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表現者

※初めての方はこちら「プロローグ」「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。

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みなさま、改めまして、あけましておめでとうございました。(過去形)


2015年を迎え、晴れて「厄年終わったー!」と胸をなで下ろしていたところに、「黒斎さん、厄年は旧暦で数えるから、2月18日まで続くよ」というクールなコメントが多数寄せられました。

Don't Worry!

大丈夫。私、失敗しないので。(人見知りのチワワのように小刻みに震えながら)


さて、新年1発目の投稿。

何を書こうかと迷ったあげく、昨年末ブログ以上に大きな反響をいただいた、Facebookでの書き込みに加筆してお話をすすめていきたいと思います。



『表現者(クリエイター)』には、大きく分けて2つのタイプが存在します。

一つは「アーティスト」、一つは「デザイナー」です。

アーティストもデザイナーも表現者ではありますが、決定的な違いがあります。

アーティストは、自分の感性・表現したいものをストレートにアウトプットします。そこには制約もルールも存在しないので、完全に自由です。

一方デザイナーには、様々な制約が存在します。それは、自分のアウトプットしたい表現がまずあるのではなく、クライアントやユーザーの要望・ニーズが最優先とされるからです。

表現の軸が、アーティストは「自分」にあり、デザイナーは「他者」にあります。


もちろん「表現力」というものは必要ですが、それ以上にアーティストの持つ魅力は、その感性。言い方を変えれば、常人離れしたものの見方です。

その感性を伝えたいという強いパンションに突き動かされてを自由にアウトプットするのですから、その魅力が通じる人にとっては、とてもパワフルに映ります。

しかし、自由ゆえのデメリットも存在します。

そのものの見方が、一般的な見方と乖離するほどオリジナリティを増しますが、度を超えると理解されなくなってきてしまうのです。

また、そのオリジナリティが激しくなるほど、それに対する印象の好き嫌いが色濃くなっていきます。賞賛と嘲罵の二極化が進むんですね。


一方デザイナーは、基本「受け入れてもらえること」と「表現がニーズと一致すること」が前提となります。

まず、自分よりも相手が優先されるため、そこまで強い表現者の感性や作家性(常識を覆す新たな視野)は求められません。むしろ自身の個性を消して、的確にニーズに表現を合わせていく柔軟性が求められます。

もちろん新たな視野の提供・サプライズはパワフルなので、それを効果的にアウトプットできれば最善なのですが、ターゲットが持っている視点との乖離が大きくなればなるほど、表現になる前にお蔵入りとなります。

仮に、過剰な個性で無事アウトプットされたとしても、ユーザーの感性と合わなければ、やはりその表現は機能しません。(想定外に受け入れられるというミラクルも時に起こりえますが)

奇抜なデザインも存在しますが、それは奇抜さを求めるユーザーがいて、はじめて成立します。アート同様、その表現が一般受けしなくなっていくほど、賞賛と批判は二極化していきますが、プラン上あえて批判するターゲットは切り捨ててよし、届かなくてよし、なわけです。

アーティストに「鑑賞者のセンス・理解力に合わせろ」というのも変ですし、デザイナーにアーティストの強い感性・作家性を求めても酷です。


このことは、グラフィックの世界に限ったお話ではなく、様々な分野に当てはめてみることができます。

精神世界における『メッセンジャー』と呼ばれる方々もしかり。

言わずもがな、「どう言ったら伝わるだろう?どうすれば耳を傾けてくれるだろう?」と、人の顔色を気にしながら表現を模索している僕は、バリバリのデザイナータイプ。

賢者テラさんなんかは、バリバリのアーティストタイプですね。

ご自身がお話されている通り、「売れるため、受け入れてもらうために言葉を薄め、あるいは捏造し、世間の顔色を窺うようになる」ことを嫌います。

受け入れられるかどうかは別問題。とにかく、自分の言いたいことを言いたい、という強い思いがあります。


さて、問題はここからです。

表現のカタチがどうであれ、精神世界における「コアの部分」、いわゆる『それ』については、基本的に世間に受け入れられやすい内容ではありません。

たとえば、「自我を超える」「自我を落とす」「自我を消す」などといった内容は、その言葉尻はどうであれ、「自我の解釈の向こう側」への誘いです。

そのためには、一度、自我が死ななければなりません。

自我は自分ではありませんが、それを自分だと感じている人に「一回死んでごらん」なんていうメッセージが、受け入れられやすいものであるはずがありません。

確かに不安や悩みも抱えてるけど、究極の理解なんてなくたって、とりあえずちゃんと生きてるんだし、日々の生活だってあるし、そんなことに時間を費やすほど暇じゃないし、「一回死ね」とか、そういうのより、もっと生活に密着してる『使える処世術』の方を教えてもらえる方がありがたいんだよね。ってのが正直なとこだと思うんです。

