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旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

松山上陸作戦 其の壱

2007-03-15 13:09:15 | 著書・講演会
■世の中には「瓢箪から駒」という事が本当に有るものでございます。拙著『チベット語になった「坊っちゃん」』が刊行されて1年4箇月、チベット人学生の一部が日本に留学している事実が判明してから10箇月、そして朝日新聞松山総局主催による松山市の子規記念博物館4階大ホールで講演をしてから8箇月、講演の打ち上げ会などでも「生徒を呼ぼう!」という声は上がっていたのですが、まさか本当に元師弟、総勢6人が松山を訪れるとは思いもしませんでした。酒の勢いで盛り上がる妄想に近いロマンだったはずが、
『坊っちゃん』チベット語訳の完成を支援する会
などという恐るべき?組織が立ち上がり、有志の皆さんの奔走によって本格的な支援体制が生まれるのに、大した時間が掛からなかったのは『坊っちゃん』に対する松山の皆さんの強烈な思いが脈々と活きているからなのでしょうなあ。

■では、チベット人生徒たちと再会して松山を訪れた珍道中の始まり始まりぃ~。


……翌日なんの気も無く教場へ入ると、黒板いっぱいぐらいな大きな字で、天麩羅先生と書いてある。おれの顔を見てみんなわあと笑った。おれはばかばかしいから、天麩羅を食っちゃおかしいかと聞いた。すると生徒の1人が、しかし四杯は過ぎるぞな、もし、と言った。四杯食おうが五杯食おうがおれの銭でおれが食うのに文句があるもんかと、さっさと講義を済まして控え所へ帰ってきた。十分経って次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。ただし笑うべからず。と黒板に書いてある。さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせば悪戯だ。焼き餅の黒焦げのようなもので誰も賞め手は無い。田舎者はこの呼吸が分からないからどこまで押して行っても構わないと言う了見だろう。1時間歩くと見物する町も無いような狭い都に住んで、他に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争のように触れ散らかすのだろう。憐れな奴らだ。小供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みたような小人が出来るんだ。……

■なかなか厳しい管理体制の中で寄宿制の学校で勉強している生徒たちは、このような「ひねっこびた」生徒達の悪戯を、実に楽しそうに翻訳したものです。勿論、実際の師弟関係は古き良き日本以上に、礼儀正しくきっちりしたものですから、5年ぶりの再会となった今回もその関係はほぼ?そのまま維持されておりました。文中にある「1時間歩くと見物する」物が無くなるというのはウソですし、お世話になった愛媛大学の生徒達や松山の人々は「野蛮」でも「憐れな奴」でもありませんので念のため。

■3月8日、高速夜行バスでJR大阪駅に着いたのが午前7時前、周辺の地理を確認したり交通機関のイメージを得てから、コイン・ロッカーに大荷物を預けて身軽になったのが8時頃でした。別にお洒落着や化粧道具を持って来たわけではなく、荷物の半分以上は「辞書類」であります。日蔵(チベット)大辞典が存在していない以上、「日漢大辞典」→「日本語大辞典」+「日中辞典」+「漢蔵詞典」→「チベット国語辞典」という曲芸のような辞書リレーが必要となるからです。日本では入手困難な辞書ですから、宅急便で先に送っておくわけにも行かず、大きな鞄に詰め込んでふらふらと歩き回るしか無いのでした。ああ、重かった!

2月11日 朝日新聞 天声人語

2007-02-11 22:16:17 | 著書・講演会
朝日新聞 天声人語 2007年02月11日(日曜日)

■「ヨコタテ」といえば、翻訳を少々揶揄(やゆ)した言葉だ。横文字を縦に置き換えるだけではないか??。だが中村吉広さん(48)の『チベット語になった「坊っちゃん」』(山と渓谷社)を読むと、翻訳が、言葉の置き換えを超えた異文化のぶつかり合いだと分かる。
 
■中村さんは98年から4年間、チベット仏教を学ぶため中国青海省の民族師範学校に留学した。最後の1年は請われて日本語講師となり、チベット人教師や教え子と、漱石の『坊っちゃん』の翻訳に取り組んだ。

■題名は、貴族の子息への敬称をそのまま使えた。だが冒頭の「親譲りの無鉄砲で……」で早くも思案する。名調子は結局、「父母の慎重さを欠く気質を受け継いでいたので」と律義な訳に落ち着いた。

■以降も山あり谷あり。「赤ふんどし」とは何?「茶代」って賄賂(わいろ)? 「猫の額程な町内」も、無辺の地に暮らす人には分かりづらい。「漢学教師」は「中国語の先生」とは違う、などと互いの文化、風土を行きつ戻りつ、全体の3割まで訳した。だが中村さんの帰任で中断する。

■その中村さんと、日本に留学中の当時の教え子7人が来月、小説の舞台の松山市に集う。著作を読んだ愛媛大学の有志らが、完訳を支援しようと「翻訳合宿」を企画した。「道後温泉」や「坊っちゃん列車」など、ゆかりの文物を見つつ翻訳を進めてもらおうとの計らいだ。

■有志はチベット語対訳版の刊行をめざし、合宿中に公開のシンポジウムも開く。教え子たちは、『坊っちゃん』がどれほど市民に愛されているかも、肌で感じることだろう。

草野心平記念文学館での講演会

2006-05-31 14:16:24 | 著書・講演会
■2006年5月28日、福島県いわき市の草野心平記念文学館で講演会を開催しました。お題は『チベットになった『坊っちゃん』』の書名そのままでしたが、草野心平さんも大正10(1921)年から5年間、中華民国のミッション系大学の嶺南大学(福建省)に留学した体験を持ち、日本語講師を務めたというので、そ80年後に中国青海省での体験を下敷きにして「言葉と文化」をテーマに講演をするという事になったのでした。

■選りにも選って、日本海に強力な低気圧が3箇も並んで福島県全体に暴風雨警報が出される、猛烈な荒天のお日和(ひより)に当たってしまいまして、天然記念物のモリアオガエルが生息するような奥深いところまでお出かけ下さった皆様には、申し上げる感謝の言葉もございません。視聴覚機器の最終調整をしようと、早々と会場に向った講演者自身が乗っている自動車も、ワイパーブレードを最速で動かしても視界が悪いほどの豪雨を衝いて走ったのでした。近くにダム湖の有る小高い場所に建っている草野心平記念文学館からの眺望は素晴らしく、好天に恵まれたなら新緑に輝く初夏の風景が存分に楽しめると言うのに、市内の数箇所で土砂崩れが発生するような嵐に見舞われてしまいました。

■ポスターやチラシで広報して頂いた上に、地元新聞ばかりか全国紙の地方面でも大きく取り上げて貰って、記念館が開館して以来の大入り満員になるのではないか?という前評判が立ったとかで、結構な手応えを楽しんでいたのですが、行楽日和どころか、場所によっては避難の心配をしなければならないような大雨でした。文字通りの「車軸を流すような雨」の朝、期待と予想を裏切って閑古鳥が鳴くかも知れないなあ、と少々心細くなっておりましたが、親族やら知人やらが、バスを仕立てて集まるちょっとしたお祭騒ぎにもなりましたし、洪水も土砂崩れも物ともせずに稚拙な講演会に興味を持って参加して下さった皆様もおられまして、何と会場に90人近い人々で埋まったのであります!

