富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「天国に市民権を持つ者」 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

2019-10-18 20:54:22 | キリスト教

                     ↑「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」ヘブライ人への手紙12章2節

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     日本福音教団 富 谷 教 会   週 報

     聖霊降臨節第20主日  2019年10月20日    午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                        礼 拝 順 序

                                                司会 千田 開作兄

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編   78(わたしの民よ、わたしの教えを聞き)                    

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヘブライ人への手紙11章32~12章2節(p.416)

説  教  「天国に市民権を持つ者」   辺見宗邦牧師

祈 祷                  

聖餐式    81(主の食卓を囲み)

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                              次週礼拝 10月27日(日)  午後5時~5時50分 

                               聖 書 創世記1章1~5、24~31節

                               説教題   「創造」

                               讃美歌(21) 6 223 交読詩編 104

       本日の聖書 ヘブライ人への手紙11章32~12章2節

 11:32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。 33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。 12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

                            本日の説教

  ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る見方が有力です。 

著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。

ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

11章1節以下は、信仰生活を全うした旧約聖書の人物を列記して、その模範に倣うように勧めます。挙げられているのは、①アベル:神の喜ぶささげものをしました(アダムとエバの子、創世記4:4)。②エノク:自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました(創5:21)。③ノア:神に従う正しい人で箱舟を作り救われました(創6:13)。④アブラハム:永遠の神の都を待ち望みました(創12:1)。⑤サラ:アブラハムの妻、諸国民の母とされました(創17:16)。⑥イサク:アブラハムの息子、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)。⑦ヤコブ:旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました(創28:10)。⑧ヨセフ:ヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました(創41:41)。⑨モーセ:この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました(出エジプト記2:2)。

11章30~31節では、イスラエルのカナン征服における最初のエリコの陥落は、城壁の周りを信仰によって七日間回った後に崩れ落ちたこと、⑩遊女ラハブ:異邦人でありながらも、命懸けで神の側につき、偵察者を迎え入れました(ヨシュア2:1)。

 そして、32節からは、さらに士師、預言者たちの名を列記し、彼らの信仰のことが述べらます。⑪ギデオン:石橋を叩いて渡るような小心者が戦いの戦士として尊く用いられました(士師記6:11)。⑫バラク:女預言者デボラと共に戦った士師(士4:6)。⑬サムソン:怪力の士師(士13:24)。⑭エフタ:娘を主に捧げた士師(士11:30)。⑮ダビデ:少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒したイスラエル統一王国の神と国民に愛された王(サムエル記上17:46)。⑯サムエル:主の預言者として、イスラエルの人々に信頼された(サム上3:20)等、16人の個人名が挙げられています。

また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指しなす。33節の<信仰によって、この人たちは国々を征服し>た人々とは、ヨシュアやダビデのような人を思い起させます。<正義を行い>は、イスラエルを治めることを意味し、ダビデやソロモンのような王のことでしょう、<獅子の口をふさぎ>とは、ダビデ(サムエル記上17・34以下)とダニエル(ダニエル書6・22)の例を指しています。

34節の<燃え盛る火を消し>とは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの出来事(ダニエル書3.25)を指しています。<剣の刃を逃れ>は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャのいずれの場合にも当てはまる経験です。

<弱かったのに強い者とされ>というのは、盲目にされたサムソンが最後の力を得て復讐したことを指します(士師記15・19、16・28)。<戦いの勇者となり>は、ゴリアトと戦ったダビデ(サムエル記上17章)を思わせます。

<敵軍を敗走させました>は、ヒゼキヤが信仰によって、セナケリブとその軍隊を敗退させた(列王記下19・20~37)ことを指しているようです。

35節の<女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました>は、エリヤにその子の命を生き返らせてもらったサレプタのやもめ(列王上17・22)や、エリシャに子生き返らせてもらったシュネムの女(列王下4・34)のことと関連しています。<他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために>は、預言者たちによって生き返った者たちも結局は死に至らざるを得なかったのに対して、<拷問にかけられ>た信仰の英雄たちは、死そのものの克服としての復活を確信して忍耐したことが強調されています。

