日銀券を増刷して日本国を救う村島定行のBlog

①日本は世界最大の債権国、お金がなければ刷りなさい②英語を多用すると次第に馬鹿になる③靖国参拝は日本人の義務だ。

中国の反日感情は作られたもの

2008年05月31日 | 政治
四川大地震の被災者への救援物資輸送で自衛隊機を派遣する予定であったが見送りになった。新聞によるとネット世論で「反日」が沸騰したためだそうだが反日感情は中国政府によって作られたもので事実に裏付けられたものではない。第二次世界大戦で反日感情が一番強かったのはフィリピンである。フィリピンの日系人は戦後日本人であることを隠して暮らさなければならなかったが中国では日本人の孤児は大事に育てられている。日本人の子は頭がいいとか日本人はいい人たちであったという考えも一部にはあったからである。あれほど強かったフィリピンの反日感情は10年たつと嘘のように消えてしまった。これが反日感情の自然な姿である。憎しみは長く抱き続けることはできないものである。戦後中国の反日感情が新聞で話題になったことはない。日本人は2002年のサッカーアジア杯での中国人の反日感情に驚いたと言うのが真相である。50年以上たって反日感情が燃え盛るなんて作らなければあり得ないことである。若者を中心に反日感情があるというのも作られたものであることを示している。
 例えば南京では大虐殺が行われたと言われているが日本が南京にいた昭和12年から終戦までの2800日のうち戦闘があったのは最初の3日間だけである。その後は道路を作ったり、学校を作ったり、祭りで盛り上がったり、日本人と中国人は仲良く暮らしていたのである。中国の若者たちはこういう事実を全く知らない。意図的に間違った事実を若者に教え込んだ中国政府の責任であるがこういう反日教育に何の異議も唱えなかった日本政府の責任も大きい。
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東宮妃に関する西尾発言は的外れであり、不敬である

2008年05月30日 | 政治
 Will5月号6月号にのった東宮妃に関する西尾幹二氏の発言には驚いた。妃殿下が反日左翼の思想に毒されているのではないかとはっきり明言している点にである。そういう根拠は宮中祭祀にほとんど出席なさらないと言うことだけである。日本語より英語が上等と考えている人間は多いから神道よりキリスト教が上等と考えている人も多いであろう。或いは神道は原始的で遅れているなどと考えている人も多いかもしれない。雅子妃殿下の考えの中に反日でなくとも欧米崇拝、近代主義、効率主義を是とする考えがあるのかもしれない。しかしそれは人の内面に属することでありはっきりと断言するには相当の飛躍が必要だ。仮に西尾氏の危惧が事実として、皇太子が妃殿下に尻にしかれている傾向が見えたとしても天皇制の危機と騒ぎ立てるのは間違いである。一昨年の騒動にみる通り天皇制は万世一系男系でつながっており、東宮妃の氏、素性や思想的な傾向など重要な問題ではないと断言できる。西尾氏は東宮妃の学歴、キャリア、思想面を問題にしているが東宮妃の役割はお世継ぎを作るところにある。もし雅子妃殿下がこれからお世継ぎに恵まれれば、あれこれの批判はきれいになくなってしまうことは疑いない。
 西尾発言は一番大事な東宮妃の役割を誤解している。根拠のないことでいたづらに国民を不安に落としいれたと言う意味で大いなる不敬であろう。天皇制は2000年に近い長い間を試練に耐えて存続しており、そんなに弱い存在ではない。
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鹿児島県弁護士会がイラク戦争反対の集会

2008年05月25日 | 政治
鹿児島県弁護士会は二十四日イラク戦争を題材に憲法九条改正反対の集会を鹿児島県の黎明館で開いた。約三十人が参加し、自衛隊のイラク派遣が憲法九条に何故違反するかを学んだ。航空自衛隊のイラクでの活動を違憲と判断した名古屋高裁の訴訟で原告側証人にたった山田朗教授は「現代日本の軍事力の実態」と題し講演。湾岸戦争以降自衛隊の艦船はトン数で1.5倍になり、遠征能力も増強されたなどとして危険な水準を越えていると指摘。皆さんと一緒に九条をたてに自衛隊の軍事力が低い水準にとどまるように運動をしましょう、そうすることが世界平和のためであり中国のためでもあると訴えた。
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石油高騰の原因は日本のゼロ金利

2008年05月23日 | 経済
石油の値上がりに悲鳴が聞こえてくるが、此の原因が日本のゼロ金利なのである。日本のゼロ金利を二%程度に上げれば世界のインフレは止まり石油の高騰も止まる。悲鳴を上げる日本は馬鹿である。日本が石油高騰の大きな原因を作っているのである。品薄は続くからとか石油機構が増産に否定的だからの理由が挙げられているが日本のゼロ金利が投機資金の温床になっているのである。日本は10年前にゼロ金利にした。そのころから米国、中国、インドの好景気が始まった。ゼロ金利は日本をインフレにすることは失敗した。それは同時に行われた歳出削減と増税のために日本での経済活動はあまり儲からないからである。ゼロ金利で借りやすくなった金は米国、中国、インドに投資され世界的なインフレが始まったのである。
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「石破防衛大臣の国賊行為」について

