富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」ヨハネによる福音書8章21~36節

2016-01-24 03:43:31 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

          週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

     降誕節第5主日        2016年1月24日(日) 午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏            奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 287(ナザレの村里) 

交読詩篇    1(いかに幸いなことか)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  ヨハネによる福音書8章21~36節(新p.181)

説  教   「わたしのことばにとどまるならば、わたしの弟子である」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷              

後 奏 

 

                                                               次週礼拝 1月31日(日)午後5時~5時50分

                                                               聖書 ヨハネによる福音書5章1~18節  

                                                               説教  「いやすキリスト」 

                                                              賛美歌(21)290 433 24 交読詩篇 32 

               本日の聖書 ヨハネによる福音書8章21~36節

  21そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

   31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

      本日の説教

  今日の聖書の箇所は、イエスがエルサレム神殿の境内で群衆に教えられている場面です。イエスをメシアと信じる者もいましたが、イエスを殺そうとする者もいました(7・1、7・25、7・30)。

   これは、イエスが仮庵祭の時に、ガリラヤからエルサレム行かれたときの出来事です(7・10)。紀元29年の秋頃と推定されます。イエスの誕生を紀元前4年頃と推定すると、この時イエスはおよそ33歳前後と思われます。この翌年の春、過越祭の時に、イエスは十字架の死を迎えることになります

    8章21節に、<そこで、イエスはまた言われた>とありますが、これは、7章34節で、<わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない>という言葉が、ここでまた繰り返されるからです。イエスがこの言葉を、最初に語ったのは、イエスをメシアと信じることのできない祭司長たちとファリサイ派の人々がイエスを捕らえるために下役たちを遣わしたときでした。下役とはエルサレム神殿の警備員たちです。

   わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(7・21)

   <去って行く>とは、この世から去って、天の父の許へ行くということです。<あなたたちは自分の罪に死ぬことになる>とは、イエスをメシアとして信じないならば、人間の本性に根ざす罪から解放されないあなたがたは、神の裁きとしての死ののろいを受けることになる。あなたたちはわたしが行く父の御許へ行くことはできない。イエスは迫りくる自分の最後について語ったのですが、人々はこの言葉を理解できず、戸惑います。

  このイエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエスが自殺でもするつもりなのだろうかと誤解します。

   イエスは彼らに、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言われました。

   あなたがたは<下のものに属し>とは、地上の肉につける者である、という意味です。わたしは<上のものに属し>とは、イエスが神から遣われた者、神に属した者であり、神と等しい者であり、この世に属した者ではない、という意味です。<わたしはある>とは、神自身がモーセに自分の姿を表すときに語った、出エジプト記3・14の<わたしはあるという者だ>と、同じことばを、イエスはここで使うことによって、イエス御自身が神と等しい者であることを明確にし、イエスをそういう神と等しい者として信じないならば、<あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる>と語ったのです。イエスを拒否し、ひいては神を拒否する者は、世に属する者であり、罪のうちに死ぬことになると、イエスは重ねて教えられたのです。

  このようなイエスの宣言に対してユダヤ人たちは<あなたは、いったい、どなたですか>と問いました。彼らは、子なるイエスと父なる神との関係について語っていることを、どうしても理解することができなかったのです。

   イエスは、「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんあるが、しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われました。

  彼らは、「イエスが御父について話しておられることを」悟ることができませんでした。「父なる神」という信仰は、ユダヤ人すべてが共有していた信仰ですが、イエスが<わたしの父>というように父なる神を私的なものとして語り、自身を神と等しい者としたので、唯一神信仰にたつユダヤ人にとっては、それは到底受け入れ難いことだったのです。

   そこで、イエスは、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」と言われました。

   <人の子を上げたとき>とは、イエスを十字架にかけた後、イエスが天に上げられてから、という意味です。その時になって初めて、イエスは神から遣わされたキリストであって、神と共にあり、神と一つであり、神の御心をなす以外には、何もしないことが分かるだろう、言われました。<わたしをひとりにしておかれない>とは、<わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである>(8・16)ということです。

   これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じ」ました。しかしここでは真実の信仰が成立したとは考えられません。

    8章31節に、「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」とあります。しかし、このユダヤ人たちに対し、イエスは45節で<あなたたちはわたしを信じない>、46節では<なぜわたしを信じないのか>と彼らの不信を責めています。信じたユダヤ人と信じようとしないユダヤ人と同一人物なのです。イエスを信じた彼等の信仰は、まことの信仰ではなく、ただ一時的に感激して同意しただけの信仰だったのです。

