いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
空間からは逃げられない
「この頃、以前にもましてブログの更新がないよね。忙しいとか言ってるけど、ホントにちゃんと執筆してるの?」
という思いをお持ちの皆様。
安心してください、書いてますよっ!
どうも。流行に乗ってみました、とにかく明るい黒斎です。
まずは近況報告から。
ただいまノリノリで執筆しておりまして(あら珍しい)、「うぉー!早く皆さんに読んでいただきたい!」と盛り上がり、11月にしてもはや師走の勢いです。
そのうちの一冊はただいま5分の1程度の上がり具合。とりあえず年内に原稿をまとめられたらいいな〜といったところ。
もう一冊は海外物の翻訳書という、これまでとはまたちょっと違う企画にチャレンジしております。
「え〜、他の人の話はどうでもいいの。私は黒斎さんの本が読みたいのに〜…」と言ってくれる、黒斎くんにぞっこんなアナタもご安心ください!
大人の事情もありますので、まだ詳しい内容は伏せておかなければならないのですが、この本の内容は、僕がお話したいことと見事に一致しておりまして、少々お下品さが漂うクセのある著者のキャラクターも、どこか僕とかぶるという、「あれ?これって僕が書いた本なんじゃないの?」という錯覚に陥ってしまうほどのものだったのです。
出版社さんから企画をいただいて「是非やらせてください!」となった、パンチのある一冊。こちらも着々と進行しておりまして、来年1月にはお披露目できる予定です。
さて、近況報告はこれぐらいにして、先日からのお話の続きと参りましょう。
皆さんがコメント欄に記してくれたとおりで、「無い」と「空(からっぽ)」のニュアンスの違いは、「器(入れ物)」というものを例にとると、とってもわかりやすくなります。
それが有形であれ無形であれ、ありとあらゆる存在は、「空間の中」に存在しています。
空間があるからこそ、僕たちはこうして存在できるのです。
実に当たり前のことなんですけども、これをよくよく考えてみると、とっても不思議な気持ちになるんです。
ちょっと微妙なニュアンスなので、どこまで通じるかわかりませんが、とりあえず言葉にしてみます。
「空間」ってのは、そこに何かがあろうがなかろうが「空間」なんですよ。
例えば、いまアナタの身体がある、その空間。
その空間は、アナタの身体があろうがなかろうが空間なんです。
もしも、「物質」と言われているものが「空間」ではないのだとしたら、そこには「空間がない」ということになります。
でも、「空間がなくなる」ということはありません。
その物質がそこから消えれば、相変わらず空間は現れるんですから。
空間は、どこまでいっても空間のままなので、物質は常に、空間と重なりあっているます。
変な言い方になってしまいますが、物質もまた空間なんです。
で、「命」ってのは、物質ひとつひとつに宿っているわけではなくて、「空間」に満ちているんです。
だから、そこに身体という形があろうがあるまいが、命(空間)がある。
僕たちはみな、この身体という形を持つ以前から、命(空間)なんです。
物は、常にその形を変え、現れては消える性質を持っていますが、「空間」は無くなることがありません。
と、すれば、生まれることも、死ぬこともありません。「誰それの命(空間)」ということも言えません。
命の感覚が逆転するっていうこの感じ、おわかりいただけますか?
【トークライブ・インフォメーション】
年内も様々なイベントが目白押しです!お見逃し無く!
『ザ・シークレット』に次ぐ超話題作、『ザ・パワー・オブ・ザ・ハート』の発売記念イベントに参加する運びとなりました。
DVD・書籍のご紹介とともに、僕の視点からの「ハート」のお話も展開する予定です。
ザ・パワー・オブ・ザ・ハート ナイト(ブッフェ & 飲み放題2時間つき)
11月30日(月)19:00スタート @代官山「晴れたら空に豆まいて」
[詳細・お申し込み]
あの世に聞いた、ハートの仕組み
12月11日(金)19:00スタート @文京区スカイホール(文京シビックセンター26階)
[詳細・お申し込み]
*****
平日のお話会「月イチ☆」、11月開催分、受付中です!
平日のお話会「月イチ☆」(東京)
11月25日(水)19:30~21:30(19:00会場)@三鷹産業プラザ 7階 701会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「月イチ☆WEST」(京都)
11月27日(金)19:30~21:30(19:00会場)@ハートピア京都 第5会議室[詳細・お申し込み]
平日のお話会「でら☆月イチ」(名古屋)
11月26日(木)19:30~21:30(19:00会場)@ウインクあいち 11階 1101会議室[詳細・お申し込み]
なお、12月の「月イチ☆」は、17日(木)浜松・18日(金)大阪・21日(月)東京で開催。
毎年恒例となった、気持ちばかりのクリスマスプレゼントをご用意してお待ちしております。
さらに、17日(木)の浜松では、なんと、スペシャルゲストに阿部敏郎さんをお迎えして、『阿雲の呼吸スペシャル』を開催!
受付は今月25日に開始予定です。
*****
梅田の蔦屋書店さんでのトークイベント、第2弾!