■全国的にも名が通っている文学記念館なのですが、案外、地元の人々は「いつでも行ける」と油断してなかなか足を運ばないと言うのが何処の文化施設も同じように頭を悩ます大問題のようですなあ。企画展や大小の催し物を考えている学芸員の方々の悩みは深く、意味も判らないままに「小さな政府」を実現しようと邁進している今時の日本では、文化施設の閉館や統廃合が乱暴に進められているそうですから、何処の施設でも「税金の無駄遣いだ!」という本末転倒の暴論に耐えているようです。税金を無駄にしているのは、立派な文化施設を利用しない納税者の方なのですが……。

■準備は出来ています、と言われて会場を覗いて見ると、座り心地の良さそうな椅子が70脚、整然と並べられていました。これまでの経験から割り出した数なのだそうですが、地元の老人パワーを甘く見ては行けませんぞ!と強気のセッティングを要求しまして、施設に備えられている全150脚を並べて貰いましたが、ちょっと窮屈なので最終的には120脚程で落ち着きました。控え室で知人からのお祝いを受けながら、茶やコーヒーを飲んでお喋りしている内に開場10分前となりました。雨は小降りになっていたとは言っても、会場まで1時間も2時間も掛けてやって来る人は少ないだろうなあ、と内心では不安を抱いて入場して見ましたら、大盛況!お役所仕事の悲しさで、冷房切り替えは来月とかで、90人の人間が詰め込まれた場所には弱い暖房が入っていたのでした!……こういう体質は改善しないと、リピーターを逃がすでしょうなあ。

■地平線報告会や四国松山の正岡子規記念博物館で未熟な「芸」を見せられた皆様には感謝申し上げつつ、心よりの反省を重ねました結果、今回は生意気に「資料」を用意したのでした。拙著『チべ坊』の133頁に極一部だけ掲載した「文字対応表」の全部を縮小コピーした物、そして、万葉仮名の「あいうえお」、変体仮名の「あいうえお」を配置してB4の紙1枚にしたのが資料1。それから資料2として、チベットの位置を示しつつ、アムド、カム、ウ・ツァンの3大方言が使われる地域を示す地図と、「50音図」が来た道を示すユーラシア大陸の地図を配した、同じくB4の紙を作りました。こんな大それた物を開場前の椅子の上に配ったりすると、どんなにややこしい話を聞かされるのか?と早々に帰ってしまう人が居るのではなかろうか?と、これまで配るのを躊躇していたのが愚かな話でありました。

■現代の日本人をバカにしては行けませんなあ。チベットの専門家でもなく、言語学に強い興味を持っているわけでもない一般的な日本人でも、「あいうえお」や「教育」、そして「文化」に無関心でいるはずはないのです。ついつい、歪んだイメージでとらえられがちなチベットを熱く語り過ぎて、せっかく講演を聴こうと集まって下さった皆さんが、多過ぎる情報で消化不良を起して不快な混乱状態になってしまう傾向が見られましたので、ますます、専門的な知識を押し付けるのは拙(まず)いと勝手に決めていたのが愚かでした。と言うわけで、今回の講演会は、「あいうえお」だけにテーマを絞ったのでありました。


 ①2006年は『坊っちゃん』100周年で、1998年は能海寛の100周忌。
 
 ②1400年目の出会い

 ③チベット語と日本語

 ④言語教育と民族問題

 ⑤膠着語の廻廊

■話があちこちに飛び散らないように、こんな道標(みちしるべ)も資料に書き加えて置きました。だんだんと専門的な話になるような順番になっているので、③まで語り尽くせれば良いかなあ、ぐらいに思っていたのですが、今回の聴衆は予想を遥かに上回る吸収力と貪欲さを持っておられまして、最後の質疑応答の時間に⑤の説明を要求されて、少々言葉足らずではありましたが、恙(つつが)無く用意していた材料は消化したのでした。実質的な講演時間は1時間20分、質疑応答が15分、やはり一番の人気はビデオ映像に残した我が生徒達の「輝く瞳」でありましたが、最後にブログに書き込まれた元生徒からの「手紙」を紹介しましたところ、会場には感歎の声が上がりましたなあ。

■来月も某所で同じ内容で話をせよ!という御依頼が有りましたが、出来るだけ多くの場所で、もっともっと多くの日本人に中国青海省の山奥で起こった出来事を知らせねばならないなあ、と改めて思っております。御参加下さった皆様にには、この場を借りまして厚く御礼を申し上げます。

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生徒からコメントが来た!

2006-05-31 10:32:33 | 著書・講演会
■4月29日みどりの日、思いもよらないコメントがブログに書き込まれていました。拙著『チベット語になった『坊っちゃん』』に登場したチベット人学生本人からの物です。既に、何人かの読者からは感動を共有して頂いたコメントが寄せられていますが、当事者といたしましては、事態の急展開におろおろするばかりでありました。既に、コメントをくれたアガンジェ君とは個人的なメール交換を始めておりまして、留学仲間が一緒に写っているスナップも届き、拙著に登場した生徒達の6人が、現在、日本の大学に留学している事が確認出来ました。6人の内4人が、『坊っちゃん』のチベット語訳に挑んだ「試みの7人」に入っていた事も分かりました。

■拙著をお読み下さった方々には印象深いと思いますが、5年間も日本語を古い方法で学んだ結果、自分の名前を日本語表記で書けずに困っていた生徒も、送られて来た写真に写っておりまして、立派に留学生達の先輩として貫禄を出しているのが分かりました。拙著を手に入れて「徹夜で」読み終えた後、急いでコメントを書き込んでくれたアガンジェ君は、クラスごとに分担してリレー形式で『坊っちゃん』を翻訳した時に、何の因果か、最も翻訳し辛い箇所と悪戦苦闘しなければならない巡り合せになったグループのリーダー格でした。あの「松山は二十五万石の城下町と言っても…」という一節を、チベットの伝統的な度量衡に換算して翻訳して見せた連中です。