   そこで、イエスは、次のように言われました。

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

  キリストの言葉に<とどまる>とは、キリストの言葉がその人のうちに根をおろしていることであり(37節)、キリストの言葉を守ることであり(51節)、生けるキリストとの交わりに結ばれていることです。 <真理を知る>の真理とは、学問によって得られる真理ではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)と言われるイエス・キリスト御自身です。イエスを知り、イエスによってもたらされた神の福音を知り、またイエスにおいて神を知る、ことが救いにつながり、あなたたちを自由にするとイエスは教えたのです

  すると、彼らは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と問いました。

   ユダヤ人が、自分たちはアブラハムの子孫であるという、神の選民としての特権意識は、血縁的、民族的な特権として神から与えられたものではありません。なぜなら、なぜならそれは、アブラハムの信仰を受け継ぐ者に与えられたからです。人は、神から遣わされたイエスを信じることなしに、真にアブラハムの子孫になることはできないのです。

  「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」とイエスは、お答えになりました。

   私たちがその本性において欲する自由は、神をぬきにした、神にさからう自由です。神なきところにほんとうの自由があり、真の人間生活があると思うのです。神に反抗する否定的な意志があります。わたしたちが楽園で神から奪い取ったあの間違った自由に生きようとする罪がわたしたちのうちにあります。

  ここで言われている<自由>は、罪からの自由であることが分かります。すべての人は罪に定められ、肉につける者として、罪の下に売られています(ローマ書7・14)。善をなそうという意志はあっても、それを実行できない、望まない悪を行うという肉の弱さがあります。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。」(ヨハネの手紙一、1・8)罪を犯す者は、だれでも罪の支配化にあり、罪の奴隷なのです。

  罪からの自由>とは、この世において神の像に似せて造られた者として、罪と死、あるいは律法の奴隷となっていた状況から解放されることです。神に罪を赦され、あらゆる不義から清められ、罪と死の支配から解放され、天に属する神の子とされることです。

  ユダヤ人たちがイエスを神あるいは神と等しい者として明確に認め、罪の赦しにあずからなければ、罪の奴隷であると言われます。神の恵みによってアブラハムの子孫とされていても、罪の奴隷であれば、神の民の家から売り渡され、その家から去らねばならない運命にあります。

   <子はいつまでもいる>の子とは、イエス御自身です。主人の子は売り渡されることはないから、その神の家にいつまでもいる、という意味です。子は主人の子であるから主人と同じ権威を行使して奴隷を売ることも、自由にすることもできる自由を委ねられているのです。イエスがわたしたちに自由を与えるのです。イエスの十字架の贖罪と復活による命を与えられることによって、罪の赦しと罪からの自由を得るのです。それゆえ、罪からの自由とは人間に授けられる恵みの賜物であって、人間が自分で獲得できるものではありません。

  わたしたちがイエスの言葉にとどまるならば、わたしたちは本当にイエスの弟子であり、そして罪から自由にされる、主イエスは教えています。

   主イエスの言葉、聖書のことば、にとどまった83歳の姉妹についてお話しいたします。彼女は1月2日の未明に、85歳の夫を主の身許に送りました。寝たっきりになり、10年前から全盲になった夫を自宅で介護し、3年前からは病院に入院した夫のため、毎日食事の介護のため病院に通い続けた姉妹は、次のような御言葉によって心を支えられたと証ししています。

  「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えてくださいます。」

 「わが子よ、主の試練を軽んじてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子おして受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

  彼女は、暗闇の中にも常に光が上から射してきて希望を与えられていたから、心の中にはいつも余裕がありました、と述べています。

 「恐れることはない、私が共に居る」、この御言葉に彼女の心は平安に満たされたと語ります。彼女には「愛の神にわたしたちは支えられて生かされている。」という神への感謝がありました。「死ぬときも天国に導いて下さるイエスさまがおられる」という信頼がありました。彼女は不平不満を言わないことを心に決めていました。「神与え、神取り給う」という神のなさることへの全き信頼が彼女にありました。

  前夜式の挨拶で、彼女は、「病院ではわたしたち二人はのんびり過ごしました、主人は神様からいただいた生命(いのち)を感謝して生ききりました」と、淡々と話されました。

  主イエスの言葉を信じ、その言葉にしがみつき、支えられて生きている彼女は、主イエスの本当の弟子ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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