大阪、梅田駅直結にするルクア イーレの9F 、梅田蔦屋書店さんのお誘いを受けて開催した朝のお話会。
ご好評につき第2弾を開催!
リアル書店さんのスペースをお借りしてのイベントですので、「人生を変える本との出会い」をテーマに、僕がオススメする書籍の魅力や、精神世界の勘所などのお話をする予定です。
開催は平日の午前中ですので、参加できる方も限られるかとは思いますが、よろしければ遊びに来てください。
雲黒斎トークライブ『朝から梅田でアレのこと』Vol.2
11月27日(金)10:00~11:30(9:30開場)梅田 蔦屋書店 4th ラウンジ [詳細・お申し込み]
*****
※パソコンや携帯電話からのお申し込みが面倒、わからない、という方には、ファミリーマートさんの情報端末「ファミポート」でのお手続きをオススメしております。
ご利用方法については【コチラ】をご参照ください。
←「安心してください、押してますよっ!」と言ってくれるアナタが大好きです。
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空間があるからこそ、僕たちはこうして存在できるのです。
実に当たり前のことなんですけども、これをよくよく考えてみると、とっても不思議な気持ちになるんです。
ちょっと微妙なニュアンスなので、どこまで通じるかわかりませんが、とりあえず言葉にしてみます。
「空間」ってのは、そこに何かがあろうがなかろうが「空間」なんですよ。
例えば、いまアナタの身体がある、その空間。
その空間は、アナタの身体があろうがなかろうが空間なんです。
もしも、「物質」と言われているものが「空間」ではないのだとしたら、そこには「空間がない」ということになります。
でも、「空間がなくなる」ということはありません。
その物質がそこから消えれば、相変わらず空間は現れるんですから。
空間は、どこまでいっても空間のままなので、物質は常に、空間と重なりあっているます。
変な言い方になってしまいますが、物質もまた空間なんです。
で、「命」ってのは、物質ひとつひとつに宿っているわけではなくて、「空間」に満ちているんです。
だから、そこに身体という形があろうがあるまいが、命(空間)がある。
僕たちはみな、この身体という形を持つ以前から、命(空間)なんです。
物は、常にその形を変え、現れては消える性質を持っていますが、「空間」は無くなることがありません。
と、すれば、生まれることも、死ぬこともありません。「誰それの命(空間)」ということも言えません。
命の感覚が逆転するっていうこの感じ、おわかりいただけますか?
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平日のお話会「月イチ☆WEST」(京都)
11月27日(金)19:30~21:30(19:00会場)@ハートピア京都 第5会議室[詳細・お申し込み]
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11月26日(木)19:30~21:30(19:00会場)@ウインクあいち 11階 1101会議室[詳細・お申し込み]
なお、12月の「月イチ☆」は、17日(木)浜松・18日(金)大阪・21日(月)東京で開催。
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コメント ( 38 ) | Trackback ( )
« あるとも言え... | すでにそうで... » |
>だから、そこに身体という形があろうがあるまいが、命(空間)がある。
>僕たちはみな、この身体という形を持つ以前から、命(空間)なんです。
>物は、常にその形を変え、現れては消える性質を持っていますが、「空間」は無くなることがありません。
ここまで、黒澤さん的に、
「空っぽ」はない。命が満ちてる。
「無い」はない。命(空間)が無くなることはない。
という要約でいいのかな?
この言葉一つで全て腑に落ちました。
ありがとうございます。
目の前のテーブルも椅子もコップも命?!
それで、全てはひとつとか、あなたは私だとかの話しにつながるんですね?
覚醒した人は、こういうことを体感として深く理解できているのでしょう?
いまだ個としてある私には、とんでもなくびっくりぽんな話しに感じてしまいます。
そうなんだ~という思いと共に、こういうことを頭ではなく、体感したい!知りたい!と、悟りへの憧れが増すというか、ますます自分と、悟りとの距離ができていくのを感じます。
あなたはすでにそうであると言われても、なんだかなー(阿藤快さんを偲んで)って感じです。
境界線を
引いていき
ここから私
ここからあなた
私(個)はいない、の意味がますますクリアに。
ありがとうございます!
いやはや、シンプル。
しかし脳は色々と考えちゃう。
やっかいですね。
今、読んでいる保江邦夫さんの本の中にも
ビシバシ「空間」の話が出てきます。
CDをレンタルしたついでに、エックハルトトールの
DVDを2本借りましたが、その中でも「空間」の
事を言っていて、、更にタイミングで黒斎さんの
今回の記事にどえりゃーびっくりしました。
因に保江さんは「おかれた場所で咲きなさい」の著者
渡辺和子さんが勤める大学の教授です
この保江さんは、ほんとに幸運としか思えない
連続の出来事(ご本人が凄く勉強出来たから、、
というよりも、物凄い幸運の連続で、東北大学→
京都大学大学院→名古屋大学大学院に進んでいる方で
ビリギャルも真っ青です。
その中で幸運の理由は「空間」にあった、と
著書の中で書かれています。
保江さんの回し者ではないですが(笑)
当たり前にありすぎて、まーったく意識していなかった
「空間」
今まで散々スピ系の本も読んできたのに、
色々知ってるはずなのに、未だに知らない事ばかり。
目から鱗です!
