森首相の神の国発言の頃、森首相の悪口を聞かない日はなかった。森首相は首相の資質に欠けるというのがもっぱらであった。その辺のおばちゃん連中がいうのである。どういう人物が首相の器かどうかは自分たち庶民には判断できないと考える人がいても可笑しくないと思うのであるが。そういう古風な謙虚さはなくなってしまった。森首相は天皇を神と思っているから馬鹿でとても首相にふさわしくないというのである。彼女たちの理解は「戦前は天皇は神であったが天皇の人間宣言で人間になった」というGHQの見解と全く同じである。歴史の理解が全く平面的である。確かに教育勅語奉読など形として行き過ぎであるが神として遇していたことと天皇が神であることとは違う。戦前の日本人は天皇が人間であることを知っていた。日本で言う神とはもっとも偉い人という意味で人間であることは自明でわざわざ人間宣言する必要はなかった。宣言することになったのは神と思っているというGHQの誤解がさせたものだ。
天皇は国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基づくというのは翻訳調である点および国民の総意に基づくとわざわざ明記している点を除き扱いとしては間違っていないと思う。
天皇は神である。それは柿本人麻呂、松尾芭蕉、東郷平八郎、長嶋茂雄が神であるように。彼らを敬う人がいて彼らは神になるのである。天皇が神かどうかは我々が天皇を神として敬うかどうかにかかってかかっている。押しなべて人の独自性を認めずすべて人は平等であるという風潮の中で、天皇を平民としようとする圧力は強い。しかしながら私は天皇はすめら尊として千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで統治されんことを願う。
これは科学技術と近代の無味乾燥化の流れの中に埋没せず心に神性をもつ民族として日本が永らえるために不可欠である。
源氏物語の冒頭は「いずれのおおんときにや(どの天皇の御代であったろうか)」ではじまる。米国では80年代、とか60年代と表現するが日本は昭和前期、明治末期と或いは大正デモクラシーと天皇の名前で時代を区分する。キリスト生誕に起因する西暦で時代を区分するよりはるかに日本的で優雅である。
天皇は国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基づくというのは翻訳調である点および国民の総意に基づくとわざわざ明記している点を除き扱いとしては間違っていないと思う。
天皇は神である。それは柿本人麻呂、松尾芭蕉、東郷平八郎、長嶋茂雄が神であるように。彼らを敬う人がいて彼らは神になるのである。天皇が神かどうかは我々が天皇を神として敬うかどうかにかかってかかっている。押しなべて人の独自性を認めずすべて人は平等であるという風潮の中で、天皇を平民としようとする圧力は強い。しかしながら私は天皇はすめら尊として千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで統治されんことを願う。
これは科学技術と近代の無味乾燥化の流れの中に埋没せず心に神性をもつ民族として日本が永らえるために不可欠である。
源氏物語の冒頭は「いずれのおおんときにや(どの天皇の御代であったろうか)」ではじまる。米国では80年代、とか60年代と表現するが日本は昭和前期、明治末期と或いは大正デモクラシーと天皇の名前で時代を区分する。キリスト生誕に起因する西暦で時代を区分するよりはるかに日本的で優雅である。