36節の<他の人たちはあざけられ>とは、預言者ミカヤ(列王上22・24)や、エレミヤ(エレミヤ記20・2)たちの屈辱的な経験を、<鞭打たれ>とは、苦難の僕の預言(イザヤ書50・6)を暗示します。<鎖につながれ、投獄される>は預言者エレミヤの運命を思わせます。

37節の<石で打ち殺され>たのは、祭司ヨヤダの子ゼカルヤであり(歴代誌下24・20以下)、ある黙示文学(「イザヤの昇天」)によればイザヤは木製の<のこぎりで引かれ>ました。<剣で切り殺され>たのは、エリヤの時代のイスラエルの預言者たちであり(列王記上19・10)、預言者ウリヤ(エレミヤ記26・23)でした。<羊の皮や山羊の皮を着て放浪し>たのは、エリヤ、エリシャにあてはまります(列王記上18~19章)。

38節の<世は彼らにふさわしくなかったのです>というのは、彼らは天国にふさわしい人々であって、世間の人々は彼らをそねみ憎みました。この世は神の国の民の永久の住居に値いしないのです。

39節、40節は、11章全体の結論を述べています。<約束されたもの>とは、神がご自身を信じる人々に約束された最後的な救いであって、キリストの到来によって初めて明らかに示されました。40節の<更にまさったもの>とはキリストによってしめされた新しい約束、すなわち神の国です。神は、わたしたちのために、更にまさった神の国を計画してくださったので、わたしたちを除いては、旧約時代の信仰の英雄たちは、<完全な状態>に達しなかった、すなわち全き祝福にあずかることができなかったのです。ここには、旧約の信仰者も新約の信仰者も、忍耐と希望を持ち続け、信仰生活のたたかいに耐え、共に全き祝福にあずかる日を待とうではないか、という勧告です。

12章の1節の<こういうわけで>とは、11章で信仰生活の模範を述べたが、再び次の勧告にうつるためのつなぎの言葉です。11章で挙げられた信仰の偉人たちは、すべて新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々であり、何よりも神の真実を証言した人々でした。

<このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて先輩の信者たちを指しています。旧約の信仰の証人たちのことが示された以上、これを模範としてキリスト者も信仰の馳せ場を走ることが求められています。そこでまず身を軽くするために、<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>なければなりません。<自分に定められている競走>という言い方は、信仰生活を徒競走にたとえたものです。<忍耐強く走り抜こうではありませんか>とあるように、この競争は途中で止めてはならないのであって、最後まで、つまりこの地上の生を終える時まで走り続けることが求められているのです。

2節では、これまで旧約時代の多くの信仰の英雄の実例を挙げることのよって読者を励ましたが、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。<信仰の創始者>という語は、「先導者」という意味があります。この語が<完成者>と対をなしつつイエスの業を説明しています。

イエスにおいて、わたしたちの信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。このようなイエスをひたすら見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。このイエスのみに注目することが大事なのです。

イエスが、<御自身の前にある喜びを捨て>とは、天にある喜びであり、この世に来られ前に経験され、地上において放棄されたが、将来再び与えられるはずの祝福を指しています。それがイエスをして<恥をもいとわないで十字架の死をない地上の歩み、死よりの復活と昇天、そして全能の父なる神の右に座られたことが、イエスを信じる信仰者の励ましの根拠なのです。

わたしたちが<なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上ヘ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです>(コロサイ3・13、14)。

 信仰の競争は、おびただしい証人の群れかなる観衆に囲まれ、見守られ、声援を送られての競争です。信仰の競争には、絡みつく罪や重荷をイエス様に取り去っていただき、かなぐり捨てて、走らなければなりません。途中で苦しくなって脱落しないように、大切なことは、自分を見ないで、<信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもあるイエス>に目を注ぎながら走ることです。わたしの中に信仰を始めて下さった方は、また完成してくださる主イエスなのです。イエス様は、わたしと一緒になって走ってくださる方でもあるのです。なんと力強い助け手、導き手ではないでしょうか。

 

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