いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
ふりだしに戻る
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
※「極楽飯店」の第一話はこちらから。
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(  ̄Д ̄) 『「降参(サレンダー)のススメ」は、すなわち「ラフティング(川下り)のススメ」である』
ひとが潜在的に求めている本質は、流れの下流、存在の大海原にあります。
しかし、人間の多くはその事に気づかず、自分を満たしてくれる何かが、流れの上流(お山のてっぺん)にあるのだと強く信じこんだまま流れに逆らい、上流に向けて必死にオールを漕いでいる状態です。
「進化だ、成長だ!」
「川を下るだと? バカな事を抜かすな、人間、上ってなんぼだろ」
そう言って、「上(上流)」を目指しています。
しかし、皆が心の底で求めているものは「上」にあるのでも「先」にあるのでもありません。
真逆の下流、その先の海にあるのです。
長らく上流を目指し奮闘してきた者にとっての下流の意味は、いわば「出発点」。そこには「ゴール」と真逆であるという感覚がつきまとうため、「出発点=ゴール」といわれても意味が飲み込めません。
ここで力尽きてしまっては、いままでの苦労が水の泡。
流れに立ち向かって進まなければ「ふりだしに戻る」となってしまうではないか。
その思いがあるが故に、オールを手放すことができません。
「降参(サレンダー)」は、それまでがむしゃらに漕いでいたオールを手放すことです。
流れに逆らうのではなく、その流れに乗ってしまうのです。
そうすれば、ボートは自然と海へとたどり着きます。
【ライブ・インフォメーション】
「降参(サレンダー)のススメ」出版記念と銘打ちまして、金沢で「阿雲の呼吸」を開催します。
◎3月20日(火・祝) 阿雲の呼吸 in 金沢
詳しくは阿部さんのブログにて。
【インフォメーション】
本日24日から、リブロ池袋本店さんにて「降参(サレンダー)のススメ」の先行発売が行われることになりました。
詳しくはこちら。
←ふりだしに戻るのは、いやなものです。なかなか「はい」とは頷けません。
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(  ̄Д ̄) 『「降参(サレンダー)のススメ」は、すなわち「ラフティング(川下り)のススメ」である』
ひとが潜在的に求めている本質は、流れの下流、存在の大海原にあります。
しかし、人間の多くはその事に気づかず、自分を満たしてくれる何かが、流れの上流(お山のてっぺん)にあるのだと強く信じこんだまま流れに逆らい、上流に向けて必死にオールを漕いでいる状態です。
「進化だ、成長だ!」
「川を下るだと? バカな事を抜かすな、人間、上ってなんぼだろ」
そう言って、「上(上流)」を目指しています。
しかし、皆が心の底で求めているものは「上」にあるのでも「先」にあるのでもありません。
真逆の下流、その先の海にあるのです。
長らく上流を目指し奮闘してきた者にとっての下流の意味は、いわば「出発点」。そこには「ゴール」と真逆であるという感覚がつきまとうため、「出発点=ゴール」といわれても意味が飲み込めません。
ここで力尽きてしまっては、いままでの苦労が水の泡。
流れに立ち向かって進まなければ「ふりだしに戻る」となってしまうではないか。
その思いがあるが故に、オールを手放すことができません。
「降参(サレンダー)」は、それまでがむしゃらに漕いでいたオールを手放すことです。
流れに逆らうのではなく、その流れに乗ってしまうのです。
そうすれば、ボートは自然と海へとたどり着きます。
【ライブ・インフォメーション】
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◎3月20日(火・祝) 阿雲の呼吸 in 金沢
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コメント ( 42 ) | Trackback ( )
