いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
三学
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
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中国の伝奇小説『西遊記』に登場することでも有名な三蔵法師さん。
実はこの「三蔵法師」という名称は、人の名前・固有名詞ではありません。
「三蔵(仏教の律蔵・経蔵・論蔵)に精通した僧侶(特に、インドから中国へと経典をもたらし、漢訳した方々)」という意味合いの「肩書き」なんですね。
なので、西遊記に登場する「玄奘」以外にも、「鳩摩羅什(くまらじゅう)」「真諦(しんだい)」「不空金剛(ふくうこんごう)」などたくさんの「三蔵法師」がいらっしゃいます。
でもって、この「三蔵」。要は仏典を大きく三つに分けたものなんですけど、律蔵・経蔵・論蔵って言われても、なんやよくわからないですよね。
今日はこのことを、先日の「アーティスト・デザイナー」「マイスター」のお話につなげてお話したいと思います。
実は先日再始動しました『阿雲の呼吸』、その大阪会場で、阿部さんが立ち上げられた「禅プロジェクト」の計画を少しばかりお伺いしたんです。
「阿部さん、禅プロジェクトって、具体的にはどんなことをしていくんですか?」って。
その答えの一つが、『三学(さんがく)の実践』というものだったんです。「三学(仏道)をともに実践していきましょう」と。
「三学」っていうのは、仏道における基本的な修行項目を「戒学(かいがく)」「定学(じょうがく)」「慧学(えがく)」と、これまた三つに分けたもので、それぞれが冒頭お話した律蔵・経蔵・論蔵に相当します。
『戒学』は、戒律のことで、めっちゃ平たく説明しますと「良いと思うことをしよう。悪いと思うことはやめよう」という戒めにあたります。(この戒めは、あくまで「自分に対して」です。戒律をもとに「あれをしなさい、これをやめなさい」と他者に強要するものではありません)
「良いと思うことをしよう。悪いと思うことはやめよう」っていうと、すごく当たり前のように聞こえるけど、これって結構難しかったりするんです。
自分の日常生活を振り返ってみると、「これはやった方が良さそうだな」ってことを先延ばししてしまったり、「これはあんまり良くないよなぁ」なんて思いながらも続けていたり、ってこと思いあたらないですか?
僕たちは良くも悪くも習慣に囚われてしまいがちなので、今一度、自分の行動や癖(事象に対する反射傾向など)を見つめ直し、留意をもって生活してみましょう、ってことですね。
そういった態度が、自分の心の内を観照することになり、次の『定学』に繋がっていきます。
『定学』は、心の錯乱や動揺を沈め、心身に寛ぎをもたらす方法を修める、つまりは瞑想を極め、「禅定」を修めること。
そして『慧学』は、智慧を修めることで、自我を超えた世界、すべての事柄のありのままの姿を見極めること。
この三つは、それぞれ連携しており、
戒 ・戒に準じて生き方を正すことによって「定」を助け、禅定に導き
定 ・禅定にある精神によって智慧(気づき)がもたらされ
慧 ・気づきを重ねることで真実をありのままに観られるようになり、それによって真理をさとり、仏道が完成する
という、仏道トリニティを成しております。
ここで大事なのは、これらを「学ぶ」という姿勢のあり方でして、「学ぶ」って言っても「覚える(記憶する)」わけではないんです。
仏道、禅の世界における「マスターと弟子」の関係は、「先生と生徒」ではありません。
マスターが弟子に「教える(何かを与える)」とか、弟子がマスターから「教わる(何かを受け取る)」ではないんです。
と、言いますのも、この三学(三蔵)を通してマスターが目指しているのは、弟子の「慧」の発露です。
「慧」ってのは、「気づき」のことですから、それは「新しい知識」ではありません。
「目からウロコ」という慣用句が指すように、慧(気づき)は「新しい知識が与えられる」ことで完成されるものではなく、「特定の観念が崩壊することによって露わになっていくもの」です。
「師の教えを私の中に取り入れる」のではなく、「師の言葉・体現によって、私の観念が崩れていく」、「私」が崩れた分だけ「慧」が露わになる、そういう関係なんです。
これが、「メッセンジャー(特にデザイナータイプ)」と「マスター」の最大の違いです。
前回お話したとおり、「デザイナー」の基本は、「受け取ってもらう」という姿勢です。
それに対し「マスター」の基本は「奪い去ってしまう」ですから、関係性でいえば、真逆なんです。
以前ご紹介した老子の言葉にも残されていますね。
学を為せば日に益し、道(タオ)を為せば日に損す。
訳:学びを成せば、日に日に知識が身についていく。
しかし、道(タオ)を成すのなら、逆にそれらは日に日に失われていく。
他のことはさておき、こと仏道・禅に関しては、マスターに対して「マスターはこの修行において、私に何を与えてくれるの?」という姿勢で向かい合ってしまうと、全てが空回りしてしまいます。
そしてまた、マスターが奪い去ろうとしているのは、コンプレックスなどの「落としたいもの」だけではありません。時には弟子が「良かれ」と思って大事に抱えているものすらも落としてしまう勢いです。
そこにはやはり、マスターに対する大きな信頼、リスペクトがなければ成り立ちません。
【トークライブ・インフォメーション】
再始動!『阿雲の呼吸』〜新春の陣〜
名古屋・福岡での開催は、いよいよ明日・明後日となりました!
