私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

街歩き

2018-02-18 15:18:15 | 手当たり史跡
清水郷土史研究会のフィールドワークで清水御殿の広さを実地検証すると聞き会員でもないのにこっそり参加する事にした。
正しくは、中田氏に誘われた。

清水御殿とは家康の休養所にするために子供の頼宜が1609年(慶長14年)に建築されたと言い、実際には駿河の海を警備するためだったと考えられている。

渡された資料の「なをりその記(中巻)」のコピーを見ると「御殿跡」と記載され四角で囲われ廻りは御堀跡と記載されている。
解説の中田氏がいい加減な地図の様で意外と正確だったりすると言う。

それは「牛道」と書かれた道と御殿を挟むように上から下に続く道が現存するからでその道を辿りつつ当時の風景(田んぼ又は沼地)を想像して楽しむのだ。




(写真:この道路は御殿跡地を突っ切っている)

清水聖母保育園と隣のカトリック清水教会(写真左手)に石積みが有るのでその辺りと思われがちだけど実際にはこの道路の半分ぐらいまで(又は道路全部)は御殿敷地が有ったと考えれれるそうだ。

そして、この場所は蓮池が有り写真背中には江川が流れていた事に成る。

元々御殿跡地には実相寺が建っており、御殿を建てる為に現在の場所に移転したそうだ。

この道路(水神さんがら記念塔まで:今を騒がせる桜が丘病院当たり)を作る為清水御殿の敷地を切り通し道路整備をしたそうで、どんな経緯で御殿跡に教会が建ったのか郷土史研究の方も分からないと言っており、寺だったら何と無く分かるんだけどと呟いていた。



(写真は現在の牛道)
左側は岡八幡神社で右側が清水御殿跡に成ります。
牛道は急な崖のような道だったので牛が歩きやすい様に緩やかな坂道に削ったそうで、道幅が広い所が工事個所。
よく見ると写真奥の方は道幅が狭い。

言われてから道を見返してみるとちょっと面白い。

郷土史会の興味の一つに清水御殿の石積みの石は何処に行ったのだろうかって事が有るらしい。






聞き耳を立てていると清水御殿跡地に住宅を建てて住んでいる方の庭先の此の石。
ひょっとしたら、そうかも。と歴史浪漫の花が咲く。






八幡神社から南下。
月見里(月見里と書いてやまなしと読む)笠森 稲荷神社。
この境内を囲み石積みがもしかしたら、清水御殿の石積みじゃないかと思っている方が有るのだけど、こんなに小さいはずがないととバッサリ切られ終了。

でも、元は実相寺だから、その石だったとしてもおかしくは無いと思うのだけど、根拠は無し。

歴史は過去に作られたようで、案外現在作り直されているのかも知れないと思ったら右の頬が引き上がった。
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3 コメント

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郷土史 (まるサ)
2018-02-20 22:30:29
お。
ワタクシメも地元の「郷土史研究会」に入っています。
もぅ≒12年になります。
縄文時代だの、石器時代だの、は今ひとつリアリティに欠けるけれど、
「ここは以前川だった」とか「往来の激しかった街道だった」
などの話は大っ!好きです。

関係ないけれど、
三保半島の付け根(三分岐の交差点の近く)にあるコンビニが
今月末の午前9時で閉店してしまうそぅです。

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清水の城 (なべ)
2018-02-21 14:51:06
清水には武田信玄が築いた江尻城が有ったけど家康はそれを壊して清水御殿を建築している。
他にも巴川に袋城という城(出城の様な物)が有ったとされるのだが、これは規模も場所も全く分からない。ただ古い字名を辿って「袋町」がそうじゃ無いかと言っておられ、歴史へのロマンは増すばかりです。
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あの石垣! (中子)
2018-03-01 22:44:56
 清水カトリック教会の石垣は、御殿のなごりなんですね。教会なのに、なんか違和感?と思ってました。
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