■コメントを読んでから、すぐに手元の記録写真と名簿を確認して薄れ掛けていた記憶を呼び戻すのは簡単でした。授業中に与えた名前のカタカナ表記から「ア」の字を落としていたアガンジェ君の名前を見た瞬間に、どの生徒だったかの検討は付いたのでした。その後、メールで留学中の仲間の名前を丁寧に列挙して送ってくれた文面には、いとも慣れた書き方で全員のチベット名を見事なカタカナで書いてくれております。拙著で何度も指摘した通り、「てにをは」の適確さは下手な日本人学生よりも優れていますし、既に失われつつある日本語の敬語表現も自在に使っているところに、チベット人の矜持を改めて感じました。

■文法学を集中的に学んだ私のチベット語能力など、まったく太刀打ち出来ないレベルにまで達している彼の日本語は、私が学校を去った後も「日本語の種」を大切に育てる努力を続けていた証拠だと確信しました。当然のことながら、種を撒くのは誰でも出来ますが、それを育てて芽を吹かせ、更に根気良く大きくする努力はなかなか出来る事ではありません。「早く再会したい」と書いてくれる生徒達と、本当に膝を交えて旧交を温めながら語り合えば、きっと、「先生のチベット語は下手ですから、全部、日本語で言って下さい」などと言われるのでしょうなあ。嬉しいやら、気が重いやら…。

■アガンジェ君が率いていた「試みの七人」は、拙著の中でも最も読者を笑わせたり感心させたらしい事件の中心的な役割を演じたのでした。学校と親交の有る日本人が来校した時、滞在していた来客用の宿舎を「襲撃」して日本語で筆談をやって見せた連中が居たのですが、その先陣を切ったのがアガンジェ君達のグループだったのを、懐かしく思い出します。ノン・フィクションなので、最初からウソは書いていないのですが、本の中から飛び出すように登場人物本人から、思い掛けない連絡を貰うと、どうにも現実味が無くてどぎまぎしてしまうものですなあ。

■生徒達の授業風景や翻訳の様子を撮影した貴重なビデオ映像が有りまして、その中に4年前のアガンジェ君達の姿が写っています。極少数の人々にしか披露していないのですが、拙著に興味を持って下さった方々の応援を得まして、ぼちぼちと日本のあちこちで生意気にも「講演会」を開く事になりました。5月20日には、『坊っちゃん』100周年で様々なイベントが開催されている四国松山の子規記念博物館で午後2時から、同月28日は福島県いわき市の草野心平記念文学館大ホールにて午後2時から、どちらも無料です。講演会では『坊っちゃん』翻訳の様子や、『防人の詩』の書き取りテスト風景、そして、生まれた初めて日本語に接したチベット人学生が驚異的な速度で五十音図を習得する(まるでヤラセのような)映像を公開します。

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松山講演記録 其の六

2006-05-24 19:34:35 | 著書・講演会
■飛行機などは、「空の舟」と優雅に訳して通用させていますが、「飛行船」とどうやって区別するのでしょう?北京語で、機関車を「火車」と言うのをそのまま意味を取って「メ(火)ンコル(車)」と言いますが、自動車を「汽車」と言うのを訳す時には、「オラ(機械)ンコル(車)」にしたようです。日常会話では「舟」を表わす伝統的な単語を使っているのですが、『坊っちゃん』冒頭は、「汽船」と「艀」を区別しないと、坊っちゃんが意味も無く船から船に乗り移るだけになります……。「同じ仕掛けだから、自動車と同じように火の車にしたら?」と提案したのですが、「それではまるで船が炎上しているみたいだ!」との理由で却下、心配して部屋を覗きに来た担任の先生も参加して、ああだこうだと議論が続きました。この先生は、もう一人の先生と共同で『坊っちゃん』第一部を翻訳した経験を持っているので、いっそう議論に熱が入ります。最終的に、「汽船」はどうなったか?『チベ坊』に答えが書いてあるので、どうぞ読んで下さい。

■勿論、講演会の会場では結論を紹介したのですが、驚きのあまりか、高尚な話と誤解されたか、誰も笑ってくれませんでした。講演会の後、松山市内の「ジャズ・ギャラリー」という素敵なバーで打ち上げの2次会をしていた時に、「松山市民を代表して」あの場面で笑わなかった事を詫びて来た青年がおりましたぞ!本当は衝撃的ではあったけれど、十分に面白かったそうです。詫びる必要などまったく無かったので、こちらの方が恐縮してしまったのですが、面白かったと聞いて一安心しました。

■元生徒のアガンジェ君がチベット語版の『坊っちゃん』を朗読している場面が続いて、このチームが大変な苦労をしたエピソードを幾つか紹介したところで、丁度、時間となりました。最後に、そのアガンジェ君がブログ『旅限無』に書き込んだ生徒側から見た『チベ坊』とも言える長い文章の一節を読み上げて、「色町の団子、旨い旨い」などのエピソードも紹介したのですが、ここでは少し笑いが取れました。講演会の実質的な企画者だった松山北高校のK先生が〆の御挨拶をして下さり。元生徒達が松山を訪れてくれたら嬉しいなあ、と仰って下さいました。やり残した『坊っちゃん』の翻訳を完成するのに松山が最適の地であるのは間違いありません。我が生徒達が道後温泉で坊っちゃんを見習って騒々しく湯船で泳ぎ、翌日言ってみたら「チベット人泳ぐべからず」などと札が下がっていたらどれほど面白いでしょう。

■翌日、その道後温泉で朝風呂を楽しんでから、子規博物館を再訪して今度は展示物を拝見しました。講演会の裏方を務めてくれた学芸員のW君が、一つ一つの展示物を説明してくれました。まるでエライ人になってしまったような待遇でした。それにしましても、子規を生み育てた松山が持っていた江戸以来の文化の力、それを象徴する驚くべき人脈と血脈には圧倒されました。貴重な直筆や精巧なレプリカが並び、重い病に苦しんだ短い一生に子規が書き残した膨大な「文字」と絵がたっぷりと見られた至福の時を過ごしました。展示物の中に、正に漱石が松山に上陸した時期に撮影された松山港の写真が有りました。大きく引き伸ばしてパネルになっている松山港の風景を、翻訳したチベット人学生達にも見せて上げたいなあ、としばらく考えながら見とれていました。砂浜の沖合いに「汽船」が二隻並んで停泊して煙を吐いていて、艀もちゃんと浮いています。船を見送りに来た人が浜辺に立っている長閑(のどか)な写真です。

■松山に来たら是非とも行きたい所は何処ですか?と前もって尋ねられていたので、迷わず「ロシア人捕虜の墓地」と答えておきました。子規博物館でたっぷりと子規山脈に触れた後、K先生の車で松山大学御幸キャンパス裏に位置する来迎寺さんの墓地の奥に、綺麗に整備された公園のような場所に98の墓石が整然と並んでいました。墓石の一つ一つにはまだ枯れていない可憐な花が漏れなく備えられていたのには仰天してしまいました。巡洋艦?ペレスウェート号艦長だったボイスマン大佐の胸像も立派でした。英語だけでなくロシア語の説明が書かれている表示板も行き届いた感じがします。何でもゴルバチョフ書記長が来日した際に、松山か長崎のどちらかを訪問するという事になり、この墓地に来るのではないか?と期待が高まったのだそうですが、残念ながら幕末にロシア艦が来た長崎に決まったのだそうです。負け戦の記念物みたいなものですからなあ。ちょっと問題だったかも知れませんね。