« 自己責任 | 同ジャンル » |
今日の記事を読んでびっくりしました。
なぜなら、まさに今朝、出勤時に歩きながら考えていたことに一致していたからです。
私は、ふと「流れに逆らって、抗って生きていても疲れるだけだよなぁ。川に流される葉っぱのようなもので、自分は流れに従って下流へ、もしくは大海原に流されるのみ。それに逆らって岩にしがみついて流されまいとしてもしょうがないよね~。」と考えていました。
う~ん、まさに奇遇!!!そしてこのコメントを残すことも必然だったと言うことですよね(笑)
諾々と頷けないのです
ものすごい敗北感と共に
流されていく景色を眺めて
途方に暮れるのです
でも もう力つきたから
その先あるのが
滝つぼでも 海でも
なるようになれ…
今日の記事を読んで
スゴくわかりやすかったです。
今日久しぶりに会った人がいるんですが
この前もすれちがったけど話ができまなくて…
また会えたから
この出会いは必然なのかも…と思って
話したら思いも寄らない良い話が聞けました。
会えてよかった~って思ってたところに
この記事を見て
やっぱりそうなんだって腑に落ちました。
ありがとうございます。
大いなる海に向かっていたつもりが上流をめざしていたんですね。腑に落ちました。
オール(自我)を手放せば、自然と海に向かうんですね。自分のボートには、予備のオールがいっぱいつんであるんだなあって気づきました。ありがとうございます。
(いつもごくろうさまです)
viva♪黒斎節
「流れに乗り始めると、皆さんが願うものはすべて下流にあるので、望みどおりの状況や出来事が現れ始めます。今まで・・・時にはとても長い間・・・待っていたあらゆることがたちまち出現します。なぜなら願いが実現するのを妨げていたのはたった一つ、皆さんが上流に向かって漕ぎ続けていたことなのですから。」
流れに身を任せる。。ですね
。。私は流れている自分の外ばかり眺めていて、その時その時の感情を味わう事なく。。流れてる。。
今朝、私のレッスン1の始まりだって思ってました。
(これもシンクロ?)
変なコメントですいません。
流れ行く先がゴールだし、出発点だったんですね。
海から川を遡上して、ダムにせき止められた脇の魚道を必死に上るサケの姿が思い浮かびました。
傷だらけになって遡上して必死の形相で子孫のこし、
脱力というか、ほっちゃれになってあわれ死を迎える・・・・
我々の降参への抵抗はそれを「あわれ」と思う感傷ゆえに生まれてしまうのか。
じゃあ最初から海にいて遡上もせず、海にいて海に終われば、って話でもなく
やっぱり川を遡上して、子孫残して、死して川を下ってサケは喜びの一生だろうし
我々もまた、必死に上ったところでお手上げとなり、
お手上げゆえに流れに乗って知る感動に、わざわざ出会うために上るのかな。
なんだか、滑り台のようでもある。
幼児はとにかく「滑り台」が好きですね。
お手上げって「万歳」だし、万歳って「おめでたい」。
いろいろ、連想の生まれるお話でした。
黒斎さん、あなたは本当に面白い表現者ですね。
川をさかのぼってやま
しかし疑問も出てきます。 最近札幌で40代の姉妹が亡くなった事件や、親子三人が餓死した事件などのニュースを見るたびに、この人達の人生って降参しっぱなしじゃないのかな?なんて・・・。
僕は身体障害者(先天性)で足が悪く、体も小さく、体力的に人より劣ります。
学生のときの学力は中の下くらいでしたので、頭で稼ぐなんてこともありません。
そもそも競争に勝つということにハナから遠い存在でした。
しかし根が楽観的なもので深刻になることはありませんでしたが、老人の孤独死、知的障害者の孤独死を新聞やニュースで見るたびに、自分の将来を見ているような気になります。
いままで、6回程手術で入院し親に金銭的負担をかけて来ました。 これからもかけるかもしれません。
僕が孤独死しようが、構いませんが、僕という存在が親の負担になっていることが一番のネックです。
ただし、生活がとても苦しく、食べるのもやっとという状況ではありません。
自立したいと願うことも、降参からは遠ざかってしまうんでしょうか?
