いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
あるとも言えず、ないとも言えず
アウルズさんに出社するようになってから、なぜだかとても忙しくなってきました。
デスクをお借りしたのは、忙しくなってきたからでも、これから忙しくしようと思ったからでもなく、ただ、ちょっと環境を変えてみようかな、ぐらいのものだったんです。
でも、おもしろいものですね。
なんてことのない、ちょっとした変化があるだけでも、日常の流れはダイナミックに動き出して、思いもしなかった出来事が次から次に展開していく。
たった数週間の間に、あれやこれやがありまして、ただいま二冊の本作りに着手しております。
皆様ご存じの通り、僕の筆の進みというのは、ホントに気まぐれなものでして、書籍どころかブログの更新もままならぬという(笑)
別に、「書きたくない」とか、「出し惜しみしている」というつもりはないんですよ。
日々、「お!これはいい表現方法が見つかったぞ!」とひらめき、その勢いのまま「よし書くぞ」となるのですが、その直後に、書こうとしていた内容がすでに書かれている本を見つけちゃうんです(笑)
もうね、ビックリするぐらい「そのまんま」だったり、「うわ、悔しいけど、こっちの表現の方が適切だし面白いわ」だったり。
そもそもが何千年も前から語られ続けてきたものだから、いまさら僕が思いつくようなものは、たいがい誰かが既に形にしてるんだよね。
そしたらさ、僕が書かなくてもいいわけじゃないですか。その見つけた本なり、その著者をご紹介すりゃいいわけで。
書いたら書いたで、「あ、それ、誰それのパクリっすね」ってなっちゃうしね。
そんなこんなで、結局書かずじまいという事が続いていたんです。
そんな僕がですよ、いよいよ軽快にキーボードを叩きだしました。
いつ書き終わるのかはわかりませんが、心が折れずに完遂できることを祈るばかりです。
ブログ更新のない日は、「きっと、今日もシコシコと原稿と向き合っているのだな」と、生暖かく見守っていただけると幸いです。
さて、それはさておき、先日の続き。
「玄(空)」と「玄のまた玄(無)」についてのお話。
様々な宗教で語られてきた、この「空(くう)」とか「無」のお話は、決して難しいことが話されているわけではないんです。
気づいてしまえば「なんだ、そんなことか」って拍子抜けするぐらいシンプルなことなんです。
じゃ、なんでなかなかわからないのかっていうと、「難しい」んじゃなくて、超絶「ややこしい」の。
で、この「ややこしさ」を解こうと、これまでもたくさんの方が言葉を残してくれているんだけど、そもそもの「ややこしさの原因」が、「言葉」なんです。
ややこしさを作りだしている、そのツールを用いて、こんがらがった観念を解こうとしているワケだから、聞けば聞くほど、余計にこんがらがってくるという。
まずは、この「ややこしさ」がなんなのかから、話を進めていきたいと思います。
「ない」がある
「ある」がない
上記の2つは、ワケがわかりません。
だって、「ない」は無いから「ない」なわけだし、「ある」は有るから「ある」なわけだし。
だったら、「ない」があることも、「ある」がないことも、ないじゃないかと。
これが、「空」と「無」のお話が、よくわからなくなる原因のひとつです。
「無い」が有る
と聞くと、「ん? 何を言っているの?」ってなるけど、僕らは結構日常でもこの文脈は使っていたりするんです。
例えば、「空間がある」という言い回し。
(物理学とか哲学とかを持ち込めば、そもそもの言葉の定義も不明瞭なままですが)日常的な感覚で使われる「空間」っていうのは、「何も無い」ことや「あいている所」を指しているのですから、結局は、「空間がある」ってのは「“ない”がある」と言っているわけです。
ね。結局、「空間」は、あるの? ないの?
あるっちゃあるし、ないっちゃないよね。
で、ここから話を戻して、「空(くう)」っていうのは、特殊な次元の話をしているわけではなくて、単に「からっぽ」と言っているだけなんです。
で、「無」っていうのは、そのまま「無い」と言っているだけなんです。
この後もお話は続きますが、ひとまず、ちょっとだけ考えてみてください。
「からっぽ」と「無い」は、イコールでしょうか?
【トークライブ・インフォメーション】
平日のお話会「月イチ☆」、11月開催分の受付を開始いたしました。
平日のお話会「月イチ☆」(東京)
11月25日(水)19:30~21:30(19:00会場)三鷹産業プラザ 7階 701会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「月イチ☆WEST」(京都)
11月27日(金)19:30~21:30(19:00会場)ハートピア京都 第5会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「でら☆月イチ」(名古屋)
11月26日(木)19:30~21:30(19:00会場)ウインクあいち 11階 1101会議室[詳細・お申し込み]
*****
梅田の蔦屋書店さんでのトークイベント、第2弾!
大阪、梅田駅直結にするルクア イーレの9F 、梅田蔦屋書店さんのお誘いを受けて開催した朝のお話会。
ご好評につき第2弾を開催!
