私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

龍之介と清水

2017-07-24 05:30:05 | 手当たり史跡
偶然ですが7月24日は、芥川龍之介の命日でした。、昭和2年(1927)田端の自宅で服毒自殺をしていて、当日の天候は雨と言う。冥福を祈ります。
新定院に残されていた芥川龍之介の書簡は、当時の住職が冥福を祈り護摩焚きをしたので全て焼かれ(本当に全く)残って居ないと聞きました。(何人も確認に来たらしい)


さて「芥川龍之介書簡集」によると

第100話目 大正二年八月十六日朝 静岡縣安倍郡富士見村新定院内 芥川龍之介とあり、東京帝国大学文科大学英吉利文学科にこの年の9月に入学するのだけどそれまでの数日を清水で過ごしている。それは高山樗牛(龍華寺:清水区村松)の墓参りに訪れていると思われる。


そこで今回ゴム長隊長を誘ってこの書簡を探りながら清水の古い道を歩きたいと思ったのでした。
新定院から江尻海水浴場までの道のりを古地図を見ながら街歩きをします。

さて、芥川龍之介は何処に宿泊していたのか。寺の何処?
宿泊と言っても旅館でもないので本堂に宿泊していたらしい。

これは新定院の住職にも聞いて確認したのだけど、本尊に向かって右側の床の間が有る辺りで、此処しか考えられないと言っておられる。


隊長の情報によると龍之介は宿泊を清見寺(清水区興津)にしようとしたのだけど満室?で断られ新定院を紹介されたらしいと言う。新定院は清見寺からの別れだから親戚筋ですね。




それから机を西向きの窓の下にうつし本をよむ 窓の外は桑畑 幅の廣い緑色の葉に露が眞珠のやうに光つて其間にうなだれた夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花を蜂が唸りながらふるはせていく

その西向きの窓が現在ではサッシに成って居るが当時は木製であろうことは言うまでもない。
窓の外は全て墓地に成って居るけれど20年くらい前は所々に無花果畑が有り当時の桑畑を想像させる。





不二見橋と云ふのを渡る 欄干の下を碧い水がみがいた硝子板の如く光り乍(なが)ら流れる 半町ほど隔てた港橋の向ふには漁船の檣(ほばしら)が林立して其上に晝(ひる)の月が消えさうに白く浮かんでゐる


富士見橋から見た港橋。
手紙には檣(ほばしら)が橋の向こうに林立しているのだから港橋より上流に船が来ていないと思われる。



町はずれの松原を二三町行くとレンガ工場の低い板葺 美普教会の尖った塔が江尻に近づいた事を知らせる


清水と江尻の境(向こう側が江尻だった)
(清水は巴川と江川の間の地区名だった。のちに向島を吸収し此処まで浸食して来た。その後江尻を吸収し興津、草薙を侵食したところで静岡に食われる。清水区となった清水は由比、蒲原も食い尽くし生き延びている。)

此処は清水では珈琲が美味しいと評判の「トップハット」の角で、古地図でもはっきりと線が引かれており、龍之介が歩いた松原通りがこの道である事が分かる。

松は何処に行ったの?誰かが隊長に質問した。
先の戦争で燃料にするために全て切り倒されたと言う。

旧清水市役所庁舎(写真右奥)の北側にレンガ工場が有りその南西(現在セブンイレブン)辺りに羽衣牧場が有り道を挟んで東側に江尻美普教会が有ったらしい。






ここが「桜ヶ丘病院」に成るなら名前もそのまま「桜ヶ丘病院」にして欲しいなどと軽口を叩いて通り過ぎる。
しみずっ子はみなと祭りが待遠しい。







輕便鐡道の線路を一つ横切ると江尻で魚屋の壁にはられたすヽびた江戸役者の似顔繪も宿驛らしいなつかしさを感ぜしめる

軽便鉄道の軌道跡地。新世界には、常に清水の最先端だったりする。




地図上赤丸が写真撮影場所を示す。



開港十周年を祝う祝賀式は、昭和42年(1967)8月4日軽便清水波止場前で開催。
清水町では芸者の手踊り、町民の仮装行列、ちょうちん行列、花火などのほか、各町が趣向をこらした屋台を繰り出しました。8月4日が”港まつり”となったのはこれから。(浜田今昔志より)

この提灯を見ると落ち着かなくなるのは、清水っ子に成って来た証拠でしょうか。

追記:今年は「第70回清水みなと祭り」と実行委員会が言っているので昭和22年(1947)がらやって居る事に成る。諸説あるようです。(笑)8/7
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