「生まれることも死ぬこともない」という主張のお粗末なこじつけとしか思えない。
>「命」ってのは、物質にひとつひとつ宿っているわけではなくて、空間に満ちているんです。
なぜそう言えるのか?雲黒斎さんにはこういったミッシングリンクを作るのではなく埋めていって欲しいです。
この世の目に見えるものは幻想である
まではわかるのですが
死というものに対して悲しいとか
生に対して嬉しいとかそういう感情そのもの自体も
愛という一つの表現のみで
感情そのものも幻想であり
スピリチュアルのな世界も神様とかご先祖様とか
雲さんとかも幻想であるとした時に
今までわからなかった
こくさいさんが伝えようとしている事が
するりと理解できるようになりました
でもね
そう考えたら、それこそ生きてここにいる事が
わからなくなるんです
今生きている自分の存在そのものが
不思議なもので
なんだか空っぽになってしまった感じです
自分がしようと思う事は
自分の引き寄せている物だとしたら
自分が望んでいるそのものも幻想で
そこに向かって得た喜びや感動も幻想だとしたら
何も行動する気がしなくなってしまったのです
コクサイさんの話してる事を
真に理解することは結局
私たちにどういう風になる事を
目的としているのでしょう?
人に根本的とも思えるほどの価値観の転換をもたらします。
その経験をした人の中にはブログなどで体験談を綴ったりする方もおられます。人によって気付き、目覚め、覚醒体験、あるいは悟りの世界を一瞥する、など色々な表現を用います。
それはそれで個人が抱いた感想の発表として、素直な行動ではあると思います。
しかし、それを未だ見ても体験してもないという善良な皆様におかれましては、どうぞ目覚めや覚醒なるものにあらぬ期待を抱かぬよう、よくよくご注意なさいますように。
・・・
変な期待も特定のイメージも持たない。
そのことは、あるがままの世界を観るためのごく自然なあり方だということにあまり疑問はないだろうと思います。
では逆に、
様々な期待やイメージを抱くならどうなるか。
霊的な意識と交信ができるようになるのではないか。
人々や自身の前世、オーラなどが見えるようになるのではないか。
煩悩を抱かない、高い次元に上がれるのではないか。
苦しみから全て開放されるのではないか。
あるいは悟りの秘密を解し、転生を終えられるのではないか。
例えばこのような、ことのほかの人間じみた期待を抱き、目覚めや覚醒に対する特定のイメージを持つなら、訪れるのは意識の変容だけではありません。
欲に根差しイメージを抱き続けるなら、
訪れるものは欲を秘め、欲を利用する意識です。
それらは大きな意識には違いなく、飲み込まれたものは飲み込まれたと理解が及ばないため、自身が力を得た、世界を解ったと小躍りします。
この世界を迷い歩く我々の意識など、なんの造作もなく操られ、転がされ、利用されるのです。
・・・
目覚めや覚醒と呼ばれる意識の変容は、自我の崩壊という衝撃を伴うことがあります。
自我のエネルギー自体は不滅ですが、今まで生きてきた中で培った価値観が崩壊するとき、自我の壁も一時の間ではありますが崩れ落ちます。
そのようなショックを受け、ある種の感動体験に心を打たれた者は、後にそれが悟りの世界の一端であると簡単に誤解します。(元々悟りを求めていた者なら尚更簡単に誤解します。)
しかし、一瞥的に自我が取り払われあらわになった意識は、単に壁が取り払われた状態であるだけです。それは一時無防備になっただけの単なる精神的赤子です。
精神的な赤子は簡単に言いなりにすることが出来ます。
むしろ本当の赤ちゃんの方が育てるのが大変で、言うことなんか全然聞かないでしょうが、
我々を凌駕する意識には精神的な赤子、つまり一時的に無防備になった意識を言いなりにするのはまさに赤子の手を捻るが如くです。
利用されるには利用されるだけの理由があったということですが、もはやそれをあるがままに見つめることは難しいでしょう。
転がされている最中の者には、それが自我の為せる業だとはなかなか気付けません。
行き着くところまで行き着き、崩壊し、利用価値が無くなるまでは、自己があるがままの自己でなくなっているからです。
多くの新興宗教においても指導者の成り立ちはまず、人生への苦悩などがあり、そして意識の変容が起きる(または神の声を聴く、病気治しの力を授かるなど)、そして変容した意識において語る言葉を周囲の人間がありがたがる、というパターンだと思います。
それらの姿を観察することも目覚めというものの危険性を教えてくれるでしょう。
それらの元にあるものは形を変えてまた現れます。
新宗教も、自己啓発セミナーのようなものも、宇宙からのメッセージも、ここ数年で言うところのスピリチュアルという盛り上がりも、元にあるものは同じです。
スピリチュアルがまた古くさい感じがしてくれば、また新たな装いで、新しい波のような形で何か出てくるでしょう。
でも元にあるものは同じです。利用する意識と、利用される意識です。