■松山の捕虜収容所は日本で最初に作られた収容所で、ハーグ条約発行直後に起こった日露戦争を国際法に則って立派に戦い抜き、捕虜に関する条約も遵守して世界に日本の「文明」を誇示し、悲願の不平等条約の改正を実現する!という深謀遠慮の拠点だったのです。この墓地に関しては、松山大学が創立80周年を記念して2003年に盛大なフォーラムを開催した成果を一冊の本にまとめています。成文社刊『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』2000円という本です。K先生から贈呈して頂いたので、少しずつ読んでいるところですが、これは支店ブログ「雲来末・風来末」に詳しく紹介した方が良い本です。徐々に要点をまとめて記事をアップして行こうと思っております。

■司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がNHKでドラマ化されると言うので、秋山好古・真之兄弟の生家が復元されている所を訪ねました。敷地内には秋山好古さんが創建したという柔道場も移築されていますが、何と今も青少年を鍛えている現役の施設なのだそうです!それから松山城を訪ねようという計画でしたが、飛行機に乗り遅れる恐れが出て来ましたので、松山市の前景を見下ろす楽しみは後日ということにして、漱石と子規が共同生活をした愚陀仏庵を見学してから飛行場に向かったのでした。市内を走り回って下さったK先生の愛車から、何度も「坊っちゃん電車」とすれ違いました。レトロな路面電車が元気に走る松山市内の風景は、何ともいえない風情が有ります。東京都が廃止し切れず残った荒川線がどこか物寂しいのに比べて、松山の路面電車はのんびり元気です。「坊っちゃん電車」は『坊っちゃん』の中で「マッチ箱みたいな汽車だ!」と毒づかれた汽車の形を模した可愛いデザインです。その愛らしい姿を見かける度に、我が生徒達が「マッチ箱と汽車はぜんぜん似ていないぞ!」と抵抗したのを思い出し、笑いがこみ上げて来ました。実物を見ても、「やっぱりマッチ箱より大きいぞ!」と言い張るのだろうなあ。おしまい。

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松山講演記録 其の伍

2006-05-24 18:46:15 | 著書・講演会
■次の映像は、2001年12月29日の記録です。2箇月前に「あいうえお」をおっかな吃驚書いていた新入生達が、第10課「これは 古い 庭園です」の新出単語を教師よりも先に読み上げる様子と、属格助詞の「の」をチベット語文法と対応させる説明を受けている様子、そして早口で教科書を音読する訓練に耐えて大声で読んでいる様子が続きます。まあ、語学の授業としては地味なシーンではありますが、どうしても耳で聴いて頭で覚える勉強法に慣れているので、生徒達は教科書の字を真剣には眼で追わない癖が付いていたのを、「仮名文字を読め!」としつこく指導した結果、画面に出て来る生徒達の眼は教科書を凝視しているのです。

■古い形式の日本語授業を受けていた先輩達は、ろくに教科書を見ようともしないで鸚鵡(おうむ)のような音読をしていたものですが、新入生は「チベット語と日本語は兄弟だ!」の指導で、仮名文字にすっかり馴染んでしまったわけです。日本語の「あかさたなはまやらわ」に当たる字母群が30箇も有るチベット語の方が、遥かに「音」の種類が多いので、日本語の仮名文字から音を拾うのは簡単なようです。とは言うものの、チベット語には存在しない「いきしちにひみいりい」から「おこそとのほもよろを」までの文字を覚えるのには、最初は絶望的な気分で取り組む決心が必要なのでした。チベット語はサンスクリットと同じように、一つの「字母」に記号を付けて母音を変化させるので、「あいうえお」を並べて書く時には「あ」だけ覚えていれば済むのです。ですから「50音」と言われると、直ぐに「多過ぎる!」と不満を言います。

■逆に、日本語がチベット語と同じ表記法を採用していたら、万葉仮名の時代から「あかさたなはまやらわん」の11種類の文字を工夫するだけで仕事は終わっていた事になります。従って、日本語の仮名文字が多過ぎる!と勝ち誇って文句を付けるチベット人達の文字が、もしも日本語と同じ方法で作られていたら、単純計算で30掛ける5で150種類の文字が生まれていた事になりますなあ。それに加えて、チベット語の文字体系は1セットで済むのに、日本語は平仮名と片仮名の2種類有る事も変だ!無駄だ!余分だ!と文句が出ます。これはチベット人学生が無知を晒して恥を掻くだけの話で、サンスクリットの51字母全てを写し取るために、30文字では足りずに外来語専用の特殊なチベット文字を21種類作っているのです。生徒達の多くはこの密教経典などにしか出て来ない21の特殊文字を全部読めるわけではないのですが、一目で「外来語」だと分かる目印にはなります。まるで日本人が文中に片仮名を見つけた時のように……。

■ホワイト・ボードを使って、チベット文字の「あ」を大きく書いて、母音記号の付け替えをして見せてから、「お」字の上に小さな○を加えて、「オーム」を作ります。これがオウム真理教の看板やバッヂに使われた文字だと思い出した方も多かったようです。この事も『チベ坊』には文字表と一緒に説明してあるので、既にお読みの参加者は再確認が出来たというわけです。ホワイト・ボードをステージの端に片付けて、再びビデオを再生しますと、会場に音楽が流れます。それがさだまさしの『防人の詩』というわけです。語学学習がある程度進んだ段階で、機械を通した音、例えばラジオや電話から聴こえる音に違和感を覚えるものです。これを克服する為と、日本語の歌を口ずさめれば、学習効果も上がるかと思って選んだのがこの曲でした。日本からCDを送ってもらって教室で聴かせ、「おしえてー」で一時停止、「くださいー」でまた停止という具合に書き取らせます。

■会場で紹介した映像は、既に1箇月が経過した段階のものなので、詳細なチベット文字と両仮名文字との対照表を作っている生徒が居たり、『防人の詩』を全部チベット文字で書き取った物を所持している生徒も記録されています。これは毎回実施した小テストなので、B4の紙を4等分した用紙に自分の名前をチベット文字と片仮名で書き、その下に毎回変わる聞き取り課題を正確に書いて提出するというものです。ですから、音が流れている間にどんな手段や奇策を使っても良いことになっていました。「提出せよ!」の指示が出るまでに、せっせと指定された仮名文字に変えれば良いのです。前回のテストは音と文字が正しい場合には、全部○で囲まれているので、それを蓄積しながら生徒達は正しい『防人の詩』の全文に到達して行くのです。暢気に構えていたやる気の無い連中も、周りがもの凄い勢いで仮名文字を書き並べて行くので、あまり白い所が多いと面子が無いと思うようで、それなりに50音図と格闘していました。

