「南セントレア市」がマスコミをひとしきり賑わしてからほぼ一ヶ月、新しい名前の市が誕生するかと思いきや合併そのものが流れてしまったという。新しい名前が気に入らない人の最大公約数的な意見は日本の町らしくない。恥ずかしいというものであった。正常な感覚であるがカタカナ語が溢れている時代になぜこのように拒否反応が強かったのかと考えてみるに自分の町の名前としてはいやだということであろうか。自分の町の名でなければ一向に構わないのかも知れない。これと似た話であるが昔私が定宿にしていた東京青山会館がある日突然「フロラシオン青山」と変わった。私はこのフランス風?の名前に腹がたってその日以来私は東京青山会館には宿泊していない。カタカナ語の氾濫はこれだけではない。マンションの名前にはわけのわからない名前が氾濫している。殆どの人が恥ずかしがらずに住んでいるのは何故であろうか。フィッシングやらピッキングなどの犯罪があるらしいが何をさすのか不明である。説明してもらっても良くわからない。この二つの単語の意味が正確にわかる人はほとんどいないであろう。こういう怪しげな単語を使えば伝えたいことが十分伝わらないであろう。日本は文化国家といいながら日本語を全く大事にしていない。というより虐待しているという表現がぴったりである。全くのニセ文化国家である。美浜町と南知多町の合併協議会の全会一致でこの名前が決まったことの恐ろしさを思わずにはいられない。合併協議会の中には日本人はただの一人もいなかったということだ。日本の伝統と感性から切り離され、ふわふわと浮遊し、「南セントレア市」をいい名前と思ってしまう。
つい先日私が住んでる町で営業を開始した商業施設の名前が「ドルフィンポート」である。さらにこのあたりを「ウォーターフロント」といい、「フィッシャーマンズワーフ」というものもある。すべて英語である、英語のものまねである。これらの単語に相当する日本語があるのに日本語を使わないで英語を使うのである。貿易では国産品を使うのは常識である。舶来品ばかり使っているとすぐに国際収支が赤になり経済的な困難に陥る。言葉も同じではなかろうか。舶来の言葉を使っているうちに大変なことになってしまう。自分の発言の意味をわかっていないものを我々は馬鹿と呼んでいるがカタカナ語ばかり使っていると日本人全体が馬鹿になることは間違いない。自分が何者かがわからなくなり、何を言っているのか、何をしようとしているかもわからなくなり、最終的には誰からも注目されない、無意味な存在になるであろう。
つい先日私が住んでる町で営業を開始した商業施設の名前が「ドルフィンポート」である。さらにこのあたりを「ウォーターフロント」といい、「フィッシャーマンズワーフ」というものもある。すべて英語である、英語のものまねである。これらの単語に相当する日本語があるのに日本語を使わないで英語を使うのである。貿易では国産品を使うのは常識である。舶来品ばかり使っているとすぐに国際収支が赤になり経済的な困難に陥る。言葉も同じではなかろうか。舶来の言葉を使っているうちに大変なことになってしまう。自分の発言の意味をわかっていないものを我々は馬鹿と呼んでいるがカタカナ語ばかり使っていると日本人全体が馬鹿になることは間違いない。自分が何者かがわからなくなり、何を言っているのか、何をしようとしているかもわからなくなり、最終的には誰からも注目されない、無意味な存在になるであろう。