・・・
上記にも言いましたが、意識の変容と「悟り」は全く別のことです。
同じく目覚めや覚醒など、それらは悟りとは何の関係もありません。
目覚めや覚醒というのは我々の意識上に起きる価値観の転換以上でも以下でもありません。
それに伴って生ずる、魂が揺さぶられるような思いも人それぞれあるでしょう。
しかし、元々に自我による壁をあまり築いて来なかった人には覚醒が起きてもそれほどの衝撃は起こりません。
幼いころに万物の流転を知覚する方もたまにいると思いますが、それはただ目の前に起こり、それがあるがままの姿だと素直に受け入れます。取り立てた衝撃はありません。
それらは魂を揺るがす大事件ではなく、むしろその後に成長する過程で出会う人間的価値観のほうが心に扱いづらい出来事であるかもしれません。
悟りとか悟りを一瞥するだとかを語る案内人は、それを知らないから案内人でいられるのです。(笑)
新宗教やスピリチュアルで語られる悟りとは客寄せパンダのようなものです。
「悟りは言葉に出来ません。でも言葉の向こうにある“それ”を感じて下さい。」
このようなものも客寄せパンダです。
意識の変容は小さいものから大きいものまで、様々に個々の人生に訪れます。
個別の人の生に訪れる意識の変容は意識領域のごく一部の中で起きることであり、人の生に無関係に運行している宇宙そのものの理とは全く別のことなのです。
(もちろん人は宇宙の一部という意味では関係してます。誤解なく。)
自己意識と宇宙の理そのものとを同一視するのは自我のうちにある肥大願望が為せる業だということ。
意識は宇宙を感じ取ることは出来ますが、それは宇宙の理そのものではありません。
それを宇宙の理そのものを体感したかのように見たいのは、自我によるイメージであり、見たい意識の現れだということなのです。
ですので重ねて申し上げます。
それらのことを未だ見ても体験してもないという善良な皆様におかれましては、どうぞ目覚めや覚醒なるものにあらぬ期待を抱かぬよう、よくよくご注意なさいますように。
人間も物も見えない魂も、感情も思考もすべて空間から出てくるわけですね?こういう話し好きなんです(≧∇≦)
とは言え、
網目である我々自体が、真理そのもの、宇宙そのものを統べている訳ではありません。
「我々と万物との間に境界は存在しなかったのだ」という気付きは、ただ単にあるがままの世界への気付きなのであり、
それは 「 神 = 我 」といったような、宇宙を統べる摂理と自己意識を同化させるような、自我の及ぼす飛躍したイメージとは異なるものです。
そのような、ワンネスという気付きを得てもなお飽くことなく生じてくる幻想があるということ、
幾度目覚めを得ても、人はそうした自我の罠に簡単に陥るのだということもまた気付きの一つです。
そして、
目覚め、覚醒、その他、呼び名は何でも構いません、
そうした名で呼ばれる如何なるものを経験しようと、それらは悟りの境地とは何の関係もないということ。
そこにも自我の罠というべき落とし穴があると思います。
目覚めや覚醒とは価値観の変容であり、それは悟りではなく単に意識の内部変化に過ぎません。
・・・
「私」という、あたかも外界と切り離されたような感覚を持つ人間も、実際には万物と繋がりを持ち、繋がりの中でしか存在して来なかったという事実。
そして我々の生命機能から宇宙の運行に至るまで、全てが真理の現れであったということ。
それらはそもそも何ら疑いの余地の無い、ごく自然なことです。
ところが、そのことに殆ど目が向いていなかった意識が、ある瞬間、思考という雑音をミュートして初めてその事実に気が付き、その疑いの余地なき事実とありのままに触れあった時、
人はその衝撃や感動を目覚めや覚醒という言葉で表現するのでしょう。
その気持ちはもちろんよく分かります。
ですがそうしたことはやはり悟りとはまるで別のことなのです。
それはあくまでも意識内部における認識の変化です。
PCやデジタル機器で例えて言えば、USB接続で周辺機器が本体に認識されたぐらいなもんです。
USBでなくても無線LAN接続でもBluetoothでも構いません。
接続の前と後では、それはその通り認識は全くもって変わります。
ですが、
実際のところは単に元々そうだった、
そういう規格だったものが普通に接続・認識を行った、
というだけの話です。
それまで接続していなかったのはそれぞれの理由によります。
(一番多いであろう理由は、「そういう規格だと知らなかった」というものでしょうね。)
今まで全く使っていなかったなら、接続・認識にちょっとしたカルチャーショックがあるだけのことです。
初めからデジタル機器に興味があったり、勘が良かった人は接続や認識自体そんなにびっくりするようなことではなかったでしょう。
例えて言えばそれぐらいのことです。そもそも人間なんて一生のうち知らないことだらけです。
ところが、