■だんだん、『坊っちゃん』が近づいて来ますが、松山の皆さんにはもう少し辛抱して頂いて、2002年1月7日に実施した新入生達が『防人の詩』をチベット語に翻訳した様子を見て頂きました。中国各地の大書店で買い集めた各種の「日漢大辞典」から、一冊ずつ各自が手に取る瞬間から見て貰いました。こんなに立派な物を手にするのは初めてだ!と皆の顔が輝きます。最初の「あいうえお」から2箇月半、先輩達は既に『坊っちゃん』と格闘していた同じ研究室で、新入生達が黒板を使って翻訳の共同作業をします。生まれて初めて日本語を辞書の中で探す場面は、「あいうえお」の特訓の成果で何の問題も無く「教える」を引っ張り出します。黒板には日本語の『防人の詩』の詞の下にどんどんチベット語が並んで行きます。

■いよいよ『坊っちゃん』登場です。映像は2001年10月23日の物で、登場ずるのは2年ほど、北京語版の日本語会話教科書を棒暗記させられる授業を、何度も教師が交代したり、途中で長期間の「休講」「自習」を強いられていた連中です。それまで積み上げた中途半端な知識と見当外れのプライドを捨てさせるのに苦労しましたが、それらも無駄にはならずに「50音図」を勉強し直してからは、めきめきと日本語の腕を上げたのでした。ビデオには、坊っちゃんが四国松山に上陸する場面をチベット語に訳す大騒ぎの様子が記録されています。『チベ坊』には冒頭の、


「ぶー…」といって、汽船が止まると、艀(はしけ)が岸を離れた。


を訳すのに、「機械が物を言うのか?」から始まって、「ぶー」という擬音語はチベット語に無いぞ!まで、難問珍問が続出する様子を書きましたが、講演会では「汽船」の翻訳に苦労する場面だけを紹介しました。仏教経典に出て来ない機械の名前を翻訳するのは基本的には不可能ですから、新しいチベット語を工夫しなければなりません。自分達に馴染んでいる物の中から似たような物を選び出して、そのイメージを重ねるように新語を作るか、少し長くなっても説明的に新しい概念を表現するか、どちらにしても大変な仕事です。現代のチベット語には、北京語から音を貰ってそのままチベット文字で表記する中途半端な「外来語」が沢山存在しますが、意味を写し取った単語も有ります。自分達で工夫した物も有ります。

松山講演記録 其の四

2006-05-24 14:51:45 | 著書・講演会
■オウム真理教事件がチベット留学を決意した最も大きな理由だった事をお話しして、オウム集団が看板やバッジに使っていた文字はチベット文字だった事。麻原教祖が宣伝用に使ったダライ・ラマと並んで撮った写真が、その後は北京政府のダライ・ラマ攻撃の材料に使われている事。改革開放政策で中国国内の学校は独立採算制を押し付けられて、留学生を受け入れて金稼ぎをしようとしている事。など『チベ坊』で詳しく書いた話を短く説明しました。今でも、分裂騒ぎを起こしたりするほど、元気と言うのか危険と言うのか、オウムの残党は無くなりませんが、まだチベット仏教に関する日本人の無知につけ込んだ商売をしているのか、新しい「商品」を開発しているのか、教義の中身は分かりませんが、チベットに多少でも感心を持っている限りは簡単に忘れるわけには行かない大きな問題です。

■オウムを巨大化させたのは間違いなくテレビだったのは明らかで、その件に関してすっかり過ぎた事のように、同じ過ちを繰り返しつつあるように見える最近の心配事について深入りせずに、ホワイト・ボードと写真映像を使ってチベットの地理について簡単な説明に移りました。祁連山からアムネマチェン山までの間がアムド、その南がカムで、ラサを中心とした地域がチベット自治区という位置関係になりまして、これがそのまま「三大方言」の分布状態と重なるという事などを話ながら、中華人民共和国の輪郭線を描いて、そのど真ん中に丸く囲んで「青海湖」を示す、黄河の上流部分がS字型に屈曲して東に向かうところと青海湖とに挟まれた場所、そこチャプチャなのだと説明しましたが、うっかりチャ・プチャはモンゴル語で「二つの川(の合流点)」という意味だと考えられている事を言い忘れてしまいましたぞ!

■でも、「青海湖」の現地名は「ツォ・ゴンボ」でこれはチベット語、別名は「ココ・ノール」でこれはモンゴル語、どれも「青い海(大きな湖)」を意味していて、これを漢訳したのが「青海(チンハイ)」だ、という説明は丁寧にしておきました。祁連山の北側がシルクロードだとは付け加えませんでしたが、昔から民族が入り乱れて支配権を奪い合った場所だという事は納得して頂けたようです。清朝の領土を相続したと主張した中華民国に併合され、中華人民共和国の人民解放軍に解放された話は省略しました。時間に余裕が有れば、アルタン汗とダライ・ラマの関係や、今のダライ・ラマの実家と先代パンチェン・ラマの生家が割と近い所に在る事なども話したかったのですが、これを始めるとどんどん『坊っちゃん』から遠ざかって行きますので、早めに話題を学校生活に戻しました。

■チャプチャの地を少しでも身近に感じて貰おうと、写真を14枚選んでCD-Rに取り込んで置いたのを巨大スクリーンに映写して頂きました。1枚目は青海湖を背景として立つ講演者のアホ面!或る参加者が「とても風景に馴染んでいらっしゃいましたね」と後で仰いましたが、あれは褒めて頂いたのだと、勝手に解釈しております。青海湖には大きな魚が沢山生息している事を紹介して、そこからチベット人の宗教観へと話を広げました。つまり、鳥葬や水葬で死者を弔うチベット人は、これを究極の「布施」「施餓鬼」として執り行うので、布施をした相手の鳥や魚を食べてしまったら、儀式の意味が無くなってしまうというお話です。これも『チベ坊』には少し詳しく書いて置いた事です。

■続いて青海湖畔の草原に群れる羊達、チャプチャ近辺の荒れ始めている疎(まば)らな草地の羊達、石投げ紐を回転させる牧民の写真。運動会の開催中に撮影した学校の全景写真と名誉校長パンチェン・ラマの帰りを待つ寺院風の事務所の写真。その後が、『坊っちゃん』の対訳原稿をせっせと書いている講演者の様子、そして日本語中心で額を寄せ合って翻訳している生徒達の姿、という具合に写真を紹介したのでした。

