私のなべ四器(規矩準縄)

今、自分の周りで起きていること。ご近所のトマソンもそんなに、気にしてない。深めにかぶった帽子で、年内不定休営業中。

読み聞かせ

2010-08-10 11:43:15 | ご飯ですね
8/8(日)家人が趣味で活動している読み聞かせの会の関連グループによる「おとなのためのおはなし会」に行って見た。
閑古鳥が鳴くようでは寂しいかと思って賑やかしのつもりで行ったのだけど、会場では立ち見が出るほどの盛況でそれはそれで良かったと思っている。
会場で会った友人は、5時からの懇親会が目的でしょうと言い、眼鏡の奥の目がニヤリと笑った。

大人と子供に対する話し方は全く違うそうで、大きな意味の約束事がある事を知った。

鬼を飲み込んだ人間の口はどれ程の大きさだろうかなどと考えちゃうと話じゃ無くなってしまうと言われたが、そんな事が気になって仕方がない。鬼も飲み込んでしまうなんて最早人ではないと思うのだが、自分の思いと違う結末に納得しない。
宝物を持ち帰った主人公は泥棒にならないのかなどと、話以外の所が気になると、物語が成り立たた無くなってしまうのだ。

ところが子供はそんな大きな口の人間も、宝物奪取も素直に受け入れられるそうだ。
それらをすべて呑み込まないと、語り継ぐ話が楽しめないのだった。

朗読と演劇とは全く違って、表現をやり過ぎてしまうと聞き手が疲れて、飽きてしまうそうだ。朗読は、感情を入れない方が良いと聞いた事があった。

ふと、お話会の話を聞きながら、象の話を思い出していた。

92歳になる「秋山ちえ子」さんは、戦争中に餓死させられた上野の動物園のゾウの話「かわいそうなぞう 」の朗読を続けていて、今年もラジオで聞いた。話を伝えるだけなら録音でも充分なんだけど、戦争の悲惨さを伝えるために毎回生放送で伝えているのだった。
その、淡々と語られる話が、より一層悲しくなり語りかける事ってこう言う事かも知れないと思った。

特別声色を変える事も無く物語が進み、やがて象が死ぬ。それが余りにも哀れで悲しい話だった。伝えるってこんな事なのかなあと思う。

語りには、聞き手側の想像力が欠かせない。
映画にもなった「あらしの夜に」が語りの絵本で紹介された。暗闇で出会ったオオカミとヤギが再会する事を約束して顔を見ないまま別れる。映画ではその続きもちゃんとあるのだが、絵本ではそこで終わっている。そこから先は聞き手側の想像に任されているのだ。ヤギが食べられちゃうのかも知れないし、友情は保たれ友人で居られるのかもしれない。

自分好みの結末が待っている。
私的にはヤギはオオカミに食べられちゃいますけどね。



岩牡蛎を食らう。美味い。いつ頃から牡蠣が美味いと思う様になったのだろうが。
「R」が無い月でも、生牡蠣を食べている。
月曜日の朝は、声が枯れていた。
コメント
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