こうした経験を以て、「私は悟りの世界を垣間見た」と人々に喧伝し、それを教えの如く講演してまわる人を見て、今これを読んだあなたならどう思うでしょうか。
僕ならこう言います。
「で、あなたは、いつまでその“わたし”でいるのですか?」
禁断を承知であえて書きますが、悟りは自己意識の消滅を意味しています。
ゆえに、現に“存在”する我々には不可能なのです。
「わたしもあなたも居ません」などと言っている人は、完全なる矛盾に陥っているにもかかわらず、あり得ない状況を自我が映し出す思考とイメージによって脳内補完しているに過ぎません。
・・・
僕が悟りについて知覚し得たことはここまでですが、何かで学んだ情報ではないので仏教的な教えで言われる悟りとはまた異なるかもしれません。
悟りという概念の中身が一つでないだろうことは承知していますので、悟りについてそれぞれ見解のある方はどうぞご自由に別途披露して頂ければと思います。
ちなみに、ここからは推測も推測、ほとんど夢物語の域ですが、
悟りは不可能だと言っておきながら、実は歴史上に名を遺した仏陀をはじめ、それ以外にもおそらく世に姿を晒すことのなかった覚者は何人も居たのではないかと考えています。
そしてそれらの自己意識を超越した人たちは、驚くべきことに意識のみならず肉体までも自由自在に明滅させることが可能だったのではないかと。
色即是空、空即是色ですか?(詳しくは知りませんが)
あるいは空や無といった概念は、果たして本当に概念だけにとどまっているのかどうか。
いや(笑)、ええ、とんでも話ですね。すみません。
(しかし、この推測が本当に笑い話かどうか、人類が決着を断ずるにはまだまだデータが揃っているとは言えないでしょう?。100年後、200年後の物理学の先端が何を研究しているかと想像するとワクワクします。笑)
精神世界を知っていくとどうしても理詰めでは限界が来るんですよね。それを埋めるのが自分の体感ですよ。実践がなければただの辞書になっちゃう。
ミッシングリンクなんて無いと思います。
浅く見れば矛盾するかのような情報も、それを受け止めた自分の感覚や体験が理屈ではないもので埋めていくのだと思うし。
それを全て黒澤さんに解決してもらおうというのは違う。
要するに、実践者じゃないのかな。
まあどうでもいいか。
よく聞く、これ、それ、ここ、とかいうのは空間のことを指してるのでしょうかね。
物質世界だけではなくて、霊体や魂とか、見えない世界も空間にあるのですか?
はるか遠くに存在してるのだと思ってましたが。
>「命」ってのは、物質にひとつひとつ宿っているわけではなくて、空間に満ちているんです。
この説明で皆さん本当に腑に落ちているんですか?
本当に納得できてるんですか?本当になるほど!って思ってるんですか?
私にはサッパリです(汗)
例えば、
「1+1 の答えは 6 だ」と言う人がいるとして、それは何故?と聞くことはおかしなことでしょうか?
その理由が、
「1+1の答えが2」なのは、そう定めて共通認識したほうが意思疎通しやすいから、意思疎通しづらくても良いなら答えは何でも良いので私は君達が「2」と呼んでるものを「6」と呼んでいる
と、言われたら私は納得できます。
それを本人に聞かず体感しろというのは無理な話じゃないでしょうか。
さむさんのコメントに「新宗教やスピリチュアルで語られる悟りとは客寄せパンダのようなものです」とありましたが共感できました。
「空間=命」という表現も私には新しい客寄せパンダみたいなものに思えます。
今日の月イチ行きました。
×0の話、凄い良かったです!
私の数式、相当複雑なんだなぁって愕然。
そりゃ苦しいわ。苦しみのループから抜け出せないわ。
いや、抜け出したくないんです。
大事に大事に抱え込んで、新たな数式を日々書き加えるのが趣味みたいな。数式に見とれる数学者の気持ち、よく分かる。
今日、会社で上司にミスをなすりつけられて、凄い嫌な気分だったんです。
会場に向かう電車の中でも、ずっと上司のこと考えて、心の中で罵倒してました。
黒斎さんのお話聞いて、少しでも許せるようになるといいなぁって思いながら、会場に向かいました。
でも、×0の話、解釈の話を聞いてる内に、私は私の世界で自分が正しいと思ってたけど、上司は上司で自分が正しいと思ってる。それぞれが自分の解釈、物語を生きてる。
それに気付いたら、許すとか許さないとかいう感覚がスッポリ無くなってて、問題自体が無くなってました。
あんなに嫌な気分でいたのに。
ポンコツ豚野郎!って思ってたのに(笑)
許したわけじゃないんです。
そもそも問題が元々無かったことに気付いた。
これは問題だ!って解釈したことが、苦しみの原因なんですね。
とか言って明日会社行ったらまた、このポンコツ豚野郎!って思ったりして(笑)
うん、それでもいい。問題ない(^^)
私は経理の仕事をしているので数字の例えはとても分かりやすかったですし、色即是空⇒式=ゼロというのも上手い!って思って楽しかったです☆
ありがとうございました。
翻訳本、とっても楽しみです!
