富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「イエスの十字架上の死」 マルコによる福音書15章25~37節

2014-04-13 21:52:21 | 礼拝説教

                  ↑ ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三か国語で書かれた罪状書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

受難節節第六主日(棕櫚の主日)       2014年4月13日(日)    5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 298(ああ主は誰がため)

交読詩編   22(わたしの神よ、わたしの神よ) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  マルコによる福音書15章25~37節

説 教   イエスの十字架と死」       辺見宗邦牧師

賛美歌(21)311(血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

         次週礼拝 イ―スター礼拝4月20日(日)  午後5時~5時50分

         説教 「キリストの復活」   聖書 マルコによる福音書16章1~8節

本日の聖書 

  25イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 28こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30十字架から降りて自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

 本日の説教 

 イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタ(頭蓋の意味)という所へ向かわれました。柱はすでに刑場に立てられていました。死刑囚は十字架の横木を自分で刑場まで運ばなければなりませんでした。

 イエスを十字架につけたのは、午前九時でした。罪状書には「ユダヤ人の王」と書かれていました。マタイでは、罪状書は、「これはユダヤ人の王イエスである」とあります。

  ヨハネ福音書には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いたあった、それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた、と詳しく記しています。

 キリストの磔刑(たっけい)像には、「INRI」と書かれた札が画がかれているのが普通です。これは、ラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM(イエスース ナザレヌス レクス ユダエオールム)「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の頭文字です。

  イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架につけられました。イザヤ書53:12の「彼は自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ」という旧約聖書の預言の言葉が実現しました。

      

         「INRI」の罪状書

   「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」と通行人がののしった言葉は、マルコ14:58で、イエス様が言った言葉と関係しています。

  イエスは神殿で商売をしている人達を追い払ったとき、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言ったことがあります。イエスが言われた神殿とは、御自分の体のことで、イエスが死者の中から復活されることを言ったのです。ところがイエスを死刑にしようとした祭司たちは、イエスにとって不利な証言を求めました。二人の者が、「この男は神の神殿を打倒し、三日あれば建てることができる、と言いました」と、偽証したのです(マタイ26:61)。このことから、イエスは「神殿を打倒し、三日で建てる者」と途方もないことを言うテロリスト(暴力的破壊行動者)呼ばわりされるようになったのです。

  祭司や律法学者も「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」とイエスを侮辱しました。もし、イエスが奇蹟をもって、十字架から降りたなら、人類を罪から救うという神のみ旨は果たされません。主は、じっと耐え忍ぶほかなかったのです。

  すると、一緒に十字架につけられた犯罪人までが、イエスをののしりました。ルカ福音書では、もう一人の方が、ののしることをたしなめています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願っています。それに対して、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

  ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとき、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えています。ヨハネ福音書によると、罪状書を見たユダヤ人祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王」と書かず。『この男は、ユダヤ人の王と自称した』と書いて下さいと頼んでいます。イエス様自身は、自分が「ユダヤ人の王」とは言っていません。だが、イエスは王以上の王、人類を救う神の子なのです。

 大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋問したときは、「そうです。」と答えています。 

 ピラトは「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしのか」と群衆にたずねると、群衆は「十字架につけろ」と叫び立てました。兵士たちは、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、王のような恰好をさせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、からかい、侮辱し、暴力を加えました。 

  昼の十二時頃になると、全地は暗くなり、それが三時まで続きました。三時にイエスは叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味です。「エロイ、エロイ」は、アラム語の直訳の形で、恐らくこれが伝承の古い形であろう、推測されています。マタイは、そばで聞いたものがこれを預言者エリヤを呼んでいると思ったことに合わせて、ヘブライ語の「エリ、エリ」と記したものと思われています。イエスのこの最後の言葉は、詩編22:2の言葉を用いられたのです。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらにのか。」

  詩編22は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながら、なお神に祈りをささげる悲痛な声です。詩編22篇は、悲痛な叫びから始まり、最後は神への感謝の祈りになています。しかし、イエスの叫びは、絶望のただ中で発した祈りで終わっています。

  「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。」とあります。エリヤは終末において、メシヤに先駆けて現れると期待されていた預言者です。渇いている者を元気づけるために、与えるための水ではなく、「酸いぶどう酒」を差し出したのは、詩編69:21に、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」とあるように、イエスの苦悶を引き延ばそうとする、嘲笑的な試みでした。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」のです。マルコでも、マタイでも主イエスは「酸いぶどう酒」を飲みませんでした。