リアル書店さんのスペースをお借りしてのイベントですので、「人生を変える本との出会い」をテーマに、僕がオススメする書籍の魅力や、精神世界の勘所などのお話をする予定です。
開催は平日の午前中ですので、参加できる方も限られるかとは思いますが、よろしければ遊びに来てください。
雲黒斎トークライブ『朝から梅田でアレのこと』Vol.2
11月27日(金)10:00~11:30(9:30開場)梅田 蔦屋書店 4th ラウンジ [詳細・お申し込み]
*****
※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。
←「押す」というのは、「押すという意志がある」のでしょうか、「押さないという意志がない」のでしょうか。
デスクをお借りしたのは、忙しくなってきたからでも、これから忙しくしようと思ったからでもなく、ただ、ちょっと環境を変えてみようかな、ぐらいのものだったんです。
でも、おもしろいものですね。
なんてことのない、ちょっとした変化があるだけでも、日常の流れはダイナミックに動き出して、思いもしなかった出来事が次から次に展開していく。
たった数週間の間に、あれやこれやがありまして、ただいま二冊の本作りに着手しております。
皆様ご存じの通り、僕の筆の進みというのは、ホントに気まぐれなものでして、書籍どころかブログの更新もままならぬという(笑)
別に、「書きたくない」とか、「出し惜しみしている」というつもりはないんですよ。
日々、「お!これはいい表現方法が見つかったぞ!」とひらめき、その勢いのまま「よし書くぞ」となるのですが、その直後に、書こうとしていた内容がすでに書かれている本を見つけちゃうんです(笑)
もうね、ビックリするぐらい「そのまんま」だったり、「うわ、悔しいけど、こっちの表現の方が適切だし面白いわ」だったり。
そもそもが何千年も前から語られ続けてきたものだから、いまさら僕が思いつくようなものは、たいがい誰かが既に形にしてるんだよね。
そしたらさ、僕が書かなくてもいいわけじゃないですか。その見つけた本なり、その著者をご紹介すりゃいいわけで。
書いたら書いたで、「あ、それ、誰それのパクリっすね」ってなっちゃうしね。
そんなこんなで、結局書かずじまいという事が続いていたんです。
そんな僕がですよ、いよいよ軽快にキーボードを叩きだしました。
いつ書き終わるのかはわかりませんが、心が折れずに完遂できることを祈るばかりです。
ブログ更新のない日は、「きっと、今日もシコシコと原稿と向き合っているのだな」と、生暖かく見守っていただけると幸いです。
さて、それはさておき、先日の続き。
「玄(空)」と「玄のまた玄(無)」についてのお話。
様々な宗教で語られてきた、この「空(くう)」とか「無」のお話は、決して難しいことが話されているわけではないんです。
気づいてしまえば「なんだ、そんなことか」って拍子抜けするぐらいシンプルなことなんです。
じゃ、なんでなかなかわからないのかっていうと、「難しい」んじゃなくて、超絶「ややこしい」の。
で、この「ややこしさ」を解こうと、これまでもたくさんの方が言葉を残してくれているんだけど、そもそもの「ややこしさの原因」が、「言葉」なんです。
ややこしさを作りだしている、そのツールを用いて、こんがらがった観念を解こうとしているワケだから、聞けば聞くほど、余計にこんがらがってくるという。
まずは、この「ややこしさ」がなんなのかから、話を進めていきたいと思います。
「ない」がある
「ある」がない
上記の2つは、ワケがわかりません。
だって、「ない」は無いから「ない」なわけだし、「ある」は有るから「ある」なわけだし。
だったら、「ない」があることも、「ある」がないことも、ないじゃないかと。
これが、「空」と「無」のお話が、よくわからなくなる原因のひとつです。
「無い」が有る
と聞くと、「ん? 何を言っているの?」ってなるけど、僕らは結構日常でもこの文脈は使っていたりするんです。
例えば、「空間がある」という言い回し。
(物理学とか哲学とかを持ち込めば、そもそもの言葉の定義も不明瞭なままですが)日常的な感覚で使われる「空間」っていうのは、「何も無い」ことや「あいている所」を指しているのですから、結局は、「空間がある」ってのは「“ない”がある」と言っているわけです。
ね。結局、「空間」は、あるの? ないの?
あるっちゃあるし、ないっちゃないよね。
で、ここから話を戻して、「空(くう)」っていうのは、特殊な次元の話をしているわけではなくて、単に「からっぽ」と言っているだけなんです。
で、「無」っていうのは、そのまま「無い」と言っているだけなんです。
この後もお話は続きますが、ひとまず、ちょっとだけ考えてみてください。
「からっぽ」と「無い」は、イコールでしょうか?
【トークライブ・インフォメーション】
平日のお話会「月イチ☆」、11月開催分の受付を開始いたしました。
平日のお話会「月イチ☆」(東京)
11月25日(水)19:30~21:30(19:00会場)三鷹産業プラザ 7階 701会議室[詳細・お申し込み]
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11月27日(金)19:30~21:30(19:00会場)ハートピア京都 第5会議室[詳細・お申し込み]
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11月26日(木)19:30~21:30(19:00会場)ウインクあいち 11階 1101会議室[詳細・お申し込み]
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梅田の蔦屋書店さんでのトークイベント、第2弾!
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11月27日(金)10:00~11:30(9:30開場)梅田 蔦屋書店 4th ラウンジ [詳細・お申し込み]
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←「押す」というのは、「押すという意志がある」のでしょうか、「押さないという意志がない」のでしょうか。
コメント ( 78 ) | Trackback ( )
« 妙と徼と玄と玄 | 空間からは逃... » |
イコールではないです。。それどころか、
100人の聴衆に100通り、1000通りの
「からっぽ」、「無い」が発生し、つまり、
「からっぽ」≠「からっぽ」 であり、
「無い」≠「無い」 というカオスへ突入します。
「からっぽ」と「無い」の対比の前に、「からっぽ」の座標を位置付けること自体が出来ない。「無い」を特定出来ない。
そのような座標は実体を持たない、
とは黒澤さんの読者には記憶に新しいところですね?
もし特定出来た!という方、もしくは特定出来た気がする、とお思いの方がいらっしゃいましたら、それらは錯覚であり自我がもたらす思考とイメージの罠に囚われたということです。
さあ皆さん、ようこそ思考とイメージのループへ!
ま、あんまりよくわかりません。
シンプルな問いかけに、答えがありますね。
イコールです。
理屈や、理由はありません。
空気(くうき)は実体はあるのに目に見えない。
そういうことでしょうか?
新作楽しみにしております。
黒澤さんの平日のお話会(東京)に、ぜひ一度参加したい!!!
と願いながら、
平日夜間は、幼子がおりまして、どうしても参加できずにおります。((T_T))
いつか、平日の昼間のお話会 や、土日の夜のお話会 などを開催していただく事は、ご検討いただけないでしょうかm(__)m
黒澤さんおひとりの講演、お話会に、ぜひとも参加させていただきたく、勝手なお願いを書き込みまして申し訳ありません。(>_<)
お仕事やご家庭の事など、お忙しいと存じますが、ご検討いただけましたら、この上なく幸いです。
新しいご本が発売される日を、今から楽しみにお待ちしてます(*^^*)
凄く深いんですね(ー_ー;)
からっぽはからっぽ
無いは有るから無いと言えるから
似てるようで違うと思う…
本の発売楽しみにしてる(o^^o)
黒斎さんの頑張りの裏に私達の喜♪
いつもお疲れ様です。
「無い」は、数式で言うと、×0(掛けるゼロ)
よってイコールではない!(ドヤ顔)
・・・すみません、夜中にふと目覚めてブログの更新に気がついたもので、こんな回答しか出来ません(笑)
黒澤さんのブログ、最近なんだか理屈っぽくて、あんぽんたんな私には面白くないんです(´`)
個人的には、この世の仕組みを知りたいと言うよりも、黒澤さんの面白味のある文章が好きでブログを覗きに来ているので、ふてくされてる今日です(笑)
「無い」が全体で、「空」は一部分
さらに 「妙」、「徼」までもが一部分では?
「言葉」は分離を引き起こす道具ですか?
「あるがまま(ワンネス)」も、「幻想(分離)」も、どちらも同じところから生まれているよ。
その同じところっていうのが「空(くう)」で、「空」のさらに奥深くにある「無」から、全てのものが創出されるんだ。
ではなく、
「空」のさらに奥深くにある
「非顕在」から、
または、
「非意識」から、
または、
「無形」から、
全てのものが創出されるんだ。
ですね。
「非顕在」とは、
意識としてのみ顕在している、
非顕在です。
「非顕在/至高の神」から、
「創造」が生じ、
それは「創造主」としての、
神の顕在です。
無形がありゆる有形の源です。
「非意識」から「意識」が生まれるです。
無というのは、
そのままんな無いということ。
無に愛なんてありません。
「愛」とは神の特性ではなく、
「神の本質」です。
無から有は生まれません。
無形があらゆる有形の源です。
「形」の基盤は、
「無形」であると同時に、
創造としての形の表現に内在しています。
無形は常に、
有形に内在する源です。
至高の存在である、
「非顕在」の神性より、
顕在の宇宙の「創造主」として、
「神が立ち現れた」のであり、
ここには始まりも終わりもありません。
真実は、
「存在」と「顕在」を超え、
「自己」の原基は、
意識が生まれる前の
「非顕在」の究極的な全能性としての姿を開示すると同時に、
意識そのものの本質であることを明らかにします。
「全体性/愛」に、
対極はありません。
「全体性」と「無」は古くからの二元性であり、越えなければならない究極の対の概念です。
無は真実ではありません。
無が究極の真実であれば、
そもそも求道者も、
発見される「無」も存在できません。
無が真実であれば、
気づかれるものも、
気づく者も存在しないので、
無ということに気づくことはないでしょう。
もしこの無、
あるいは非存在が究極の真実であれば、この無を目撃しているのはいったい誰のかという矛盾に瞬時に気づくはずです。
無が究極のものだとすれば、
生き残って、それが本当だったと告げることのできる存在はいないです。
無が究極の真実だとすれば、
意識は帰還することなどあり得ません。
ですから、
「あるがまま(ワンネス)」も、「幻想(分離)」も、どちらも同じところから生まれているよ。
その同じところっていうのが「空(くう)」で、「空」のさらに奥深くにある「無」から、全てのものが創出されるんだ。
「無」から、全てのものが創出されるんだ。
いやいや創出されません。
σ^_^;
こくさいさんは無を非顕在と捉えていると思いますが、
言葉はややこしいですからね♪
d(^_^o)
面白い問いですね!
からっぽは、
コップの中がからっぽと言うように、
人の中もからっぽ、
大和田さんのように?
無は、
コップや人のように囲いも無い、
何も無い、かな?
無 = 入れ物なし
かなり前にも、このブログで同じお話されてたような?
面白いです。
してその心は??気になります。
英語では、「I have nothing」ですよねー。って誰かが
言ってた。
持ってる、けど持ってない。
そういや、天気予報では、気温0度はゼロ度ではなく、れい度って
言うんですよね。
テストゼロ点ではなく、レイ点。
全くの何にもなーい状態と、相対としての「0」の違い。
関係なかったかナ、、。あるような気がしたもので、、。
黒澤さん自身の本と、黒澤さんソロでバッシリと構えて売れば、結構ロングランで愛される方だとずっと思ってるんだけど‥。
あたらしい本、とても楽しみにしています♡
まあ、こちらでは、その境地の解説をされているわけですが
今はやりの「私はいない」もそうですが、そんなのは釈迦の時から言われているわけでしょうから
阿部さんのところもそうですが
そろそろこの世での日常を暮らし安くすることと結びつけたらどうでしょう?
各論と総論を交互に織り交ぜるとか。
あんまり日常から離れっぱなしであると、何のためのブログなのかわからなくなります。
「からっぽ」はあるのが“無い”。
そして、“無い”があるんだから、同じことを言ってるような気がします。
答え
の
放置は
あるとも言えず、ないとも言えず。
オリジナルが求められる
執筆の世界って大変ですね。
見方を少し変えれば
自分の考えなんか、全部サトラレてるし
自分の願いなんか、全部もともと叶ってんですからね。
しかも、そのスタンスの方が生きやすいっていうオマケつき。
頭で考えると、そうなんだけど、
実際は環境が整ったら、
自然と体が動いているだけだから、
それに抗わずに、体を流していけばいいだけなんですよね。
最近の言い回しで言えば
「徼(ストーリー)」も「妙(あるがまま)」も結局は「玄(空)」の一つの見方なんだから心配ないって感じですかね。
やっぱり、どっかで聞いたような
言葉になっちゃいましたね。
がんばって下さいね
胸の内に向かって
「ありがとー♪」
と言ってみてください
良い一日でありますように
なるほど、雲黒斎さんは物理学や哲学等は置いといて、一般論で語っていたのですね。
なぜ一般論で語るのか??
それは悟りに物理学や哲学等の考えは不要だから??
それで全てを明快に説明するのは可能なのか??
思うに、
悟りは「真理を会得する」と言うより、「自分の心理を洗脳(マインドコントロール)すること」じゃないでしょうか。
だから真実を突き詰める必要がない。
別に否定するつもりはありません。
マインドコントロールと聞くと悪いイメージが付きまといますが、客観的に見てその人にとってプラスになっていればマインドコントロールはアリだと思います。躾、教育、etc...
自分で自分を生きやすいようにマインドコントロールする方便として、「悟り、ワンネス、ノンなんちゃら、スピリチュアル」といった言葉が使われているのではないか?と、ふと思いました。
からっぽは、何か器があるとしてのからっぽで
無いは、すべてが無いから あるともいう~
イコールではないとおもいます。
無は囲いも空間の境目がない、ひとつの世界。
それらは何も悪いことではありません。無かったら生きていけませんから有用に違いありません。有用であり可能性に満ちています。
一方、
思考に囚われること。イメージに囚われること。
こちらも悪いという訳ではありませんが…
しかし「囚われる」とは心や体がそれに縛られるということであり、ほかの物の見方が出来なくなったり、自由な行動が出来なくなったり、
時には囚われているために実際のことから遠ざかってしまいます。
( 悪いことだ、というのも人間に顕著な独特の観念であり、心に善悪の判断が絶えず沸き起こるならそれは「善悪の観念に囚われている」と言えますね。)
まあ、実際には自我が人を陥れるべく虎視眈々と罠を仕掛ける訳ではありませんが、
人の心はいわゆる自縄自縛、自分の心の働きで自分が縛られてしまうことがあります。
そして中々それが自分では解けない。場合によっては何年も何年も縛られる。
そんな状態は「罠に落ちた」と言うにふさわしいだろうと。
黒澤さんのブログでも過去の記事に自縄自縛のことは何度か触れられていますね。
もちろん学びは素晴らしいことですから皆様存分に、と思います。
心が軽くなる記事も、笑いの要素も、黒澤流の切り口の鮮やかさも素敵です。
これからも作家・クリエーターの雲黒斎さんとして大いに皆様を楽しませていかれると思いますし、僕も一読者として楽しみたいと思います。
それとは別に、今回触れておきたいと思うこと。
それは「依存」です。
・・・
依存と言いますと、黒澤さんの目覚めのきっかけとも、また人生のテーマの一つでもあったと思いますが、
僕の経験上、
自縄自縛はまた形を変えて現れます。人生のテーマはそうそう大きく変わるものではなく、たとえ目覚めを経験しても自我自体が不滅のエネルギーである以上、放出されるエネルギーの傾向性は突然には変わりません。
目覚めが価値観の転換以上のことでも以下でもないことは黒澤さんもご存知の通り、目覚めの前でも後でも黒澤さんは黒澤さんです。
無論、生き易くはなりましょう。
黒澤さんは今までにいくつかの依存は克服されてきましたが、
今は精神世界を解き明かそうと、身も心もどっぷりと浸かっているかと思います。
関連書籍やメンターの情報に触れすぎ、色々なことが頭を離れなくなっているのではありませんか?
内的世界のさらに内奥を解き明かす。あるいは、内も外もない、ただの「それ」なんてものを解き明かす。
それらに特に疑問を抱くことなく身も心も費やしていることと思います。
僕はその中に一種の依存の芽を見ます。
( 苦悩を背負った人が必ず思うであろうことの一つに、「なぜ誰も言ってくれなかったのか」ということがあると思います。この先誰も黒澤さんに言わないかもしれないので、一読者から言います。間違っていたら謝ります。)
黒澤さんにとって、精神世界探求は新たな依存対象になり得ます。
職業としているので致し方ないと考えることも出来ますが、一方それが言い訳となり得る場合もあるでしょう。
・・・
ものは試しです。
今の環境から離れることが出来るか、
スピリチュアルの一切合切を捨てることが出来るか、
少し想像してみて下さい。
それで心爽やかに一歩踏み出せると感ずるなら依存ではないと言えるでしょう。
逆に後ろ髪を引かれたり、次に来る何かしらの不安というものを感ずるなら、黒澤さんの心は囚われの身です。
仮に囚われの身であったなら、
優しい心を持つ黒澤さんは、囚われの身でありながら囚われから離れることを伝える活動に疲弊し、苦悩を背負うでしょう。
黒澤さんがそうだと言う訳ではありませんが、
心の奥底、無意識下において、囚われの身であることから脱したいがためにスピリチュアルを解き明かすことから離れられない、という精神世界案内人は少なくないと思います。
このブログの3rdステージ、スピリチュアル解体新書において、黒澤さんが「目覚めを経験した人が嵌まる、より深い罠」に嵌まらなければよいのですが。
罠にはまるのが悪いとは言えませんが、読者を共に罠に巻き込む分、苦悩は大きくなりますゆえ。
・腰に肉がない→「ある」
・腰に肉がある→「ない」
「おっぱい」
・胸に肉がない→「ない」
・胸に肉がある→「ある」
それぞれの「ブラジャー」の中身はいかに?
あぁ こんなことしか 思い浮かばね~
ふらかぜさんのコメントないと「解体新書」っぽくないっちゃあ ないね。
絶対に買っちゃうと思います。。。
もう、雲黒斎さんか、黒澤さんの名前を見ただけで。。
パブロフのいぬ状態ですね(笑)
ところで、からっぽ=無いなのかどうか・・。
からっぽ はそもそもからして「 」の状態
無い は あったものが無くなって「 」の状態
ということは・・・=??? なのかなぁ。
全然自信がありません。
黒斎さんのブログ読みだして3年経つのに、
全然ダメダメですーーー!
今日「「他人事」だと冷静でいられるのに、「自分事」になるほど深刻さがあらわれる」とツイートされていました。
これには深ーーく同意です。
しかしです。
例えば、「身体的な痛み」がある場合、自分事であれば
当然のごとく深刻です。
なぜなら痛みの「感覚」を実感するから。
しかし、文字通り「他人事」であれば痛みという感覚を感じないので、「冷静」でいられますよね?
これが、「リストラされた」「借金がある」「離婚した」などであれば、自分事であっても、受け止め方で
変わると思います。
リストラも次の仕事に変われるラッキーなタイミングと思えるかもしれません。
借金だって、離婚だって、すべて同じです。
であれば、自分に起きている事を「深刻だ!大変だ!」ととらえずに、冷静に処理することは可能だと思います
しかしながら、身体的に起こっている事、
例えば痛みや、それがもたらす肉体的な疲労感、
具合の悪さ などが起こっている場合、
それはとらえ方云々ではどうにも変える事の出来ないものだと思います。
「痛みという感覚」があるからです。
そうなると
「「他人事」だと冷静でいられるのに、「自分事」になると深刻さが表れる」
という言葉は、あくまでもケースバイケース・
起きている事象による
と言えるのではないかと思いますが、
どうでしょうか?
本音は「そうじゃないよ」と言ってほしいんですが(笑)
どなたか、ご意見頂ければ幸いです。
「無い」は、その何かさえも無い。
という風に考えると、イコールとは言えないのではないしょうか?
何だか「ないない」とややこしい文章ですね…
ところで、先ほどツイッターを拝見しました。
「他人事」だと冷静でいられるのに、「自分事」になるほど深刻さが現れる。
ホントに仰る通りですよね。
他の人の事を見るように自分の事も客観的に見る事ができれば、世間一般的に困難といわれる状況に遭遇した時にかなり的確な判断が出来ると思うのですが、何でこんな事になっちゃうのでしょうか?(^_^;)
ちなみに、数年前に自分を客観視できた時期が少しだけあるのですが、今はもうその感覚さえ覚えていません
当然のごとく深刻です。
なぜなら痛みの「感覚」を実感するから。
ツイッターを読んでないのであれですが、
痛みを実感すること=深刻?
なんかおかしくないですか?
痛いから痛がるのは自然なことですよね。深刻になるとはその逆のことではないでしょうか?
例えば教室で授業中にトイレに行きたくなったとします。
ここでの冷静な判断は自分のお腹が痛いので手を挙げて「トイレに行きたい」と先生に進言することでしょう。
自分のお腹を救っています、他人を的確に救うように。
しかし、「学校で◯◯◯をすること」、これ即ち禁忌
暗黙のルール、鉄の掟
大抵の人は「バレたらどうしよう」と考え我慢して手を挙げず授業が終わるまでお腹は悶え苦しみます。
これが深刻になるってことじゃないでしょうか。
そして、限界に達した時は更に深刻な状態になります…
全体の終わり
黒澤流かな?
比喩的なツイートですね。つまり、
他人事でも関心があればつい深刻になる。
自分事でも、無私な気持ちであったなら冷静でいられる。
そんな人間の性質が、倒置された「他人事」「自分事」に込められているとみてよいでしょうか。
ところで、
ツイートの趣旨がおそらく周囲で起きている出来事のことを想定していると思われますので、その意味ではかやともさんの挙げた事例はケース・バイ・ケースと言えるでしょうね。
そして、かやともさんの挙げた事例の中に限ってみても、痛さの程度によりけりかな。痛さによるケース・バイ・ケースも当然ありますね。
僕は痛さに弱いので、お腹が痛くなっても指にちょっとさかむけができてもすぐ深刻になります。(笑)
ちなみに、
ちょうどテレビで「無痛」というドラマが放送されてますね。
結構面白くて録画してます。(笑)
先週の放送、西島さん泣くところじゃないのに少し目が潤んでいて、役者さんの気持ちの入れようってすごいなと、ちょっとグッときました。(´;ω;`)
バカヤロ( ゜д゜c彡☆)`Д)、;'. ブハッ
今まで空と無は同じ意味だと思ってましたが違うのですね?
・一つの見えないエネルギーが、無。
・それが形となって現れてるのが、空(非二元)
・それに色や感覚や概念を付けしてるのが、二元。
でしょうか??
よく耳にする、「それ」は、どれ?(^^)
目の前に起きていることが同じでも、その時の視点によって意味付けは正反対といっていいほど変わる場合がありますね。
同じことが起きても、それを受け止める立場が事実の印象をかなり左右してしまう。
自分に見えた事実は「自分の立場や視点によって脚色された事実」である、と知ることは一つの気付きであり、
その気付きは「自分に見えた事実以外の、他の視点から見えた事実」を受容する心をもたらしますね。
異なる二つの視点を持ち、それらに無理に片寄らないで眺めてみるという心の持ち用は、大いに人の精神を自由にしてくれます。
もちろん、二つ以上の視点を持つことも同じく有用です。
心のあり方として、一つの視点だけに片寄らずにフラットでいること。
そして、片寄らずフラットでいながらも、両者を見ないのではなく両者を意識下に置いていると、すぐに「思考に埋没しない意識」が自身の内にあることに気が付けると思います。
「本尊」
=外側の
何かに依存したい。
「本尊」なんざ
どこにも
ない。
『有る』が何にかかっているかと言えば『空』ではなく『間』にではないの?
そのひとつは静寂に還ることかもしれません
静寂に還るといっても
舞っているほこりが
静かに休んでいることにより
自動的に地におさまるようなものかもしれません
我々はどんな努力もなしにいしきをもっています
それは不思議でも孤独でも特別でもない
それは個人的ではなく
愛というものかもしれない
それは今もここにあり
布団のなかでゴソゴソやってすることは
いしきのなかで
自分はだれかと考えてるようなもので
いろいろそのために努力したりする
しかし
それもいしきのなかで いしきを使って
やってることにすぎず
無条件のいしきを変えるわけじゃないのです
笑 それはただ布団のなかでゴソゴソとやってるようなものなんです
「空っぽ」同士はぶつかりようが「無い」
大宇宙という叡智の許可
による現実 今
宇宙では起こるべきことが起こり、それは常に最善である。
私の考えは
「からっぽ」と「ない」はイコールじゃない。
「からっぽ」は、「からっぽ」
そこには何も存在しない。
「ない」は、言葉の中にしか存在しない。
「ない」と言ったところにしか、「ない」は存在しない。
入れ物という表現をされてる方がいますがそれがぴったりで、
言葉は「ない」の入れ物を与える。
人間以外の動物には言葉がないので「ない」は認識できない。
世界には「ある」しか存在しない。
「からっぽ」の中にのみ「ある」が存在できる。
といったところでしょうかー
『俺』という青年よ
ついでに
「空」と「無」も
語ってったらどうだい
絶対神 一元
『一元』の世界
「ただ在る」。
完全な静寂
物質または定義により区切られた範囲に、スペースだけがある。
U+26AB無い
そもそも存在しない。
イメージではこんな風に思ってます。
続き楽しみにしてます。
完全な静寂に生まれた光
ゴッドチャイルド
1Fフロントにキーを
預ける。
支配人雲黒斎さん
解ほぐれました
ありがとうございました。
半月ちょっと、
『 現実世界 』
(六でも無いすばらしき
世界、
未六の世 。)
の方に外出してきます。
m(__)mでは
「時間というのは幻想である」
「今しかない」
これらの概念はいずれも幻想です。
と言ったらびっくりしますね?(笑)
「今しかない」って言えばまさに今をときめくスピ名言じゃないの?って。
でも幻想なのです。Σ(゜ロ゜ノ)ノ
…このことの理屈はとても簡単です。
・・・
仮にこれを読むあなたが「今しかない」に何かしら感銘を受けた方だとします。
「今しかない」と誰かから学んだあなたは、「今しかない」をもっと実感しようと一生懸命イメージを働かせ、ふとしたときに「今しかない」「今にある」を思い出そうとします。
ところで、その「今」って何処にありますか?
つい先のことを考えては「ああ、気が付くと今にいなくなってる。ダメダメ。」とか、昔のことが頭をよぎっては「過去なんて無い。過去は常に今の連続だっただけ。」などと言い、今にあろうとしているあなた。
その時、「今」は何処にありますか?
あなたの頭の中以外に「今」があるところ、ご存知でしょうか?
・・・
「今」もあなたの思考とイメージの産物だと気付いたでしょうか。
今であろうと過去・未来であろうと関係ありません。
思考とイメージに埋没している限り、目覚めと呼ばれるような価値観の転換を経ても人はなお自我の罠にはまったままです。
別に今という概念を否定する必要はありません。
この瞬間、我々は生き、エネルギーを放っています。
しかし、あなたの頭の中の「今」という思考・イメージと実際のものとは全く別のことです。良くて幻想。悪く言えば妄想です。
我々を取り巻くこの森羅万象の中で、「今しかない」なんてことに一生懸命な生き物って、僕は人間以外に見たことありません。
もしそんな生物を見かけたら是非ご一報下さい。(笑)
たった一つの形しかない。
たった一つの色しかない。
たった一つの音しかない。
たった一つの匂いしかない。
たった一つの感触しかない。
たった一つの感覚しかない。
このたった一つの「もの」は確かに存在する。
ただ、それしかないときにはそれを認識することもイメージすることも不可能。
認識やイメージには、それとは違ったもの、それではないものとの比較が必ず必要。
認識やイメージが不可能だから「たった一つのそれ」を「空」と呼んでいるけれど、ただ「たった一つのそれ」は、確かに存在している。
「たった一つの有」は認識もイメージも不可能。
それとの比較、「無」や「それ以外のもの」を創ることで、初めて認識やイメージが可能。
つまり「無」は、「たった一つのそれ」が創造したもの。
「本当の無」ならば、「無い」のだから創造もなにもないけれど、これはあくまでも「無いという幻想」でしかない。
アゲアシ取りか?(笑)
かまってほしくて、ズレた書き込みました。
ごめんなさい。
最近ちょっと心がヤサグレているワタシです。
容器の中が「真空」でも「空」でも「からっぽ」?
