ユダヤ人のシナゴーグで銃を乱射した男が逮捕。アメリカの話だ。いわゆるヘイトクライムと見られている。よくある事件だが、動機というか背景には、「旧約聖書に由来する嫌悪感」があるのではないか。
旧約聖書は、内容の凄惨さにも関わらず、世界的にポピュラーな書物になっている。今回の事件でも、シナゴーグでは旧約聖書にちなんだ「過ぎ越し」が祝われていたという。それはどんなものだったのか。「出エジプト記」12によると、ファラオがユダヤ人のエジプト脱出を阻もうとしたため、神がユダヤ人の家を過ぎ越して(スルーして)、エジプト人の家の子供だけを殺してまわった、という。この惨劇が、現代に至るまで祝われ続けているのには驚かされる。異民族ならば、目的のために子供を殺してもいいのか。
似たようなエピソードはいくらでもある。ユダヤ人は、約束の地カナンに向かう途中、ミディアン人を虐殺した(「民数記」31)。カナンを征服する時も、先住民を女子供も含めて皆殺しにした(「ヨシュア記」6)。時代が下って、サウル王に率いられたユダヤ軍は、アマレク人を文字通り滅ぼした(「サムエル記上」15)。これらのエピソードは、ナチスのプロトタイプかと思われるほど民族至上主義的で、残虐だ。・・・いや、実際、プロトタイプなのかもしれない。ドイツでルターが宗教改革を行い、旧約聖書を再評価したのだから。どのエピソードも、ドイツ人にとっては馴染み深いものだ。
このような記述を含む旧約聖書は、ユダヤ人の中だけで読み継がれていればよかった。その方が、ユダヤ人の評判のためにもなる。だが、ルターの宗教改革が、旧約聖書の運命を変えた。宗教改革とは、カトリックが積み重ねてきた解釈論をリセットして聖書の原点に戻ろうという、原理主義の運動だ。聖書の中でイエス・キリストは何をしているのか。しばしば旧約聖書からの引用を行っている。聖書の巻末に一覧表ができるほどだ。私たちも、キリストのように旧約を重んずるべきだ。キリストのまねをすれば、キリストのように死んでから復活できる。だが・・・。
キリストが旧約からの引用を行ったのは、あくまでも自分の教えを広めるための「方便」として、だ。ユダヤ人に対する布教には、旧約の権威を利用するのが有効だと彼は考えた。キリストは旧約から引用しているように見せかけて、実は、まったく新しい自分の教えを展開している。たとえば、「ヨハネによる福音書」10、34と「詩篇」82、6を読み比べてみるといい。キリストが、旧約を単なる「素材」としてしか見ていないことがわかる。
ちなみにパウロは、「律法の呪い」という表現まで使って、モーセ登場以降の旧約聖書を貶している(「ガラテヤの信徒への手紙」3、13)。
だが、ルター及び彼以降のプロテスタントは、この点を見落として旧約聖書を尊重するようになった。旧約は、あくまでもイスラエル(ヤコブの子孫、いわゆるユダヤ人)に条件つきで現世での繁栄を約束する、という内容の書物で、ゲルマン人やケルト人、インド人、中国人・・・等大部分の人類には何のありがたみもないものだ。そもそもユダヤ人とは血縁がない。それなのに、教会は信者を無理やり旧約と関係づけようとする。信者は、ユダヤ人と親戚であるかのような扱いを受ける。ルターは、「創世記」10に出てくるアシュケナズがドイツ人の祖先だと主張している(上山安敏「魔女とキリスト教」)。
大部分のプロテスタントは、この扱いに満足している。アメリカとイスラエルの非合理的なくらい強固な同盟関係が、何よりの証拠だ。だが、そうでない人たちもいて、彼らがヘイトクライムを起こす。旧約聖書に数々の悪行が記述されているユダヤ人と関係づけられるのが、たまらなく不快なのだ。
神を裏切ったアダムとエバの行為は、「人類の原罪」と呼ばれている。だが、彼らはただ「木の実」を食べただけなのだ。これに比べれば、「ユダヤ人の原罪」の方がはるかに重いのではないか。
モーセやイエス・キリストと違って、ルターは「新しい神の教え」を語ることができなかった。聖書に新たなページを加えることができず、ただ前のページに戻っただけだ。彼の時代には、既にキリスト教の命運は尽きていたのだ。