で、ヒアリングする側がそうなのだとしたら、実はデザイナータイプのメッセンジャーにはもうお手上げなんだよね。

自分の理解を処世術のレベルまで薄めないと、受け取ってもらえないから。広まらないから。

でも、そこまで薄めたメッセージをどれだけ発信しても、結局本質の部分が伝わるわけはないんだよね。だって薄いんだから。

なので、その本質の部分を語るには、アーティストにならざるを得なくなるわけです。

受け入れる入れないお構いなしに、ズドン!とど真ん中に剛速球食らわすわけですから、感性が上手くはまれば、一気に大きな気づきが訪れるかもしれません。

なんだけど、アーティストタイプのメッセンジャーは、そもそも常識では「え!?」ってなるところを、ストレートに「一回死んでごらん」なんて言い出すわけだから、どんどん耳を傾ける人がいなくなっちゃうし、それどころかだんだん嫌われだしちゃう。

どれだけ本質を突いたメッセージを発信しても、結局なかなか広まらないんだよね。


僕もね、ちょくちょく自分でも思うことがあるんです。

僕のメッセージ、薄いよなーって。

で、思い切って、いつもよりちょっと濃いめにして出してみることもあるんですね。

そうすると、「ちょっとミチコさん、最近のお味噌汁、なんだかとっても塩辛くなくて? もしかしたら、私を早死にさせたいってことなのかしら?」なんて、どっかの姑さんみたいな感じでなじられちゃったりするんだよね。だってそうだよね、確かに自我を早死にさせたくて出してるんだから。


ま、薄いにせよ、濃いにせよ、どっちもどっちで伝わりづらいわけでして。

そもそも「頭の中から言葉が消失したときに初めて感得できる世界」を、言葉を使って伝えようってこと自体に無理があるんですよ。

我ながら、不毛ですね(笑)


で、ですよ。

じゃ、その真髄を言葉を介さず伝える為には、どーすりゃいいのよ?ってことになるわけで。

そこで出てくるのが『不立文字(ふりゅうもんじ)』『拈華微笑(ねんげみしょう)』『教外別伝(きょうがいべつでん)』という禅の世界。

言葉じゃないんですから、そこは「メッセンジャー」ではなく、「マスター」の出番でございます。


マスターは、アーティストでも、デザイナーでもありません。

「表現者」ではなく、「体現者」なんですね。

「アーティスト」や「デザイナー」に代わるタイプをしいてあげるなら、「マイスター(職人)」みたいな感じ。

同じ言葉を発しても、メッセンジャーは「表現」、マスターは「体現」。同じようでいて違うんだよね。


次回は、そこらへんの違いについてお話してみたいと思います。



【トークライブ・インフォメーション】


再始動!『阿雲の呼吸』〜新春の陣〜

いよいよ開催の迫ってきた阿雲の呼吸。
12日(月・祝)開催の大阪会場は、残席わずかとのことです。
詳しくは下記リンク先にてご確認ください。

◎1月12日(月・祝)大阪
◎1月17日(土)名古屋
◎1月18日(日)博多

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平日のお話会「月イチ☆」

今月は、阿雲の呼吸で大阪・名古屋にお伺いするため、「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」はお休みさせていただきます。

東京三鷹会場は、1月21日(水)開催予定です。チケット販売は来週14日(水)からとなります。

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ソロライブ in 福岡&熊本

今年もBe Here Nowの常冨さんから福岡・熊本へのお招きをいただきました。
昨年の5月以来、久しぶりの開催です。
「お久しぶりです!」のあなたも、「はじめまして!」あなたも、ぜひお気軽にご参加ください。
お申し込み・お問い合わせは下記のリンク先をご覧ください。

◎2月21日(土)福岡
◎2月22日(日)熊本



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