ムムム。
がむしゃらに漕いでないんですけどね~
なんでオールを手放さないんだろう…
いつだってこうなったら私は幸せと先に条件付けしてるけど、起きたことに対して幸せを発見していければ楽(ラクだしハッピー)なんだねと思いました。
新刊発行おめでとうございます。
サイン会、頑張ってください。
振り出しにもどる・降参する・明け渡す・委ねる・お任せする・絶対信頼する・己を捨てる
などなど・・・
これ↑ぜーーんぶ自我にとっては1番無理難題ですねー
で、どうだったかな?と振り返ってみて
もう降参せざるおえない状態を頂いて・・・
まるで「腐ったみかん状態」を頂いて
やむおえず・・
結果的には、しぶしぶ降参したようなもんだったなぁ~と思います。
これって結果的に話せる話で、よっぽど苦しくならなければ出来ないことだろうなぁ~と思います。(私の場合・汗)(-_-;)
つまり真逆から言ったら
今!苦しんでいる人は【 大チャンス 】ですよね。。。
今!苦しい人こそ是非!トライしてほしいです。
必ず 苦しみから解放されます!
これは本当でした!
雲さんには心から感謝しています。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
ドイツとかー。
熱烈大歓迎ですよ♪
今日のお話も、分かりやすくてとてもよかったです!
いつもありがとうございます。
とフト思った。
流れ流れて、なーんだこんなところやったんか、と思うんだろうか。
「軽々しくこういうことを吹聴しないでください!こういったことを信じた私の知人は、本当に何もしませんでした!結果、どうなったと思います?生活保護のお世話になってるのですよ!!」
といったことが書き込んであるのを見て、
いや、生活保護の云々は置いとくとしても、その知人さんはなんとかなってるやん…
と思った記憶があります。
でも、良くわかりませんでした。
何をもってして『オールを手放す』なんでしょうか?
今、求職中なんですが何もしたくなければ引きこもっている方がいいと言う事なのでしょうか(・・?)
オールを手放すってそういう事なんでしょうか?
生活費が必要なので探してはいますけど…。
うーん。
流れにまかせたいんですけどね。
そのうち意味が分かればいいなぁ。
進化とは深化である、とよく言われてるくらいですし。
コクサイさんは、進化・成長という言葉をなんだか目の敵にしてるみたいですね。
あと、原理的に「戻る」ことはあり得ないと思います。
たとえ出発点に向かうとしても、それは「進む」です。
「進む」を否定して「戻る」を推奨するなら、コクサイさんは子供の世話をしない方がいいということになります。
だって世話したら、成長しちゃいますからね。
子供もできるだけ産まないようにしなければならなくなります。
そして、進化を否定するなら、地球や生命体など生まれてこない方がよかった、ということになります。
けど、もう生まれてしまってます。
だから、川下りであろうとも進むことしかできないと思います。
好みの問題ではなく。
見ず知らずの他人様の事を、ああだこうだと私には言えませんが・・・
“本当の意味で降参”していたら、今日の日本であれば、どの様な形であれ生きて生活はできたでしょう。
(そう思うと、本当に心が痛みます。)
冷たい言い方になってしまいますが、心の中では、どこか“とらわれ”の様なものが残っていた・・・
と言うか、むしろ“とらわれ”に“こだわって”いたのではないでしょうか。(と、私は推測します。)
本当の意味での降参とは、とらわれとか、こだわりとかに、とらわれて、こだわっていることに気付き・・・
否定したり、抵抗したり、足掻いてみたり、無いものをねだってみたり、という事を放棄している状態です。
決して、生きる事や、よりよく生活したいという事を否定しているのではありません。
そうではなくて、自分自身を否定したり、自分を卑下したり、他者に対して自分自身をより良く見せようと無理をしたりという、
根っこに拒否や不安や怖れがあって、それを元にして思考したり行動したりしている「その一連の行為から手を引きましょう」という事です。
だから、流れに逆らう様な思考や行動を続けていれば、本人は心の底からの楽しみや喜びよりも、
苦しみや、その苦しみを誤魔化そうという感情や行為に、日常のほとんどを費やしているのではないでしょうか。
自立したいという願いには、葛藤 鷹さんの思いやりが感じられます。
でもそれが、「自分が負担になっているから」という想いからではなく、葛藤 鷹さんが、自分で自分の世界を広げたいから・・・
そういう想いから自立を願ったら・・・
葛藤 鷹さんも、周りの人達も、なんだか楽しくなりそうな感じがしませんか?(^_^)
オールの正体とは、自分の思い込み(たとえば、親に負担をかけている等)や、思考のとらわれ(世の常識や社会通念なども含まれるでしょう)だと私は思います。
何をやるか?っていう事よりも、葛藤 鷹さんが、どう在りたいか?の方が、本当に大事な事の様な気がします。(^_^)
高度経済成長で追いついた・・・
そしてバブルが弾けて、いろいろ膿が出て・・・
いち早く失われた10年を経験し、今や20年になろうとしている。
先に経験したせいか、先進国の中でいえば至極全うではないか。。
そんな中、最近の若者は無気力では・・・という評があるが、実は賢いのではないか・・・。
そんなことを考えてしまった今日の内容でした。。
それはいいとして、桃水流水が如く美しくありたいですなぁ。
難しいですがねっ
なので垂れるがまま、流れてゆくまま自然の仕事を邪魔しないでおこうかなっと
B1Fの自己啓発の新書コーナーを探してしまい「無い!もう売れてしまたのか?」って焦ったんですが何のことはない1Fのレジカウンターの前にありました(11時ごろ)。
5章を読むとわかるんですが、雲さんグッジョブ!ってことでしょうかね。それとも僕のお力添え?