  イエスの最後の言葉は、何だったのでしょうか。マタイは「イエスは再び大声を出して息を引きとられた」と記しています。「再び」とあるところから、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたものと思われます。

ルカは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(詩編31:6)」とイエスは大声で叫ばれ、息を引き取られたと報告しています。ルカにおけるイエスの叫びは、神への信頼の祈りであり、自らの魂を神の手に委ねるものです。ルカは苦悶の中で果てたのではなく、神の信頼し平穏に死んだとしているのです。

  ヨハネによる福音書では、イエスは「渇く」と言われ、「イエスは、この葡萄酒を受けると、『成し遂げられた』と言って、息を引き取られた、と報告しています。「成し遂げられた」とは、神から託された使命を果たした、ということであり、人類の贖いが完了した、ということです。

  イエスの十字架の死を最も単純な形で伝えているマルコやマタイの方が、よりリアルに(現実に即して)、イエスの十字架の死を伝えています。ルカやヨハネによる福音書の方では、イエスの十字架の死は、旧約聖書で預言されていた、さまざまのことが成就したのだ、ということがイエスの死を伝える中で強調されているのだと思います。

    

                                

               牧師の書斎 イエスの「最後の一週間」No.19 より。

  「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの最後の言葉は絶望の言葉なのでしょうか。この叫びは、人類の罪を背負い、身代わりとなり、神の審きを受けた、絶望の言葉とされています。イエスは、死んで葬られ、陰府(よみ)にまでくだったのです。神と御子キリストとの間を死が引き裂いたのです。

  イエスは、殺された後、三日目には復活するという死と復活を、三度も弟子たちに予告していました。

  ゲッセマネの園での祈りの時は、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、「アッパ、父よ、…この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈りました。「杯」とは、神の怒りの象徴です。その杯を受けるとは、人類の罪を贖うために神の怒りを受けるということです。イエスは十字架への道が、神の聖旨であると信じ、あえて十字架の死を選ばれたのです。どこまでも神に従順に従うことを選んだのです。

  イエスは神に見捨てられたような状況の中で、絶望の叫びをあげながらも、神の救いを信じて、救いを求めて叫びました。この叫びは孤独と絶望を言葉に表わしたのです。神と人とに見捨てられて死ぬイエスの孤独の恐ろしさを、イエスの最後の言葉は表現しているのです。

 イエスは十字架上でこの詩22篇の冒頭の叫びを口にしただけでなく、その詩22篇の全体を祈ったとする注解者がいます。

  その理由は、この詩篇の前半は嘆きで終始しているが、その後半は神をたたえる賛美で貫かれているからです。

  詩編22篇には、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」の後に、つぎのような神への信頼の言葉が続いています。

 「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。(4,5節)     …………

  わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」(20b~21節)

  イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、絶望で始まって、息を引き取っているが、それは神を賛美する言葉を含んでいるのであり、勝利宣言の言葉だと理解したのです。

  しかし、マルコやマタイの報告するイエスの十字架の死の最後の言葉は、詩編22篇全体を祈った賛美の言葉でも、すべてを成し遂げたとする勝利の言葉とも思われません。ルカやヨハネ福音書でさえ、そのようには記してはいません。「わたしの魂を御手にゆだねます」、「成し遂げられた」と言っています。そこには依然として、神との断絶があります。

  最初の殉教者となったステファノも、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言って眠りにつきましたが、ステファノの場合は、「天が開いて」、「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを」見ています。主イエスの十字架の死の場合は、全地が暗くなっているさなかの、むごい死の様相につつまれています。

   なぜキリストがこの悲惨な言葉を叫ばれたのか。それは、私たちの身代わりとして、罪の報いを受けられたからです。キリストは「神に見捨てられる」という裁きを受けたのです。私たちが犯した罪のために受けなければならない裁き、神を神と思わず、自分中心に生きてきたその報いを、キリストが身代わりに受けて下さったということです。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることの固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、ヘりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆう名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)とあります。

  「主の苦しみは、わがためなり。われこそ罪に、死すべきなり。かかるわが身に、代わりましし、主のあわれみはいととうとし。」と、十字架の主をほめたたえましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする