6カ国協議が)始まる前から情報当局はそのように考えていた。政府がどう考えていたかは私には言えないが、1950年代からの北朝鮮の核開発の歴史をみれば金正日総書記が核爆弾を捨てる意志も証拠もない」

■この発言を読んだ時に、拙ブログの『50年史』を思い出したのでした。50年前に北朝鮮は自国の存亡を核爆弾の有無と完全にリンクさせる決意をしていますから、核兵器の開発技術と所有を否定されることは国家体制そのものの崩壊を意味します。核で生き残る!と決心した国が平和憲法を守り続ける国の隣に存在しているというわけです。北朝鮮の核開発の事実を知った時、米国が最も怖れたのは対抗上「防衛」目的の核武装を日本が言い出すことだったとか……。


--CIAは核実験(2006年10月)を予測していた?

「私は2005年5月に『1年以内に核実験を行う』との分析を発表した。4カ月間違ったが(笑)。なぜなら、核の歴史、彼らの言葉から(実験は)自然な流れだった。金正日総書記は異常な男ではない」

--核実験を阻止する政策はなかった?

「止められなかった。金正日総書記は大きなテーブル(核保有国による核クラブ)に着くことを望んだ。われわれが『ウエルカム』といえば核実験はしなかっただろう。しかし、われわれの答えは『申し訳ないがノーだ』。そして米国に軍事オプションはない。この件で彼に他の脅しも懐柔も通用しない。なぜなら、『核なしの北朝鮮』はアフリカの開発途上国と同じであり、金総書記の目的はただひとつ、核クラブに入ることなのだ」

■康明道著『北朝鮮の最高機密』などによりますと、1976年に発生した「8・18ポプラ事件」が核開発を決意した切っ掛けだったようです。米兵がナタで撲殺されるというトンデモない事件が板門店で起こって緊張が一挙に高まり事態は「戦争一歩手前」。しかし、韓国には米軍が持ち込んで配備してある核爆弾が1000発も有り、北朝鮮側は数だけは多い大砲と歩兵が主力でしたから、悔しいけれど負ける喧嘩はできない!と涙を飲んて我慢したのでした。

■何かとお世話になっている親分の旧ソ連は、ブレジネフ時代までは北朝鮮の「原爆欲しい!」要求を拒否していたそうですが、超タカ派のアンドロポフが権力を握ると一転して「どんどんやれ!」と言い出して、70人もの核技術者が送り込まれ82年から93年8月まで手取り足取り原爆作りを教えたのだそうです。いろいろな機材や材料が運び込まれ北朝鮮の優秀な人材がソ連に留学、その後、日本の某大学出身者も熱心に協力していたそうですなあ。

■1980年1月7日の産経新聞一面トップに「福井・新潟・鹿児島」での拉致疑惑が掲載され、1988年3月26日の参議院予算委員会では日本共産党の橋本敦議員からの質問に答えて国家弘安委員長だった梶山静六さんが「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」との答弁をしたのでした。その虚しい8年間は、北朝鮮がソ連から原爆の作り方を習っていた10年間にぴったり収まるのであります。「包括的な解決」などという雲をつかむような話ではなく、「拉致した国民を帰せ!」の一点集中外交が可能だったかも知れません。でも、マスコミからも「拉致はでっち上げ」報道が流れていた頃ですから、やっぱり無理だったでしょうなあ。


--核実験後、米ブッシュ政権の対北政策は変わった。直接対話に応じ、北朝鮮に譲歩を重ねた。別の政策はなかった?

「米国はアフガニスタン、イラク、ロシア、さまざまな問題を抱え、私が議会で北朝鮮問題を報告するのは一週間に多くても5分間だった」

■ブッシュ大統領やライス国務長官が言う「拉致問題は忘れない」という決まり文句の実態がこれです。日本の国内問題でしかない拉致問題の情報が「週に5分間」の中で取り上げられる可能性はゼロでしょう。「拉致犯罪は悪いことだ」「子を拉致された親の悲しみはよく分かる」そんな当たり前の言葉の後に出て来るのが「拉致問題は忘れない」という真意不明の発言であります。でも、米国の首脳が最も努力しなければならないのは、米国民の安全であって日本国民の安全ではないのですから、この件でブッシュ大統領を責めるのは日本の政治家や外務省の責任逃れを認めることになってしまいます。やっぱり、自分のことは自分でやらないと……。
北朝鮮の最高機密 (文春文庫)
康 明道
文藝春秋

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