容器自体も無いのが「無い」?
でも容器の中が空だったら「真空」も無い?
ああ。混乱中。
難しい。
花も無い一元の世界を拒んだ 二元さん
♪
在りったけの花で飾って
そして崩れ堕ちて
何度でも
正しくなど、なくても、
、なくても、なくても。
響いて 貴方(一元)に。
響いて
数年前から、アメリカ人の老師の下で、(たま─に) 坐禅を組んでおります。最初から2番目の考案が[無のエッセンスをもってこい]。なんだよ、無なんてなんにもないことじゃん。出来るわけないよ。と日本語の字面に囚われ、迷うこと数年。未だによく分からないです。老師のイメージする[無]は、宇宙の根源のようなもので、ダ─クマタ─のようにうねったものがあって、そこから万物が生じるというのですが、それは[無]なのか? 英語の勘違いかと思っていましたが、禅用語の[無]なのかな?と思ったりもします。
でもそれが、あって無い、無、なのかもしれません。
[空]については考えたこともありません。でも誰か書いてらした、枠があって空っぽ、というのは分かりやすいイメージですね。
色としては、無は黒で、空はそらいろかしら、なんて。
ごちゃごちゃと失礼しました。
ご本の執筆、頑張って下さいませ。楽しみにしております。
ロサンゼルスに講演にいらっしゃいませんか? 出発記念とか?だとしたらしばらく先かしら。
イメージすればいらっしゃるかもしれませんね。お元気で。
比較するものはないけれど、それ単独では存在しているということ。
比較するものがなければ、たとえそれがあったとしても、それがあるとは認識できない。
認識できないという意味で「ない」と表現している。
例えば、ここに黄色一色しか無くて、他の色が一切無かったとするならば、それが黄色だとはわからない。
認識できない。
黄色以外の色や無色があって、初めてそれを黄色と認識することができる。
黄色だけだって、それを黄色と認識できるというかもしれないけれど、それは黄色以外の認識、黄色以外の色を知っているからこそ、それを黄色だと認識できているに過ぎない。
黄色は黄色単独では黄色という意味をなさない。
「空」を表現するならば「?」みたいな表現が近いかもしれない。
何も知らないし、何もわからないと同時に、無限の知や無限の形の可能性を秘めている。
無知無能であるとともに、全知全能である「空」。
その全知全能すらも、比較による相補性により成り立っている幻想に過ぎない。
物質は空間により初めて認識できるとともに、空間も物質により初めて認識できるもの。
物質も空間も、それ単独では認識できない幻想。
コップの中が無い。
無い方は「何が無いの?」ってなる。
やっぱ違う~!
からっぽ←容器がある
よってあるとも言えずないとも言えず
無い←無いという定義を認識するものがある
よってあるとも言えず無いとも言えず
ふと、そういえば過去の記事に「0」についての記事があったなぁ(°_°)と思い、読み返してみたところ、
次のように書かれていた
※記事から引用
ーーーーーーーーーー
コップの中に「何も無い」という解釈は『無』です。
それに対し、
コップの中に「水の入るスペースが存在する」という解釈が『空』です。
ーーーーーーーーーー
解釈が違うだけで「空っぽ」も「無い」も、示しているものは同じだから「イコール」っことかな
ひょっとして
「空の更に奥にある無から全てのものが創出される」というのは
無から物質が生成されると言ってるのではなく
「コップの中に何も無い」という事実(無)から、「コップの中に水の入るスペースが存在する」という幻想・妄想(空)が創出されるってことが言いたいのかな??
なるほど、皆さんの考えを目にして
「黒斎さんのツイッターに対する「むむむ」
そうは言うけど、痛みとか、体感するものに関しては
深刻になって当然じゃないのさー!?」
という、感情は撃滅の一途をたどりました(笑)
「自身の体が痛む=深刻に受け止める」
と、イコールで結べるものだと言いきれるものでは
ないですね。
気づきをありがとうございました!
Ps
この前偶々動画を見たのですがyoutubeにUPされている
「らくちんこ道のじゅんころさん」の話です。
大和田菜穂さんと同じ非二元論の話をしていますが、
大和田さんよりも、腑に落ちるお話をされていました。
同じ内容を話していても、人によってこんなに
違うんだなぁと驚くばかりです
一度機会があれば見てみてほしいです
「からっぽのコップ」自体が消えちゃって無い。
そっか~
無いところにからっぽのコップが現れる。
「空=からっぽ」が「無」から現れる。
>「空」のさらに奥深くにある「無」から、全てのものが創出されるんだ。
前の記事の文ってそういう意味だったんだ~(*^▽^*)スッキリ~
面白い問いですね(笑)
私の理念では 無いは真実、からっぽは 無いの上に
何があるかを 確かめたら 何もないからっぽの状態で
あった。
無いは 動かしようのない事実で、からっぽは 意図的
に操作できるもので 普通の人は 自我意識からの創造
物が てんこもりの状態にありますね(爆)
あの世この世の真理
がんばるな世♪
(*^-^*)ノシ
どこかで応援しているよー。
多分
このルートで考えると、同じ=になる。
二次元的には物体的「からっぽ」&時間的「ない」になるから分離した表現かな?