■本来ならば、ここでサンスクリット・悉曇(しったん)・漢字・カタカナ・チベット文字の対照表を使って「50音図」の起源をお話しするところですが、会場が広過ぎて手製の表が使えないので、次に用意していたビデオ映像で説明する事になりました。それでも、チベット語と日本語には「あいうえお」が存在し、北京語には無いこと、「てにをは」も同様の関係になっている事だけは口頭で説明しました。更に残念だったのが、我が師の声で読み上げられるチベット語の「あいうえお」のカセット・テープを用意していたのですが、突然聞かされた日本人は混乱するだけだろうし、基本の30文字を紹介したり文字の組み合わせ方などを説明し始めたら、まったくの「チベット語入門」授業になってしまいますから、これも省略。

■講演会の後半はビデオ映像が主役、つまり我が生徒達が巨大なスクリーンに登場します。最近、ブログに書き込みをしてくれた元生徒のアガンジェ君の姿を多めに編集した20分物のビデオ映像なのですが、一時停止をしながらあれこれと解説を加えて行くと、結構な大演説になってしまいます。最初に映し出されたのは、2001年10月23日に新入生達が生まれて初めて日本語に接する映像です。2時間連続の授業で、最初の1時間はサンスクリットからチベット文字が生まれた経緯と、同じようにサンスクリットから日本語の「あいうえお」の体系が作られた事を示す板書をする様子が、短く編集されています。母音の順番がそっくりなので、歴史的な背景を知らないとテレビのヤラセ番組のようでもあり、騙そうと思えばチベット人の異常な言語能力を宣伝する事も出来そうな映像です。

■生まれて初めて黒板いっぱいに書き並べられた日本語の50音図を大きな声で読み上げるチベット人、同じ時間枠の中でランダムに指差されたカタカナを見事に読み上げるチベット人、そして、チベット語の文字の組み合わせ方に似せて説明した日本語の濁音・拗音を、割と正確に予想して読み上げて行くチベット人……。素朴で大きな声が教室に響く映像を、参加者達は、何故かとても懐かしい物を久し振りに見たように感じたそうです。続く映像は、これまた懐かしい?「いろは歌」を一文字ずつ聞き取って紙に書き出しているチベット人です。仮名文字が一回ずつ出て来る「いろは歌」を生徒達はぜんぜん知りませんから、必死になって教科書やノートの50音図から音を拾い出しては紙に書いて行きます。勿論、生まれて初めて見る文字ですから一画ずつ丁寧に書いています。しかし、彼らの習字が丁寧なのは、それだけの理由ではありません。

■彼らの母語であるチベット語の文字は、始めから仏教の御経典を書く為にだけ開発された文化ですから、文字=神聖な物なのです。最近の日本人は皆恥ずかしくなるような仮名文字が画面にアップで映し出されました。この映像に衝撃を受けた方も多かったようです。

松山講演記録 其の参

2006-05-24 08:13:35 | 著書・講演会
■講演会では詳しく紹介できなかったのですが、子規に多大な影響を及ぼしたとも言われている天田愚庵さんについて、もう少し紹介しておきます。

安政元年(1853)7月20日生まれ。磐城平藩家臣、甘田平太夫の5男。
幼名甘田久五郎改め天田五郎
明治元年(1868)15歳で戊辰の役に出陣。城下消失し平城陥落の戦
乱で父母妹行方不明となる。

以後、家族を探して全国を遍歴すること20年。その間に山岡鉄舟の知遇を得、その縁で清水次郎長と出会い養子に迎えられる。

明治10年(1878)滴水禅師に依り得度、鉄眼と号す。
        京都清水坂に庵を結び、愚庵と号して漢詩と万葉
        調の和歌を作る。
        
明治25年(1893)春。清水坂の庵を正岡子規と高浜虚子が訪ねる。

明治26年(1894)養父の次郎長死す。彼岸の入りの9月20日、父母
        菩提と衆生結縁の為、西国33箇所の巡礼に出発。
        伊勢・熊野など33の霊場を巡り12月21日の冬至、
        93日の旅から戻る。
        
明治の『奥の細道』と讃えられる『順礼日記』を完成、漢詩26篇と和歌33首を収める名著。

明治30年(1898)京都産寧坂の愚庵に桂湖村が長期滞在。
湖村に庭の柿15顆と松茸を託して病床の子規に贈る。
子規から返礼が無いので湖村宛の手紙に催促の一首を
記す。子規から6首の返歌が届く。

明治37年(1905)1月17日、伏見桃山で没す。享年51。

■昭和41年の秋に、有志の協力で伏見桃山に残っていた庵を、現在のいわき市松ヶ丘公園内に移築し、子規が食べた柿の木も一部移植されています。いわき市には「愚庵会」が有り、会報の『沙羅の木』の発行と来年1月17日に「愚庵忌」を開催する事が決定したそうです。勉強会を開こうという案も有るようです。移築された庵の前には立派な銅像も完成しております。巨人の子規に関してあれこれ書いていたら切がありませんので、このくらいにして置きます。さてさて、講演会の話に戻りますが、日本に留学している元生徒から松山に出発する直前に届いたメールにとても気になる一節が有りました。


……休憩の時間や彼らと一緒に外食するたびに、私はチベット人だから、生活習慣や民俗、言語などすべてがあなた方がイメージしている中国人とまったく違いますよってよく言っていますが、チベットのことを詳しくご存知の方はあまりいません。あるとしても彼らのイメージ中のチベットというのは高い山かダライラマを代表するチベットのお坊さんに過ぎません。……

何気なく読んで返事を書いたメールなのですが、ずっと頭の隅に貼り付いて松山まで引き摺って行ってしまったようです。

■「神秘の国」「仏の国」「ヒマラヤ」など、NHKの特集番組や民放テレビの「冒険」番組が日本人に与えるチベットのイメージには、非日常の驚異と不思議が溢れています。まるで異界のような扱いなので、そんな人達の中に混ざって暮らしていた体験をどう語り出せば良いのやら……。「我が師」「我が友」「我が生徒」皆チベット人ですから、チベット人に取り囲まれて学校生活を送ったお話は、日本の学校生活と実質的には何も変わりません。確かに、滞在していた場所は標高2800メートルなので軽い頭痛に襲われる人もいますし、冬季は零下30度になる時も有るので風邪もひきます。空気が薄いのでチベット人に誘われるままにバスケット・ボールなどやると、口から心臓が飛び出しそうになって生命の危機を感じたりもします。恐ろしく乾燥しているので、金属に触れる度にびっくりするような音を立てて放電ショックを受けます。