なんども読み返して理解を深めたいとおもいます。
『ふりだしに戻っただけ』
と言葉が入ってきた感覚になり、
『そうっスよね~ 調子乗ってスミマセン…』
と今日つぶやいたばかりなんですが…
そして黒斎さんの本日のこのブログ…
調子乗りな私への戒めですか?
そんな二度押しせんでも…w
それでも流れのままになるのが怖くて、現状維持、、、というよりゆっくり下降してます。10年位。
でもまだまだ海が遠いように感じます。
周りを見ては、やっぱり必死に漕がなくてはいけないのか?
でも本当はもう諦めたい。そう思いながらも諦めをつききれない状態です。どうしたらサレンダー出来るのか、何故手放しきれないのか、謎なんです。
仰っていることは理解できますが、仮にこだわりがあるとしても、そのこだわりとあまりにも釣り合わない結果が出ていると言える事例はたくさんありますよね。
その札幌の姉妹の件は、たしか…お姉さんは脳に病気をもちながらも知的・身体障害のある妹さんの世話をしていた。
姉は、経済的に困窮してきたために、役所かなにかに生活相談をしたにもかかわらず、そこでは相手にされなかった。
なので、それをいったん断念し、姉は病気を抱えながらも就職活動していたが、それもうまくいかなかった。
そんな中、二人の遺体が発見された。
姉の死因は病気によるもので(突然倒れた可能性あり)、妹は餓死だった。
妹さんは、姉が倒れて何もできなくなったのかもしれない。
ただ、妹さんの携帯には助けを求めたと思われる発信履歴があった。
しかし、その番号が1○○(←番号忘れました)とかで、惜しくも警察や救急につながる番号ではなかった。
…といった話だったと思います。
頭の中の記憶で書いているので、上記は間違ってる部分も結構あるかもしれませんが、大体そんな内容だったと思います。
上記の姉妹は、この姉妹なりに生きていたと思いますが、当然なんらかのこだわりはあったかもしれません。
程度の差こそあれ、人間、誰にでもあるものだからです。
でも、だからといって、そのこだわり(降参の程度)に釣り合う結果かと言えば、そうとは言いきれないですよね。
もっとこだわりが強くても、餓死しない人もいるでしょうから。
最近ニュースになっている、元少年被告による母子殺害事件に関しても、被害者のご家族のこだわりの強さや降参具合は分かりかねますが、仮にそういうものがあったとしても、ああいう悲惨な殺され方になってしまう程、こだわりが強かったと言えますかね?
また、東北で被災されて突然亡くなった方は、皆笑顔がなくとらわれやこだわりが強かったと言えますかね?