もちろん、黒斎さんの新刊も♪
脳の本も早速図書館で予約しました。
また来月、月イチ行きます(^▽^)/
分かった!というのもある程度は思い込みで占められるのが実情だと思いますよ。(^_^;)
「じゃああなた自分の言葉で誰かに説明してみて下さい」と言われたら、一体、10人中何人が黒澤さんの意図に沿った内容を人に伝達できるのか、というね。
一人もいない!って言ったら黒澤さんが落ち込むから、一人ぐらいはいることにしておこう。(笑)
(分かった側の方々批判ではなくて、普通に落ち着いて考えれば、の話でございますよ…。)
人の言葉の意図を推し量るのは中々どうして。。
1+1=2のように明快にはいきませんね。
だから僕も「黒澤さん的にはこんな要約でいいのかな?」と問いかけてしまいました。
あと、
そもそも空間とは何ぞや、命とは何ぞや、が「これだ!」ときっちり特定ができない、という状況からも分かる通り、
そんな抽象的にしか話を進められない中で、
「スピリチュアル業界人が人に“伝える”」とは一体何なのか、という根本的なテーマも見え隠れしています。
そんな考察についてはまた機会があれば考えてみたいですね。
そしてYUMIさんのコメント後半部分なんかも、もっともなテーマだと思います。特に非二元系スピリチュアル業界人に向けて。
皆さんも一度考えてみてはいかがでしょうか。
分からない(分けることができない) 私はみつからない それで幸せなのである すべてが…
これが私だ(この意味は、これと私を別のものと表現していない。いしきのなかに特定の或るもの〇がみつからないという意味でいっている。)
がないから
私がみつからないから
なにも考えなくていいし
私がなにかを探しもとめることもない
いしきのなかに
私(ここが私だ の 領域)
がみつからないから
私は
自然な全体
朝の識別作用がおきるまえの平安より
そして
どうしてか
フォーレのイン・パラディズム
の音楽が
朝寝床のなかでこころのなかで流れている
http://www.youtube.com/watch?v=bz125ww1qvs&sns=em
次元=小ささ
の違い
三次元空間(3D)
三次元の境界線
究極の最小粒子
「素粒子ニュートリノ」
さらに小さい
四次元以上の物質で構成された
『極楽飯店』の扉を
素粒子ニュートリノは
すり抜けられると
おもうかい
休日♪小話
意思も持たぬ
「素粒子ニュートリノ」
は
まだまだ目の荒い
三次元ボーダーライン物質。
四次元
六次元
十次元~
と、
はるかに小さい粒子のある空間 それは
今 いる空間のいと小さきに… ある
雲黒斎さんの上洛で京都市の平均偏差値が10はアップしたはずです。
そしてサインまでいただきまして感謝感激です。
ブログで読んでいて分かったつもりでいた事でも実際にお話を聴くと間違いに気付いたりするものですね。勉強になりました。
皆さん真剣に聞いておられたので、私も気になるところはバリバリにメモしましたが、本当はもっと気楽に笑いながら聞きたかったかな……とも思います。つい人の目を気にしてしまいますね(笑)。
実は質問もあったのですが、あほな質問すぎて手を挙げるタイミングを逃しました……次の月イチでは勇気を出して是非うかがいたいです。
私も主人も、そして72才の実父も、これからもずっと雲黒斎さんの大ファンでいます!
新刊を楽しみにしてます。お願いですから父のような老眼のファンのために早急にKindle版も出してくださいね!
何故、幻想だとやる気がなくなるのか?
幻想だろうが現に喜びや感動を感じられるのに
何故、本物だとやる気が出るのか?
価値があるから?
何故、価値を気にするのか?
他人と比べて優越感に浸りたいから
結局、やる気を失くすってのは自我に振り回されてる証拠ではないでしょうか?
価値なんかなくたって喜びや感動は感じられるんだから
価値が無くなることで損をしたと感じる人は恵まれているんだと思います
例えば、カースト制度等の身分制度で奴隷の人が、奴隷から解放された場合(奴隷としての価値が無くなった場合)、
悲しむでしょうか?がっかりするでしょうか?
価値が無くても楽しく生きれる、むしろ、ないからこそ純粋に楽しめるのではないかと私は考えます。
[象]を真理とすると
盲人がそれぞれ語る[象]の一部分を聞き、
思考している私は
一体[何物]なんだろう??
でピンと来ない人は
そもそもの空間と命という言葉の感覚が
ピンと来てる人のそれと
全然違うんだろうなーって思うわけです。
命が生命活動を営む物質(要は生物)だと思ってる人は
それ以外の物を“命”と呼ぶことにためらい…というか違和感があるんでしょう。
テーブルやイスが命!?そんなばかなって。
この話がピンと来る人って
命=神、宇宙、エネルギー
って思ってるわけです……よね? よね??