いまのところお席にはまだ余裕がありますので、当日受付も可能かと思います。
お時間が合いましたら、ぜひ足をお運びください!
詳細は下記リンク先にてご確認ください。
◎1月17日(土)名古屋
◎1月18日(日)博多
*****
平日のお話会「月イチ☆」
◎1月21日(水)19:30スタート [詳細・お申し込み]
今月は、阿雲の呼吸で大阪・名古屋にお伺いするため、「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」はお休みさせていただきます。
*****
ソロライブ in 福岡&熊本
今年もBe Here Nowの常冨さんから福岡・熊本へのお招きをいただきました。
昨年の5月以来、久しぶりの開催です。
「お久しぶりです!」のあなたも、「はじめまして!」あなたも、ぜひお気軽にご参加ください。
お申し込み・お問い合わせは下記のリンク先をご覧ください。
◎2月21日(土)福岡
◎2月22日(日)熊本
←読者に対する大きな信頼がなければ成り立ちません。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
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中国の伝奇小説『西遊記』に登場することでも有名な三蔵法師さん。
実はこの「三蔵法師」という名称は、人の名前・固有名詞ではありません。
「三蔵(仏教の律蔵・経蔵・論蔵)に精通した僧侶(特に、インドから中国へと経典をもたらし、漢訳した方々)」という意味合いの「肩書き」なんですね。
なので、西遊記に登場する「玄奘」以外にも、「鳩摩羅什(くまらじゅう)」「真諦(しんだい)」「不空金剛(ふくうこんごう)」などたくさんの「三蔵法師」がいらっしゃいます。
でもって、この「三蔵」。要は仏典を大きく三つに分けたものなんですけど、律蔵・経蔵・論蔵って言われても、なんやよくわからないですよね。
今日はこのことを、先日の「アーティスト・デザイナー」「マイスター」のお話につなげてお話したいと思います。
実は先日再始動しました『阿雲の呼吸』、その大阪会場で、阿部さんが立ち上げられた「禅プロジェクト」の計画を少しばかりお伺いしたんです。
「阿部さん、禅プロジェクトって、具体的にはどんなことをしていくんですか?」って。
その答えの一つが、『三学(さんがく)の実践』というものだったんです。「三学(仏道)をともに実践していきましょう」と。
「三学」っていうのは、仏道における基本的な修行項目を「戒学(かいがく)」「定学(じょうがく)」「慧学(えがく)」と、これまた三つに分けたもので、それぞれが冒頭お話した律蔵・経蔵・論蔵に相当します。
『戒学』は、戒律のことで、めっちゃ平たく説明しますと「良いと思うことをしよう。悪いと思うことはやめよう」という戒めにあたります。(この戒めは、あくまで「自分に対して」です。戒律をもとに「あれをしなさい、これをやめなさい」と他者に強要するものではありません)
「良いと思うことをしよう。悪いと思うことはやめよう」っていうと、すごく当たり前のように聞こえるけど、これって結構難しかったりするんです。
自分の日常生活を振り返ってみると、「これはやった方が良さそうだな」ってことを先延ばししてしまったり、「これはあんまり良くないよなぁ」なんて思いながらも続けていたり、ってこと思いあたらないですか?