■勿論、青海省は中華人民共和国内の最も貧しい所ですから、衣食住の不自由を数え上げたら切が有りません。そんな四方山話をする為に、正岡子規記念博物館の4階に立派な会場を準備して頂いたのではありません。演題が「『坊っちゃん』はチベット語になっても面白い」と決まっていまして、ステージには巨大な紙に麗々しく大きな文字で掲示されていました。最終目標は、チベット人の生徒達が翻訳作業を通して『坊っちゃん』をどんな風に面白がったのか?を参加して下さった皆さんに伝える事です。

■『チベ坊』という本が文芸書なのか、ノンフィクションなのか、教育関連の本なのか、はたまた言語学のフィールド・ワーク報告なのか、今も評価が定まらないのは、夏目漱石の『坊っちゃん』とチベットが結び付く異様さが原因です。この変な組み合わせに隠されている「必然性」を講演を聴いた方々が納得して下されば、大成功というわけなのですが……。

松山講演記録 其の弐

2006-05-23 07:47:29 | 著書・講演会
■5月20日午後2時からの講演という企画なので、早めに会場に入って資料の映像や音源の再生などの確認作業をしました。子規記念博物館は4階建ての立派な建物で、道後公園の北の端に位置しています。講演会場となったのは4階の大ホール!主催の朝日新聞総局が連休明けの2週間という短い期間で参加者を募集したところ、100人以上の申し込みが有ったと聞いていたので気圧されてしまいました。講演者が逃げ出して行く不明では多大な迷惑が掛かりますし……。虚仮の一念、当たって砕けろ!と乗り込んだものの、さすがに会議用の長机に3脚ずつの椅子が整然と並べられている壮観な会場に立つと、口の中が急速に乾いてしまいました。

■台湾の北を進んでいた台風1号が広東省を水没させて、さらに北上して温帯低気圧になった日ですから、気象庁の1週間予報では、大雨に大風、飛行機が欠航したらどうしよう?と心配したくらいですから、遠方から参加予定だった人の中には早々と計画を変更した方もいらっしゃったようです。でも、実際には時々薄日が射す天気になりまして、市内から参加して下さった人の中には開場1時間も前から博物館内に入っておられた熱心な方もおられたのには、恐縮してしまいました。

■さすがに会場が予想以上に広いので、手製の文字対応表を示しても後ろ半分の席からはゴマ粒が並んでいるようにしか見えないので、苦渋の選択で掲示を断念したり、子規博物館の学芸員のW君と映像資料や音源資料の「出番」を打ち合わせながら器材の調子を見たりしている内に、緊張感が高まりました。何度も講演内容を練り直してみたものの、特にチベットに関して研究しているというわけでもない一般の皆さんに対して、どうして『坊っちゃん』がチベット語に翻訳されたのか?を1時間半で御理解頂く妙案は浮かびません。知り合いの中で講演活動をしている人を思い浮かべても、チベット仏教の研究家やチベット地域の旅行案内をしている人ぐらいしか、チベットを主題にした話をしている人が居ませんし、そこに『坊っちゃん』が絡むのですから、こんな変な講演会は他では絶対に聞けませんぞ!

■しかし、喋る方としましては、何をどんな順番でお話すれば良いのやら、毎回迷うのですが、これまで新聞や雑誌の取材を受けた経験を基にしまして、前半は翻訳に至るまでの「予備知識」をお話して、後半にビデオの記録映像を使って実際の翻訳授業の様子を説明するのが良いと思われます。何度も質問された「どうしてチベットに行ったのか?」「どうして翻訳したのが『坊っちゃん』でなければならなかったのか?」から説き起こして、チベット人が日本語を異様な速さで習得できた理由を納得して貰うというのが前半のメニューです。要は『チベ坊』の帯には「奇跡の物語」という宣伝文句が書かれているのですが、チベット語と日本語との類似性と歴史的な関係を理解すれば、奇跡でも何でもないんだなあ、と理解して貰うのが前半の目的なのでした。

■講演会場となったのが正岡子規記念博物館なので、福島県と子規とのちょっとした関係を紹介して御挨拶としました。いわき市出身の天田愚庵という漢詩と和歌に長けた武家出身の人がおりまして、子規に多大な影響を与えたという歴史が有るのです。この天田さんは戊辰戦争で焼け出されてから20年間も放浪生活を送ったんだそうです。彼の文才と人柄を愛した人々の中に山岡鉄舟が居て、その縁で清水の次郎長親分と知り合い、何と養子になっています。次郎長親分の一代記を書いたのが愚庵さんで、その『東海遊侠伝』が無ければ、広沢虎蔵の浪曲も東映の時代劇も、その後のテレビ・ドラマも作られなかった事でしょう。放浪中、禅宗のお坊さんとして出家し、京都の清水坂に庵を結んで暮らしてた時期が有りまして、何とそこをまだ元気だった正岡子規と高浜虚子が訪ねています。食いしん坊の子規は、そこの庭に植わっていた柿が大のお気に入りだったらしく、病に臥せるようになった子規に愚庵さんは柿の実を15個送って上げましたが、感想も御礼も書いて来ないので、愚庵さんはちょっと腹が立った。


まさをかは まさきくてあるか かきのみの
      あまきともいはず しぶきともいはず
      
■子規は元気かなあ?でも、柿の実が甘かったとも渋かったとも言ってこないけど……という意味でしたが、この歌が添えられた手紙を受け取った子規は慌てて返歌を送って来ました。


みほとけに そなえし柿の あまりつらん
      我にぞたびし 十あまり五つ
      
柿の実の あまきもあらぬ 柿の実の
     渋きもありぬ 渋きぞうまき

柿は届きましたよ。仏様にお供えした余り物だったんだろうなあ、甘いのも渋いのも有ったけれど、渋柿の方が旨かったなあ、ぐらいの意味でしょうか?

■和歌や俳句こそが「声に出して読みたい日本語」なのですが、戦後教育を受けると気に入った歌の100首や200首が口をついて出て来るような日本人にはなれませんなあ。悔しいことです。手紙にさらさらと「うた」を書き添える余裕も深みも無い日本語文化はもう駄目かも知れませんなあ。携帯メールなどで俳句を送り合っても、「横書き」ですから、これも困ったものであります。御挨拶代わりの子規の歌を紹介した後、いよいよ本題に入りました。

松山講演記録 其の壱

2006-05-22 07:41:50 | 著書・講演会
四国松山市の皆様には、大変にお世話になりました。お陰さまで、無事に講演会が盛会の内に終了しました。関係者とご参加頂いた皆様には、講演者の非力を反省しつつ、厚く御礼申し上げる次第でございます。
既に、現地の朝日新聞愛媛版の5月21日付け紙面で、小さいながらも講演会の記事が掲載されています。23日の同紙面に詳しい記事を掲載しようと、担当の優秀な記者さんが、現在、原稿を練り上げているところです。