宇宙に満ち溢れたエネルギーが結晶化したものが、物質…
としたら、テーブルだってイスだって、エネルギーの塊なのですから、
テーブル=エネルギー
エネルギー=命
よってテーブル=命
命と呼べる。
神=宇宙=空間=エネルギー=命
それぞれの言葉の定義は、もちろん全く違うのだけども、
多分このあたりが全て同じものを“表現しようとしている”ということですよね。
それは言葉にするのがとっても難しい存在なんでしょう。
先日海外ドラマを見ていまして
時空間を操る超能力者を、時空間の存在しない世界=情報の中に閉じ込める、という内容がありました。
その時はなんとなく見ていたのですが
今回の記事を読みまして、
時空間と情報の関係性ってなんだろう??と思いまして…
掘り下げるとなかなか面白そうです。
黒斎先生、ブログのテーマとしていかがでしょうか?( ̄▽ ̄)
1+1=6、なんて話では無いですよ。
空間を命と感じる実践は、感じることですよ。その方法も幾通りもあると思いますが。空間が、命と思ってみる。命の中にいると思ってみる。きついと思いますが。
物体は空間ですので。なぜなら分子レベルで見たらすかすかですので。強引ですが空気中と変わりません。そう思うと、空間だって原子で満たされていますし肉体の方はすかすかですから。真空でない限りは、分子や原子、電子で満ちているのですね。
では分子が命なのか。
肉体や物体が命なのか。に、なると思いますが。その通りなのだと思います。これが、普通に思ういのちの捉え方だと思います。そして、黒澤さんの言ういのちは、分子すらない状態をさすんではないでしょうか。
どこをと指定するような場所ではなく、次元なのではないかと。いま顕在する意識を客観的に見る視座。
分かった側と分からない側も同じ状態です。黒澤的な見解を分かりはしない。自分のフィルターで解釈しているに過ぎないのです。
わたしのフィルターでは、命は宇宙、胎内となりますが、それは超個人的な見方でしかありません。広まったとすれば一つの説になると言うだけです。
なんだこの感覚は。。
黒斎さんの説明ってスゴいね。
本とかブログとか色々読んだけど、こんな感覚になったのは初めてです。
わたしって、空(間)なんだ。
ってか、‘わたし’ なんてものはいない。
境界線はない。
ほんとは空(そら)と同じで、身体は錯覚みたいなものなの?
ただ ‘そのいのち’が、現れてるだけ?
そうしたら、何が ‘この意識’ を束ねてるの?
だとしたら、わたしたちは本来、メッチャ自由で変幻自在ってこと?
僕の端末のIMEではそらで宙と変換が出ないので「ちゅう」さんと書いています。(笑)
という話は置いといて。(っ・ω・)っヨイショ
以下独り言です。もちろん返信無用。
・・・
>なぜ「空間」を「命」と読み替える必要があるの??
これ、黒澤さん的には以前からの肝要なフレーズだったようですね。
基本的にはまず、
「 命とは個にのみ宿るのではなく、物の有無にかかわらず、其処にも此処も満ちているのだ。」
という端的な気付きがありますね。ザ・ワンネスみたいな。
それでその説明というか、喩えというか、
色んな話があるなかで五蘊ハウスなどの話でも「空間」が出て来る。
ざっくり言えば、
命の本質は側(がわ)じゃ無い。
建物じゃない。
中の空間に目を向けることに気付きの糸口がある、と。
場合によっては、建物に穴が開いて空間の領域が広がっちゃった人や、
さらには建物ごと解体されてしまって、空間そのものになっちゃう人もいるんだよ。
みたいな。
そんな意味合いで「 命 ( 空間 ) 」という黒澤流の互換認識を読者に提示している訳ですね。
だいぶ端折りましたけど、合ってます?(笑)
僕にとっても五蘊ハウスの話は新鮮というか、初めて見聞きした解釈だったので、黒澤流の意図は何分の一も理解出来てないかと思いますが。
…熱心な読者は過去記事に当たって下さい。(*ノ∀`*)テヘ
一方、
命や空間という言葉、
皆さんそれぞれ、元々の印象や定義みたいなものを持っていますから、誰にでも「 命(空間)」と認識される訳ではありませんね。
ワンネス的な気付きを共有出来るかどうかの前に、言葉の伝達というのは結構なテーマで。
理解のポイントとして当然ワンネス自体に目が行きますけど、
使用した言葉に対する発信者の感覚と、読者が持つ感覚とがある程度の互換性がないと成立しないというのは、水面下では実は結構大きな障壁だと思います。
結果として、
聞いたその時点ではたまたましっくり来ない場合もあるでしょうし、
逆に忠実に理解した訳でなく、何となく自己解釈して納得した人も多いでしょうね。
(まあでも、それらは常に同じ感じ方をするという訳でもなく、本人の中でもその時、そのシチュエーションによって受け止め方は変わりゆくものだろうと思います。)
・・・
以下蛇足。
その時、そのシチュエーションで私はこう感じた。
一方、同じものを見て違った全く感覚を持った人もいた。
そうした、自分と他者の見解の違いを、違いのままに両方を眺めてみるとどうなるか。
両方を念頭におきながら眺めるとき、心はざわつきや違和感からさほど無理なく開放されます。個人差はあるとは思いますが。
例えばパソコンだとデスクトップ上に複数のウィンドウなりファイルなりを置いて見るように、
意識下においても異なる二つの見解をそのままに放置してみます。
意識が両方を眺める、というところをスタート地点にすれば、
他者の意図が汲み取れない部分があっても、また疑問が生じても、それらによって自分の見解に影響を与えられることはありません。
ちなみに僕の場合、時間をおいてまた眺めたりすると、以前と他者への理解が変わったり、自分の見解とまた今の考えが変わっていることに気付くことがあります。(笑)
・・・
蛇足その2
他者の言葉を知ろうとするとき、幾つかのポジションがあります。
一般的には相手のことを知りたいときです。
日常生活の会話でいつでも見られる関係性です。ごく自然なことですね。
ところが、
知らず知らずスピ読者に多いと思われるポジションもあります。
それは誰かの言葉を知り、誰かのフィルターを通して「世界を分かりたい」という物の見方です。
それは人の言説の中に正しい世界観を見い出そうとする行為です。
このことだけで「少し危なっかしいな」という感覚が芽生えたでしょうか?
