富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「隣人愛について」 ヤコブの手紙2章8~13節

2017-09-23 23:45:59 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

      聖霊降臨節第17主日  2017年9月24日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  13(みつかいとともに)

交読詩編   15(主よ、どのような人が)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) ヤコブの手紙2章8~13節(p.423)

説  教    「隣人愛について」  辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌   449(千歳の岩よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                次週礼拝 10月1日(日)  午後5時~5時50分

                                  聖書  エフェソの信徒への手紙5章1~5節

                                  説教   「新しい戒め」

                                  讃美歌(21)4 522 24 交読詩編121篇 

    本日の聖書  ヤコブ書2章8~13節

 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

   本日の説教

   ヤコブの手紙はパウロの主張した信仰によって義とされるという教えが誤解され、行為が軽視され始めた頃にこれを批判するために書かれたと思われます。したがって時代的にパウロ以後ものであることは明らかで、おそらく一世紀末か二世紀初めに執筆されたと推定できます。執筆場所については、著者がはっきりしていないので不明です。

   著者については、1章1節の挨拶で、著者は自分のことを<神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ>と記しています。新約聖書にはヤコブと呼ばれている人物は6人もいますが、このうち最も蓋然性が高いのは、初代教会でよく知られた権威者であった、主の兄弟ヤコブ(マルコ6・3、使徒行伝12・17)です。しかし、誤ったパウロ主義に対する批判が本書に見られるので、当然パウロ以後の著作と考えるべきであり、そうんると年代的に主の兄弟ヤコブでは無理が生じます。

   以上のような理由から本書の著者は不明であり、権威的な指導者であった主の兄弟ヤコブの名を借りたユダヤ人キリスト者の勧告の文書です。

   宛先は<離散している十二部族の人たち>と記されていますが、<十二部族>という伝統的な呼称を用いてキリスト者一般に送られたものと考えられています。

   ヤコブ書では、<行い>が強調されています。<行いのない信仰は人を救うことができない>(2・14)という主張がなされています。アブラハムがその証人であることなどを大胆に証言しています(2・21-24)。<人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません>(2:24)というヤコブの主張は、<人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる>(ガラテヤ書2・16)と述べるパウロに反対しているように見えます。

  パウロは、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3・28)と教えています。<なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロー3・20、ガラテヤ2・16)とあります。パウロは、次のようにも語っています。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4・7)神は、<信心深い者>、すなわち、神の前に立派な行いをしていると自負している者ではなく、<不信心な者>、すなわち、自分の行いなど不完全で、神に喜ばれる生活などできない、と思っている者を、義としてくださり、受け入れてくださり、愛してくださると信じる人を、義として救ってくださるのです。

   ヤコブ書を書いた著者は、パウロのこの教えに反対しているのではありません。救われた者の生活を問題にしているのです。パウロの教えを誤解した人たちが、救われた者にふさわしい生活をしないで、信仰者としての生活を軽視し、聖くない生活をしながら、自らをキリスト者として誇っていたので、ヤコブはそれを戒めるために、信仰者としてふさわしい行いをするように教えたのです。つまり、ヤコブ書は誤ったパウロ主義と戦っているのです。

   ヤコブ書では、貧しさと富についての議論があります。1・9-11、2・1-13、5・1-6にこの問題が展開されています。それは決して単なる道徳的な問題としてではなく、信仰の問題として、福音の立場から論じられています。著者は、貧しい者の喜びは<高くされたこと>、神との交わりによって高くされたから、と理解し(1・9)、富む者の喜びは、<低くされたこと>、謙遜によって神との交わりに入ることができるから、としてとらえています(1・10)。

   2章5節では、著者は、貧しい者を神の<選び>を受けた者、また<御国の相続者>と見ています。富む者はむしろ信者を<しいたげ>、<裁判所にひきずり込む者>、<尊い御名―キリストの名―を汚す者>(2章6,7節)と見ています。ただしこの批評は、貧者は信仰ある者、富者は無信仰の者とする当時のユダヤ的な貧富観にもとづいています。

   2・1-4で富んでいる人と貧しい人に対する扱いに差別があってはならないことを主張した後、直ちに5-13節においてこれを神の選びに基づく律法の問題として展開し、特に8節におおて<隣人を自分のように愛しなさい>という福音書の戒めと関連させて論じています。5・1-6において社会の支配階級に対する警告を述べている場合でも、それを単に社会的道徳としてではなく、これを福音の立場から論じています。

   ヤコブ書2章1節~3章18節は信仰と行為についての問題を扱っています。最初の2章1節から13節までは、「人を分け隔てしてはならない」という主題でまとめられている箇所では、まずキリスト者の集まりで起こったことを仮定した新来者に対する差別の例が示されます。著者はこれをあくまでも仮定のこととして描いているが、恐らく彼の見聞きした実例に基づいているか、少なくとも実際に起こりかねないものと考えていたに違いありません。