僕たちは良くも悪くも習慣に囚われてしまいがちなので、今一度、自分の行動や癖(事象に対する反射傾向など)を見つめ直し、留意をもって生活してみましょう、ってことですね。
そういった態度が、自分の心の内を観照することになり、次の『定学』に繋がっていきます。
『定学』は、心の錯乱や動揺を沈め、心身に寛ぎをもたらす方法を修める、つまりは瞑想を極め、「禅定」を修めること。
そして『慧学』は、智慧を修めることで、自我を超えた世界、すべての事柄のありのままの姿を見極めること。
この三つは、それぞれ連携しており、
戒 ・戒に準じて生き方を正すことによって「定」を助け、禅定に導き
定 ・禅定にある精神によって智慧(気づき)がもたらされ
慧 ・気づきを重ねることで真実をありのままに観られるようになり、それによって真理をさとり、仏道が完成する
という、仏道トリニティを成しております。
ここで大事なのは、これらを「学ぶ」という姿勢のあり方でして、「学ぶ」って言っても「覚える(記憶する)」わけではないんです。
仏道、禅の世界における「マスターと弟子」の関係は、「先生と生徒」ではありません。
マスターが弟子に「教える(何かを与える)」とか、弟子がマスターから「教わる(何かを受け取る)」ではないんです。
と、言いますのも、この三学(三蔵)を通してマスターが目指しているのは、弟子の「慧」の発露です。
「慧」ってのは、「気づき」のことですから、それは「新しい知識」ではありません。
「目からウロコ」という慣用句が指すように、慧(気づき)は「新しい知識が与えられる」ことで完成されるものではなく、「特定の観念が崩壊することによって露わになっていくもの」です。
「師の教えを私の中に取り入れる」のではなく、「師の言葉・体現によって、私の観念が崩れていく」、「私」が崩れた分だけ「慧」が露わになる、そういう関係なんです。
これが、「メッセンジャー(特にデザイナータイプ)」と「マスター」の最大の違いです。
前回お話したとおり、「デザイナー」の基本は、「受け取ってもらう」という姿勢です。
それに対し「マスター」の基本は「奪い去ってしまう」ですから、関係性でいえば、真逆なんです。
以前ご紹介した老子の言葉にも残されていますね。
学を為せば日に益し、道(タオ)を為せば日に損す。
訳:学びを成せば、日に日に知識が身についていく。
しかし、道(タオ)を成すのなら、逆にそれらは日に日に失われていく。
他のことはさておき、こと仏道・禅に関しては、マスターに対して「マスターはこの修行において、私に何を与えてくれるの?」という姿勢で向かい合ってしまうと、全てが空回りしてしまいます。
そしてまた、マスターが奪い去ろうとしているのは、コンプレックスなどの「落としたいもの」だけではありません。時には弟子が「良かれ」と思って大事に抱えているものすらも落としてしまう勢いです。
そこにはやはり、マスターに対する大きな信頼、リスペクトがなければ成り立ちません。
【トークライブ・インフォメーション】
再始動!『阿雲の呼吸』〜新春の陣〜
名古屋・福岡での開催は、いよいよ明日・明後日となりました!
いまのところお席にはまだ余裕がありますので、当日受付も可能かと思います。
お時間が合いましたら、ぜひ足をお運びください!
詳細は下記リンク先にてご確認ください。
◎1月17日(土)名古屋
◎1月18日(日)博多
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平日のお話会「月イチ☆」
◎1月21日(水)19:30スタート [詳細・お申し込み]
今月は、阿雲の呼吸で大阪・名古屋にお伺いするため、「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」はお休みさせていただきます。
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ソロライブ in 福岡&熊本
今年もBe Here Nowの常冨さんから福岡・熊本へのお招きをいただきました。
昨年の5月以来、久しぶりの開催です。
「お久しぶりです!」のあなたも、「はじめまして!」あなたも、ぜひお気軽にご参加ください。
お申し込み・お問い合わせは下記のリンク先をご覧ください。
◎2月21日(土)福岡
◎2月22日(日)熊本
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