当然、それは様々だったでしょうし、いくらなんでもそこまで他の地域と差はないでしょう。
もちろん、以上のような事件・事故が起きて幸せだなと解釈できる人なら問題ありませんが、現代では、なかなかそういう人はいないでしょう。
コクサイさんも、個人に福が舞い込むとか、そんな話だけじゃなくて、こういったことに関しても語って欲しいなと思うところです。
初めてなので緊張しながらも生コクサイさんにお会いできるのですごく嬉しいです。
一人での参加なので心細いのですが、体調万全で行きたいと思います!
幸せ=悦楽、快楽と
感じてしまうので自我に囚われます。」
「今」幸せでも「幸せの「予感」を含まないと快楽(幸せ)にならない。」
と思ってしまう。
悦楽(快楽)を上回るはずのもの(純然たる幸せ)に、落着けないのは
何故なのか…、今を生きる(エゴを経験する)醍醐味なのか、迷宮で迷っているのか…、それゆえなのか…、
疑問が残ります。
ゴシップでブレない自分を求めて、新興宗教に陥って家族に助けてもらった経験を話す芸能人のコメントを読みました。
「ブレない自分」を知る(確信する)ためには勇気が必要でしょう…、ですが…、時期やタイミング、周囲の環境がずれ、自分自身が望む姿とかけ離れうる可能性の怖さに恐れおののいてしまいます。
「カルマでも、あるんでしょう!ゆっくりしっかり歩んで行きましょう!無駄はありませんよ」
と自分のことを言い切るくらいなら、
もっとチャラく気軽に生きていこうと思います。
恐怖や不安を軽くあしらえる様な視野を、ここなら得ていけるきっかけを得られるので、
黒斎さんには、
今後とも楽しく頑張っていっていただきたいと思っております。
新刊も予約しました。
今後とも庶民にわかりやすい解説を、よろしくお願いいたします。
え~と、自分の文章を改めて見ると、ものすごく重い感じで書かれているな~と思い、補足させてもらいます。
まず、僕は、アッケラカンとした性格なので、毎日のほほんと生きてます。
けっして、暗い状況におかれているわけではなく、金銭的にもまったく困っていません。
むしろ他人からみると余裕がある生活をしている方です。
身体障害者なんて書くと、いかにも体が悪そうな感じにとられるかもしれませんが、見た目にはわからないぐらいです。普通にサラリーマンしてました。
ただ、僕の中では問題ではないのに、周りが問題にする事があります。
実は前に書いた事は僕が気にしているのではなく、親が気にしている事かもしれません。
そうすると、また違った解釈になってきますね。
僕が黒斎さんに聞きたかったのは
ウツになるまで頑張った人は降参したんじゃないのか?
餓死した人は降参しているんじゃないのか?
重度の知的障害者の人達は介助なしでは生活できないなら、すべておまかせ(降参)状態ではないのか?
これらの人々に、死ぬ間際安らぎは訪れているのか?
ということです。
究極の話、死後の事なんて、死んだらわかるんだから、こんな話してても意味ないじゃんって思うこともありますが、やっぱり生きているうちに、「あの世」はある、「神」はいる、など確信を持ちたいんです。だから色んな本を見てホントかな?なんて疑問をもちます。
また硬い文章になってるかもですが、本人は至ってpopな性格です。
まさしく世の流れは川だとすれば、
雲黒斎さん、阿部さんのオハナシは、分水嶺ですね。
片方は大河となり海へ。。
しかしながら否定的な人はもう片方の、
不必要に建設されたダムに溜まってしまう。。
そんなふうに感じます。
でも、結局は誰かが強制放水するんじゃないかなぁ。。
これまでの価値観が崩壊するできごとは、
それほどまでに大きなうねり(波?)でしょうからね。
ま、あれやこれや考えても仕方ないから、
みなさん一杯どうぞ~♪
えーと、実際に起きた出来事を、当事者でも関係者でもない私達が「報道を通して知った情報を元にして」話をするのは、誤解や問題を積み重ねて行くだけだと私は思うので
、そこには触れずに書きます。
今、目の前の出来事が、どういう因果関係で起きた出来事なのか、その関係性全てを見通せる人が、果たして存在するでしょうか?