2008年05月22日 | 政治
月刊 Will の6月号で渡部昇一氏が石破防衛大臣の国賊行為をしかっていた。慰安婦も南京大虐殺も事実として日本人は中国に誤らなければならないと中国人に語っているのである。渡部昇一氏の云うとおりであるが問題は石破防衛大臣だけではない。事実無根の慰安婦の強制連行を認めた河野洋平発言は訂正されていない。売国奴河野洋平は現在でも衆議院議長なのである。安倍前総理は慰安婦の強制連行に反論せずに謝罪をしているのである。さらに南京大虐殺で30万人を殺したということに対して政府は反論したのであろうか。全く反論していないのである。石破大臣の発言は日本国政府の公式見解と矛盾していない。首相と国会議長の発言を放置していて石破防衛大臣だけを責めるのは公平ではなく。
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朝鮮出兵における島津義弘の軍功

2008年05月05日 | 文化
 島津義弘の軍功記というものを読んだ。島津義弘は関が原の戦いにおける敵中突破が有名であるが若い頃から戦いに明け暮れている。いくつもの戦いを勝利し、島津を九州一の大名に育て上げる。有名なのは大友宗麟を敗北させた耳川の戦いである。敗北した大友氏が秀吉に助けを求めたことが切っ掛けになり秀吉の九州征伐では攻められることになった。関が原の時は65歳で中央突破で1500名の薩摩軍は最終的には80名にまで減りながら大坂まで逃げ延び鹿児島まで生還している。その直前朝鮮出兵においても名を上げている。義弘は家久とともに8000人の薩摩兵で四川新城に終結していた。そこへ明国の董一元を総大将とする20万の軍勢が押し寄せてきた。義弘は十分引き付けたあとの鉄砲の一斉射撃でこの大軍を崩壊させ、大勝利をあげた。8000名の薩摩兵で8万の明国の兵を殺したと言われている。薩摩軍の勇猛ぶりは明軍から「鬼石曼子(おにしまず)」と言って恐れられた。
 その後、豊臣秀吉が死に朝鮮の日本軍に帰国命令が出た後、日本軍は釜山に終結したが小西行長の軍が順天城で包囲され、動けなくなった。そのため義弘は薩摩藩の水軍を編成し救援に駆けつけ、包囲軍を打ち破って、小西行長を脱出させた。その際、明軍の副将トウ子龍と朝鮮軍の大将李舜臣を戦死させ、明国と朝鮮の連合軍を敗走させている。総大将陳リンも日本軍に包囲され、危うく難を逃れている。帰国命令が出ていたため、ほとんどの大名が我先に帰国していったが島津義弘だけが殿軍を勤め、全軍の無事の帰国を実現させている。朝鮮出兵というと加藤清正や小西行長が有名であるが島津義弘の戦功は随一である。帰国後五大老からお褒めに預かり、島津家だけが加増(禄高が増えること)されている。島津義弘は単に強いだけでなく、1599年義弘、家久親子の名で高麗の陣における戦没者に対し敵味方の区別なく懇ろな法要を行い、供養塔をたてている。これは広く博愛慈悲の心を表すとして海外にまで広く称えられている。茶道に関しては島津義弘は千の利休の高弟であり、産業振興や治山、治水の大家でもあった。
 義弘の働きもあって薩摩の軍勢が強いというのは定評になっていく。薩摩の軍勢はその後もいろんなところで勇猛をはせている。例えば薩英戦争は一般には薩摩藩がイギリスに完敗したと流布されているが薩軍の死者5人に対して英国艦隊は13名の死者をだしている。死者の中には旗艦艦長、及び副長が含まれており、死傷者は68名に上り、被害は甚大であった。英国は鹿児島を占領するために来たが占領できず退却している。英国の軍隊はそれまで殆ど負けることはなかったが薩英戦争は例外で英国の数少ない敗戦と受け止められている。このあと英国は薩摩藩を見直し、幕府を支援したフランスと反対に、薩摩を中心とした討幕派を支援するように変わっていく。英国のこの方針転換は最終的には日英同盟へとつながっていく。
 日露戦争の奉天会戦では鹿児島の部隊が日本軍の中央にいて数的に優位のロシア軍を押しまくり退却させている。海でのバルチック艦隊を撃破したことにも薩摩出身の東郷平八郎などの貢献は非常に大きい。
 こう見てくると400年以上前の島津義弘の数々の軍功は300年以上後の日本の歴史に大きく影響していると考えることが出来る。
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