私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

町歩き

2010-09-20 05:26:20 | 手当たり史跡
9/19清水ふるさと塾の主活動、ガイドウォークが行われた。
スタートは、毎回「あ!朝市」が行われているドリームプラザの駐車場からで、出発時間が近くなると参加者が集まり20人程度になった。

詳しい事は、清水ふるさと塾で。

毎回思うのだけど、朝市に集まってもこれから歩くと思うと、朝市の産物を買う訳には行かない。朝市も楽しんでその後のウォーキングも楽しめる方法は無いだろうか。
例えば、コインロッカーが近くにあるとか。



今回のウォーキングで壮士の墓に行くのだけど、その隣の資料館を見せてもらう為に
隊長が奔走した。彼の熱意が資料館を管理している地元自治会長を動かし、拝観出来る事になったのだ。

資料館の中の写真、清水次郎長一家。
隊長によると「28人衆と有るものは大体嘘で、追分三五郎(次郎長の右となり、次郎長は前列左から三番目)は、実在しない人物だから写真に映るはずがない」と言う。

では、次郎長の葬儀を仕切った当目の岩吉はと言うと全く違う人物を指すのだった。
これは、早いうちに正しておかないと、間違った情報が後世に残りそうだ。

「人間清水次郎長 戸田書店刊」によるとこの写真は荒神山の喧嘩手打式と有り、
写真の人物名も書き込まれていた。
荒神山の喧嘩は慶応2年4月8日に始まったらしい。

奇しくも、大河の坂本龍馬はお龍と、日当山温泉に宿泊。慶応2年4月8日(西暦1866.5.22)
今は何でも、龍馬伝にくっ付けたがる。



清水区村松。鉄舟寺内の芝野栄七胸像前。
日曜日だと言うのに、植木屋が作業をしていて歩き難い。
どうして今日なのか、寺の責任の無さにがっかりする。



知らない間に「山岡鉄舟像」が出来ていた。
鉄舟の墓の周りが綺麗に成っていてびっくりした。
地元の観光地も、時々行って見ないと、オイテケボリになりそうだ。

追記:反省会を「かっぱ」で開き、これからの「清水ふるさと塾」の方向性と次回のガイドうォークの計画を立案しながら、介護の話に成る。
「清水ふるさと塾」って何をする団体なんだろうかと、もう一度再考して見る。
隊長のガイドを聞きながら町歩きをするのだけど、それは最後の結果で、自分の知りたい又は知らなかった所を肉眼で見る。此処が大事なんだ。
そして、それを自分でやり始める。「清水ふるさと塾」はそのトリガーにすぎないと思う。

今回、不二見小学校の正門から東に進む狭い道が、大正十二年一月に皇太子(後の昭和天皇)が久能街道を馬車で来て、馬に乗り換えて鉄舟寺に向かった道だったと、初めて知った。
旧久能街道と不二見小学校までの約150mが現存していて、そう、歩道橋があるあそこの道です。でも、不二見小学校から鉄舟寺までは全く残っていない。残念ではあるけれど、人が住むには仕方のない事だったかもしれない。

反省会の帰り隊長と巴町辺りを歩いていた時に、「昔この辺にコマ屋がありましたね」と振ってみる。
「あった。あった。小野田産業の辺りでベアリングを買って「ぼく」(コマの木の所)を入れてもらう店があった。ベアリングによってコマの大きさも様々あって…」
みんなでコマ回しをする時に、友達のコマの上に自分のコマをぶつけて相手のコマに傷を付けるのだった。それを「ボク(↓↑発音)を入れ」ると言っていた。

それを思い出した時に、二人は子供の顔で笑った。
そんな町歩きも、楽しいと思うんだけど、楽しい事をやりたいですね。
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