(こだわりと結果が正しく釣り合っているかどうかを、物事の表面だけを観て判定する事は、私にはとても出来ません。)
こだわりや思い込みを持った人は、ただでさえ狭くなっている(人間の)視界を、更に更に狭めています。
しかし、複数の視座を持ち、複数の視点を通して一つの物事を観て解釈をしたら、選択の幅は大きく広がります。
私が〈2012-02-24 18:27:07〉の投稿で書いた事を要約すると、そういう事です。
ああ、あれは黒斎さんへの質問だったのですね。(^_^;)
いやいや、これは失礼しました。
レスありがとうございます。
私が言及したのは…
>“本当の意味で降参”していたら、今日の日本であれば、どの様な形であれ生きて生活はできたでしょう。
(そう思うと、本当に心が痛みます。)
冷たい言い方になってしまいますが、心の中では、どこか“とらわれ”の様なものが残っていた・・・
と言うか、むしろ“とらわれ”に“こだわって”いたのではないでしょうか。(と、私は推測します。)
の部分です。
これに対して果たしてそうと言えますかね?という疑問でした。
しかし、やりとりをすることで(私が)誤解を重ねそうであれば、私の方もこれで終わりにしときます。
>今、目の前の出来事が、どういう因果関係で起きた出来事なのか、その関係性全てを見通せる人が、果たして存在するでしょうか?
どうでしょうね。
コクサイさんは、福が舞い込むこと(良いことが起きること)については断定・保証しているような書き方にも見えるので、たまに疑問を提示してます。
(ある人にとっての)残念な結果が見通せない事象であるのなら、(ある人にとっての)良い結果もまた見通せない事象であるはずです。
(まさかコクサイさんを全面的に賛美する人だけが救われるとか、そんな妙な話あるわけないですしね。)
もちろん、あくまで解釈の話だということなら同意してますが。
それから、さとコさん、いつも参考になるコメントをありがとうございます。
と、モリケンさんも言ってますわね。
「ふりだし」こそ「ゴール」であった。
そうして、その波瀾万丈の過程が楽しいからこそ、また人は「ふりだし」から人生ゲームを繰り返すのさ。
だから、運を天に任せて、ルーレットを回す。
力んで回せば、うまくいくのかい?
ならば、流れに身をまかせ、楽しんだほうがいいだろ。
勝ち負けにこだわるんなら、もう一度、「ふりだし」から始めればいいんだしね。
また振り出しに戻るなんて、もう間に合わないんじゃないですか?
本番は始まっているのでしょう?
それとも、再びスタートラインについたって事かな?
ウーン、やっぱり「自己解釈」ですかね・・・これって。
なんとか、わかってもらうための例えを考えてる黒斎さんがいて苦しんでる気がしたんですが。
いまでいいじゃないかって思います。
こころや身体に無理を強いてることに気がついたら、自分に合わないことをやってるんだということで、力を抜く、、オールを放すってことになるのかな。
そうすればおのずと行き着いた場所がその人にとっての本来の居場所ってことでしょ?
目に見えない世界を受け入れるってことでした。
アハハー
しあわせの青い鳥
ってことじゃないの
この話。
出来るんじゃないんですよね。
犯罪行為の以前から、溜まり続けていた何かが、被害者との接触と刺激により大決壊。
竹筒のししおどしのように。
悲惨な目に遭われた被害者は何なのかというと、これが良く分かりません。
この世に来るときに、体(車種)のレンタル契約があるなら終了時に「老衰」「事故」など
終わらせ方にも選択肢があるんでしょう。
この世では大いに血縁者に惜しまれますが個人の出生前契約の通りなんですから
それはそれで理解できるんです。
チャレンジしにこの世に現れた魂が、目標設定に現力量が惜しくも及ばず
志半ばで負けて倒れる、そういうこともあるのでしょう。
しかし解せないのは、倒されてからなお苦痛にさいなまれるような「状態」。
体の器の中に密封された魂は逃げられぬ攻撃に晒され削られ、スパークし続ける。
逃げられぬ万力でギュウギュウに締め上げて、魂から滴り落ちた血や絶叫は、
どこに届くのでしょうか。
あの世では、この世での生物から発生した苦痛の波動はどのように見えているのですか?
どうなっているんでしょうか。