芽生えなかった人はどこかの団体の信者として素質十分です。(笑)
先に述べた「相手のことを知りたい」ですら、中々しっかりとは掴めません。
人間の認識は皆が同じではないですから、大なり小なり勝手な印象や事実と異なる思い込みが生まれるのは仕方ありませんね。
すぐ目の前にいる相手のことですら正確に認識し得ないのが、我々人間という存在の実情なのです。
ましてや、
誰かの言説の中にこの世界の真実を見出だそうとする行為とは、一体如何なるものでしょうか?
もう九割方は「危なっかしいな」という感覚が芽生えたでしょう?
え?まだの方いる? あなたどこかの団体の幹部候補として推薦したいです。(笑)
というのは冗談ですが、
冗談ではないことも現実にあります。
驚くべきことに、上記に述べた危険性を認識出来ていない張本人が、
誰あろう皆様が言葉を心待ちにしている、スピリチュアルマスター、メッセンジャー、その方々なのです。
どうでしょうか。
「誰かの言説の中にこの世界の真実を見出だそうとする行為」
ここまでこのことに何ら危なっかしさを感じなかったあなた。
あなたこそ次世代のメッセンジャーであり、やがてマスターとなることが出来るでしょう。
未来のマスターよ! フォースと共にあれ!
空間という「紙=神」の上に有と無がコンピュータの2進数プログラムのように乱立して世界ができているのかなと。
まあ、私の想像上の世界ですけどね^^;
その「逆転」って感覚、まさに~♪
意味あるの?
それを知って、理解して、結局どういう風になったらいいの?
理解出来て、さあ、その先は?
・・・
というような思い。そりゃ当然なりますよね。
何か、全部が幻想で、自分も幻で、我々なんて、無人の映画館で勝手に流れているフィルムの登場人物のようなもので。
勝手に起こってるだけ。
…という思いも勝手に起こってるだけ。
↑ という思いも勝手に起こってるだけ。
↑ という思いも(以下略。)
なんにもない。意味がない。感動、人生の価値、喜怒哀楽、少年マンガの友情、努力、勇気。全てただの幻。
という思いも(以下略。笑)
まあそんな感じで、
非二元だとか空だとか学んでも、その延長線上にある先のことが分からんよね。
全てが幻想だと分かって。
この世界は空であると喝破して。
それで?
……。
え、いや、ちょっと待てよ。
いみじくも新しい記事で黒澤さんが「捉えることが不可能だ」と仰る通り、
そもそも初めから理解なんて出来ない種類の話よね?
なら、
理解した「つもり」になるだけじゃん。
空や幻想を理解した先ならまだしも、
「理解したつもり」の先ってこと?
は?
どゆこと?
みたいな。(笑)
・・・
でも安心して下さい。
それ、初めから自我の罠っていうただのパズルですから。(笑)
面白いですね~。なんだかワクワクします。
不謹慎というなかれ。
自我の罠とは考えようによっちゃ面白い。
頭脳の優れた人にも、我々のような凡人にも(お前と一緒にするなって?笑)、全ての人々に一様に立ち現れるこの自我の罠とは、
まるでオーダーメイドでそれぞれの意識に応じて作られたパズルのような気さえしてきます。本当に上手く出来ているものだなあと。
改めて名作パズルの決定版を。
(っ・ω・)っヨイショ (←気に入っちゃった)
その名も「ノンデュアリティ」。
まあ、そのぐらいの心構えで大丈夫ですよ。
安心して下さい。(*´▽`)
わからないけど、ま、いっか(^ω^)
おもしろいから