   著者は福音の指し示しているところによって、教会では貧しい者の立場が十分に重んぜられるべきであると考えています。真の信仰は社会的差別を全く認めません。それゆえ、もし教会がこのような差別的態度をとったとしたならば、それは大きな過ちであり、キリスト者を迫害する富める者の側に立つことになるのです。

  <人を分け隔て>することは、えこひいきをすることです。神はえこひいきをなさらない(申命記10・17)のであるから、キリスト者もまた他者に対してそうであらねばなりません。

 「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」(8節)

   8節には隣人愛の戒めが引用されています。この句はレビ記19・18によるもので、新約聖書ではマタイ22・39、ローマ13・9などに引用されています。主イエスがこの句を引用されてた時には、その前に申命記6・5の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」の言葉と共に引用されることでこれを福音による律法として新しく生かしておられ、パウロもその線を継承しているのですが、ヤコブの場合にはその面が弱いと言えます。むしろ彼は旧約聖書の忠実な継承者と見ることができます。しかしたとえ不十分であるとはいえ、これを<最も尊い律法>と呼んでいる場合、単なる道徳を越えたものと考えていることは確かです。

 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。」(9節)

 ヤコブは聖書の戒めに対して示している姿勢は純粋なものです。これに従わないことは<罪を犯すこと>であり、その結果<違反者と断定され>るのです。

 「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(10節)

 律法を考える場合、その枝葉末節にこだわり、他者にそれを強要することは律法主義に陥ります。これに対してヤコブは一応<律法全体>に目を向けさせます。しかし同時に、そのことによって個々の律法が疎かにされることを危険視しています。

 マタイ5・19にはイエスの言葉として、<だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる>と言われており、ヤコブの意図もこれに近いと言えます。

 「『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。」(11節)

 11節に引用されている二つの戒めは、十戒の中の第六と第七戒ですが、その順序が逆さになっています。ここで注目させらせるのは、<…と言われた方は、…とも言われました>というように、戒めそのものよりもこれを命じられた主なる神御自身に重点を置かれていることです。律法を神の言葉という点から見ているのです。ヤコブはなぜ十戒の中で、特に姦淫と殺人の禁止を命じている戒めだけを問題とするのでしょうか。この二つの戒めがもっとも隣人愛と関係するからです。ヤコブは「隣人を自分と同じように愛しなさい」という戒めを実行するにあたって、もし「他人を差別する」ようなことがあれば、隣人愛の戒めにも違反したことになることを説いています。

 旧約聖書の外典とされているシラ書(知恵の書)には、「貧しい人の持ち物を盗んで、供え物として献げるのは、父親の目の前でその子を殺して、いけにえとするようなものだ。…日雇い人の賃金を巻き上げる者は、人殺しだ>とあり、ここに隣人を愛さない者は殺人の罪を犯すのと等しい、とする見解があります。これと同様な考えがヤコブにあったのでしょう。また姦淫の罪については、ヤコブが批判をする「富んでいる者」にへつらい、媚を得ることとしてこれがこれが戒められていると思われます。しかしこの二つの戒めの一方だけに違反しても、全体に違反したことになる、と著者は論じています。

 「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」(12節)

 <自由をもたらす律法>とは、キリストによって新しく定められたもので、人々に自由すなわち解放を与えるもの、すなわち福音に他なりません(1・25)。著者は御言を「完全な、自由を与える律法」と見ています。そのような律法を与えられているキリスト者は、これにふさわしく<語り、またふるま>う責任を負っています。<いずれは裁かれる>とは、最後の審判を示しています。しかし13節に記されているように、この審判はただ人々を滅びに陥れるものではありません。

 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(13節)

  <憐れみ>とはキリストの十字架の贖いにおいて示された、罪人に対する憐れみに発するもので、<自由をもたらす律法>にはこれが含まれているのです。それゆえ<人に憐れみをかけない者>とは、人間の自然的な同情とか愛情ではなく、キリストから与えられた憐れみを感謝をもって受けとめつつ、これを他者に分け与えない者を指します。その場合には、憐れみ深い主もその律法によって厳しくこれを裁かれる、と警告しています。

   主イエスは「良きサマリア人のたとえ」を話されました(ルカ10・25~37)。強盗に襲われ半殺しにされたユダヤ人の旅行者を、隣人となって助けたのは、ユダヤ人が蔑視し、差別していたサマリア人の旅人でした。わたしの隣人とは、わたしの身近にいる、わたしの助けを必要としている人たちです。家族も隣人であり、近所の人たちも隣人であり、わたしたちの周囲の人達ばかりでなく、わたしたちの助けやとりなしの祈りを必要としている人たちは、すべて隣人であるとおもわなければなりません。「敵をも愛しなさい」と主は言われました。助けを求めている敵も隣人なのです。わたしたちは、人が困っているのを見ても、他人事として関わらないでしまうことが多いのではないでしょうか。お節介ではなく、隣人に対する心からの愛と配慮が求められます。

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