■夏目漱石の『坊っちゃん』によりますと、松山という場所は野蛮な土地で、腹黒い人間がうようよしていて、食い物と言ったら「色町の団子」以外に旨い物など無い!というような所らしい……。しかし、聞くと見るとでは大違いと申します通り、松山空港に降り立ちまして、出迎えを受けてからの2日間、講演会に市内の文化的な観光に、美味しい物をシコタマ御馳走になって再び空港を飛び立つまで、誠に楽しく充実した時を過ごして参りました。従いまして、漱石の『坊っちゃん』には、「この物語は完全なるフィクションである」とデカデカと但し書きを付けねばなりますまいなあ。

■講演開始前の打ち合わせを兼ねて昼に食べたのが、鯛素麺と鯛めしが並んだお膳で、講演会が終わって「ふなや」で慰労会が催された時には、有名な川席料理に感動しました。丁度、『週刊現代』最新号に「文士が愛した温泉宿」という特集が掲載されておりまして、夏目漱石の欄には「ふなや」さんの名が有ります。


清流の流れる1500坪の広大な日本庭園では結婚披露宴も行える。大浴場は50人が入れる広さ。昭和天皇も宿泊したことがある。

と簡単な紹介文が添えてあります。川席料理というのは庭園内を流れる渓流風の川に庵のような座敷席を互いの視界に入らないように点在させて、清流のせせらぎを聞きながら食事を楽しむという恐ろしく贅沢な趣向です。障子を開ければ、今なら新緑、秋には紅葉を楽しめます。ちょっと「ふなや」の宣伝めいてしまいましたが、本当に漱石がここを愛用していたのなら、『坊っちゃん』を書いた創作力は意地悪く表現すれば正に天才的です。川席に運んで貰える料理は、3段の引き出し状に盛り付けられた煮物、焼き物、飯物で、更に氷を満たしたガラス容器にお造りが載った一品も付きましたなあ。

■愛媛の地酒も何種類か出して頂きまして、冷酒にぴったりの端麗味が五臓六腑に染み渡りましたぞ。勿論、食事の前にはちょっとぬるめの道後の湯に浸かっていましたから、酒も料理もいっそう美味であったのであります。他にもロール・カステラ風のタルトという銘菓や、庶民的な「じゃこ天」というのも有りました。これはガンモドキとそっくりなのですが、季節ごとに水揚げされる縮緬雑魚をすり身にしてあるので、実に風味豊かで飽きない味でしたなあ。「…ぞなもし」の方言は消えた松山ですが、昔ながらの海の幸を堪能して暮らしている場所なのであります。

■松山と言えば必ず訪ねなければならない道後温泉、入浴料400円と手ぬぐいと石鹸のレンタル料が50円なので、500円玉を握って浴衣に雪駄履きの気楽な格好で行きました。男湯(女湯も同じかどうかは不明)の壁には富士山ではなくて、鷺の姿が描かれているのです。これは昔から道後温泉の薬効を知っていた野生の鷺が傷を負うと湧き出す湯に足を入れて治していたという伝説がモチーフなのだそうです。神様の石像を載せて大きな石の台が湯船の中央に突き出ておりまして、万葉歌人の山部赤人さんが道後温泉を讃えた歌を彫り込んで有ります。そして、『坊っちゃん』100周年を意識してか、壁に大き目の木札(きふだ)が打ち付けて有りまして、洒落の効いた事が墨で書かれています。


「坊っちゃん泳ぐべからず」

■チベット人学生と『坊っちゃん』を翻訳した時に、松山の悪口を並べながらも、この温泉だけは絶賛して詳しく描写されているのを、生徒達が興味津津で訳した事を思い出しながら、大き目の木札を見上げました。チベットにも温泉が湧き出している所は多いのですが、そこはチベット医学に基づく湯治場なので、日本人のように料理や風景を楽しみながら浸かる温泉とは大きく違うものなのです。体を洗う習慣の無かったチベットでは、日本のような温泉文化は発達しませんでした。我が生徒達は、坊っちゃんが湯船で泳いで叱られたという話に非常に驚いたものです。日本語の先生としましては、温泉の利用方法を説明するために、入り口から脱衣所、洗い場と湯船、壁には絵が描かれている事などを黒板に略図を書きながら話さねばなりませんでした。

■『坊っちゃん』には背中を流してくれるサービスも書かれているのですが、その料金を現代の中国人民元に換算して「安い!」と盛んに羨ましがっていたのが女子学生達だったのは何故だろう?男子学生達は、綺麗なお湯の中で「泳いでみたい」と言っておりましたなあ。

産経新聞インタヴュー

2006-02-26 12:06:19 | 著書・講演会
■産経新聞 2月26日

【著者に聞きたい】 中村吉広さん 『チベット語になった「坊っちゃん」』

自分たちの言葉に誇りを

中国青海省の小さな町、チャプチャの青海民族師範高等専科学校に一九九八年から
二〇〇一年まで滞在、チベット人に日本語を教えた体験記をまとめた。しかし最初から
日本語教師として赴任したのではない。チベット仏教の理論書を読むための語学留学
先として選んだのがこの学校だった。

「きっかけはオウム真理教事件。チベット仏教を騙(かた)る彼らを誰も止められなかっ
た。チベット仏教の本質は何だろうと興味がわいた。ところが、チベット仏教の超能力
や神秘的な側面について書かれた本は出ているけど、本質に迫る本は国内では手に
入らない。留学して理論書を読むしかないな、と」

同校は中国政府がチベット民族教育のための教員を養成する施設で、学生の九割が
チベット人。チベット人が多く住む奥地でチベット語を学びたいという希望に合う学校で、
初めての外国人留学生が中村さんだった。

三年間、生徒として学び、チベット人の日本語教師が学校を去ったことから、留学期間
を延長して四年目から日本語を教えることになった。「大変でした。日本人が韓国語を
勉強するのに、フランス語で書いた韓国語教科書を使う人はいない。でもここでは、同じ
ようなことをやっていた」。チベット語は、日本語と同じように単語を助詞でつないでいく
「膠着(こうちゃく)語」。ところが、教科書はまったく系統の違う中国語(北京語)で書か
れている。これでは効率よく教えることができない。

中国語を介せず、チベット語を日本語に訳すための教材として学校に所蔵されていた
日本文学全集から夏目漱石の『坊っちゃん』を選んだ。『坊っちゃん』と同じように寄宿
舎で生活を送っている彼らは、ときに笑い声を上げながら翻訳作業に取り組んだ。

生徒たちは、中村さんの一年間の任期中には最後まで訳すことはできなかった。しかし
近代化が進み、チベット語が話されなくなっていく中、「チベット語は道具として機能する
んだ、自分たちの言葉に誇りを持てというメッセージは伝わった」と手応えを感じている。
途中までとはいえ、チベット語版「坊っちゃん」を残すことができた。

「次の世代がこれを見て日本語に興味を持ってくれれば」



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