失礼しました。
新著へのお取り組み、ご活躍ご祈念申し上げます。
多用中とは存じますが、以下ご教授賜れば幸いに存じます。
「すでにそうであるもの」を「イエス」といって受け入れると、あなたの深淵にある新たな次元が開かれます。その次元は外的状況にも、思考や感情で絶え間なく揺れ動いている内的状況にも、依存していません。 : エックハルト・トール
エック卿の仰る「すでにそうであるもの」とは何を指すのでしょう?なかなか捕らえにくいのですが・・・。
何も注がないコップの中を見て、
中身が無い と捉えるか、
中が空だ と捉えるか。
状況は一緒ですね? でも違った解釈、表現が出来る。
ではそれをイコールだと言えるか。
状況は一緒だからイコールで結ぶことは可能ですね?
だって何も注いでないから。一緒(イコール)ですね?
何も注いでない状況に焦点を当てればイコールで結べる。
一方、これがイコールにならないことが我々の日常には山ほどあります。
同じ状況でも見る人によって違った表現、イコールでない表現が生まれてくるのはなぜか。
それは見る人の中に違った事実が生じているからです。
中身に意識が行っているか、
空間に意識が行っているか。
同じ状況でも二つの事実、あるいはそれ以上の複数の事実が生じます。
・・・
では実際、「中身が無い」と「中が空(から)」は、
イコールなのかイコールでないのか。
僕の解釈では、
確実にイコールで結ぶことはできませんが、想像上では「両者をイコールと“思う”ことが出来る」です。
というのも、
中身が無いも、中が空も、どちらも人間が便宜上使っている概念、観念であり、ある種の空想だからです。
実際何も注いでいないコップの中には何らかのエネルギーを持つ物質、性質が存在しており、中身は確かに有るし空(から)でもありません。
例え真空容器でもです。真空にも重力や何かのエネルギーが働いています。
つまり人間には無いや空(から)を作り出せないと思われます。
結局、無いも空(から)も人間が生活で便利使い出来る概念であり、厳密にその有り様を確定できる種類のものではありません。
コップに水が無い、ポットのお湯が空だ、という状況はいくらでも作り出せますね。
でも無い、空(から)そのものは形にならない便宜的な概念です。
なので無いと空(から)を確実にイコールで結ぶことはできませんが、想像上では「両者をイコールと“思う”ことが出来る」です。
いや~、
思考とイメージのループって、本当に素晴らしいものですね!
(*´▽`)
たまに
「ただ在る。」
になる静寂のホテル。
1Fロビーにて
私は
12月13日まで
、
『現実世界』へ
外出 を延長します♪
しばらく、
『スピリチュアルブログの ない 生活』へ。
都市トシ伝説
「あるとも言えず、ないとも言えず」
♪
赤
信号停止。
『今』
一元のいま
静止した絵 静止した今
『今』
二元のいま
パラパラマンガ連続した今
(錯覚、幻想)
一元も、二元も
『いま』しかない。
青
信号発進
後方
ん?人力車
ブログ、ツイッターより雲黒斎さんの本を何度となく拝読させていただいております。
はじめてコメントを残させていただきます。
私は、まだまだです。
ただ、目を瞑るとなにもみえなくて、なにもないってことがわかるような気がします。
接客の仕事をしていて、とんでもない方向からクレームがきて、怒鳴られることが何回もあります。
私が引き寄せてるとも、原因があるとも思わず、ただ、チューニングがずれて、頭で決めつける日々を過ごすとそーゆー望まないことが起きるような気がします。いきなり怒鳴られたりするのはやはり心地のいいものではなく、このままであいたくないものです。
いわゆる「悟り」の状態になろうとおもってもなれないのだから、チューニングをあわせるように心がけて、
運を天に任せて、自分から取りにいかない。
これを心がけていれば怒鳴られるよーなことはないのかな。と、思います。
それでも、怒鳴られることを望んでいるから、その気持ちを解放するためには経験する必要があるんですかねー。
心が開いている状態なら、それまで不快だと思っていたことすらも、あぁ!これを味わいたかったんだ!と魂が喜ぶんですかねー。
なんだかやけに理不尽に怒鳴られることがおおいので、疲れます。
とりとめもない文章ですが。
いつも救われています。
ありがとうございます。
「怒鳴られたら
相手が怒っていると思わなければいけない
反省しないといけない
自分を守らなければいけない・・・」
等々、生まれてからこっち、家族や社会から何の疑いもなく学んできてしまった弊害。
と言っても、その家族や社会も、同じように学んできてしまってるのだから、仕方ないんですけどね。
人類の壮大な勘違い。なんで、こんな事になってんでしょうね?
本当は、わーいと遊んで、遊んだら疲れて、疲れたら休んだり寝る、それだけなのに。
元々は、その過程のどこにも、「疲れたから辛い」なんて出てこないのに。
「あなたをいつも取り巻いているものは何でしょう?」と一般人(スピに興味ない人)に尋ねたら、まず「空気」と答えるでしょう。
「気」という一字は古来エネルギーを示す言葉だから、空気の漢語訳は「何も無い空間にあるエネルギー」です。
日本語って実はスピ用語の塊で、「腹を据える」「腹に収める」等の「腹」は丹田だし、「肝に銘ずる」「元気」などなど無意識にスピだらけの言語です。