富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「断食についての問答―新しい時代の到来」 ルカによる福音書5章33~39節

2019-02-02 22:36:23 | キリスト教

                  ↑  マタイ(別名レビ)の召命

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      降誕節第6主日  2019年2月3日(日)     午後5時~5時50分 

                            礼 拝 順 序

                                                司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  16(われらの主こそは)

交読詩編  111(わたしは心を尽くして主に感謝をささげる)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書5章33~39節(新p.111)

説  教  「断食についての問答―新しい時代の到来」  辺見宗邦牧師

祈 祷                 

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

             次週礼拝 2月10日(日) 午後5時~5時50分 

             聖 書  ルカによる福音書6章1~11節

             説教題   「安息日の主」 

             讃美歌(21) 204 355 24 交読詩編 42

     本日の聖書 ルカによる福音書5章33~39節    

  5:33人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」 34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。 35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」 36そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

          本日の説教

 「断食についての問答」の出来事は、マタイ9・14-17、マルコ2・18-22に並行記事があります。三つの福音書は、同じように、「レビを弟子にする」記事の後、レビの家での食事を記し、その後に「断食についての問答」を記しています。内容に大差はありません。

                                               カラヴァッジョの「聖マタイの召命」

  主イエスは、取税所に座っている徴税人のレビ(アルファイの子、別名はマタイ)を招いて弟子としました。

 徴税人は、ガリラヤの町カファルナウムを通行する人の携行荷物に課税し、徴収する請負人です。徴収した税の過剰分は彼らの収益となりました。彼らは税の徴収に下役を使いました。レビもそのような下役であったと思われます。徴税人たちは不当に高い税を取りたてることもできました。そのうえ彼らは異教徒と接触するので、ユダヤ人たちからは祭儀的に不浄な者と見做され、軽蔑、嫌悪の対象とされ、罪人と同一視されました(ルカ7・34)。

  イエスに招かれて弟子となったレビは、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催しました。そこには取税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席についていました。これを見たファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言いました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しました。

  <罪人>とは、律法を順守しない、あるいは種々の事情で厳格な律法を遵守できない者たちのことを指します。<ファリサイ派>とは、律法を生活の中心に据え、とくに祭儀的清浄を重んじていっさいの汚れと汚れに染まりやすい一般大衆から自らを分離したために、外部の人々からつけられた「分離された者」を表すあだ名でした。彼らは口伝の諸規定をも成文律法と同列において遵守し、自らの業績と義を誇り、律法を守らない者たちを軽蔑しました(ルカ18・9-14)。

  イエスは弟子たちに代わて、彼らの非難に答えました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と答えました。「罪人」には、ァリサイ派の人々をはじめとするすべての人を含んでいるが、彼らは気づいていません。ファリサイ派の人々に欠けていたのは、「あわれみ」であることが、マタイ福音書の方では示されています。このレビの家での大宴会を前提にして、「断食についての問答」がなされるのです。

 <ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち>は、イエスに言いました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをしています。ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と非難しました。

 イエスと弟子が罪人と宴会する理由が、「罪人を招いて悔い改めさせるため」と言うなら、悔い改めを説くヨハネの弟子たちは、たびたび断食と祈りをするではないか、われわれもそうしている。それなのに、あなたとあなたの弟子たちがことさらに大宴会までして酒を飲んだり食べたりするのはどういうわけか、とファリサイ派の人々が反論しました。

   ユダヤ教では断食は、祈りや施しと並んで、三つの良い業のうちの一つでした。主イエスは山上の説教の中で、この三つ業が正しく行われるように教えています(マタイ6・1-18)。断食は罪を悔いる心の表れとして重視されていました。律法は年に一度の大贖罪日(ユダヤ歴七月十日は国中が一切の飲食と入浴を禁じれました)を命じていました(レビ記16・29)。その外、エルサレムの包囲の日(十月十日)、陥落の日(四月九日)、神殿破壊の日(五月七日)、総督ゲダリヤ暗殺の日(七月二日)といった国家的災いの日として、年四回(ゼカリヤ書8・18)の公の断食が命じられていました。更に、ファリサイ派の人々は週に二回(毎週月曜と木曜)に断食を守っていました(ルカ18・12)。根拠はモーセが律法授与にあたり、シナイ山に登った日と降りた日とされています。断食はユダヤ人のあいだでは神の前での謙虚な行為として重んじられ、祈願、嘆き、悔い改めなどと結びついていました。苦行は贖罪的効果をもつと考えられるようになっていました。だから断食をしないだけでなく、大宴会で酒を飲んだり、取税人のような罪人のもてなしの宴会の席に連なるのは、ユダヤ教的にはとんでもない破廉恥なことでした。

 そこで、イエスは言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と婚礼のたとえを用いて答えられました。

 「花婿」とはイエスのことです。「婚礼の客」とはイエスの弟子たちを指します。花婿が一緒にいる時は、喜びの時であり、断食をすべき時ではありません。イエスが世に来られている時は救いの時であり、従って喜びの時です。苦行によって罪を免除してもらうという努力をするときではありません。イエスによる神の国がいよいよ間近に迫っている「しるし」の行為は食事であり(ルカ7・36-50)、宴会は、イエスによって神の国、神の支配が「見えるしるし」として表された喜びの宴(うたげ)です。この喜びの時を婚礼にたとえ、救い主である花婿が一緒にいるのに、喜び祝うのがあたりまえではないか、とイエスは説いたのです。

 「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」とイエスは言われました。花婿が奪い取られる日は婚礼の祝いが中断される日、イエスの死の時です。この時は、イエスの死から復活のまでの三日間を指します。また復活後、その三日間を偲ぶ、教会の断食の業をする日(使徒言行録13・2-3、14・23)をも指します。イエスは断食を否定されたわけではありません。断食は悲しみのしるしであり、それをするにふさわしい時があります。

 そして、イエスはたとえを話されました。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」

 新しい服の布切れは水につけると縮むので、古い服に継ぎ当てると、洗う時、新しい布が縮み、そのために古い服の弱くなった布は引っ張られて破れてしまいます。マルコの福音書の方では、新しい<継ぎ切れ>を古い服に継ぐと古い服を駄目にするという話ですが、ルカによる福音書では、新し服から切り取った継ぎ布ははそれによって新しい服を駄目にするだけでなく、それが古い服にも合わないのだ、と言っています。つまり、断食は古い時代にはふさわしが、新しい時代にはふさわしくないとイエスは言っておられるのです。

 主イエスの復活と昇天後の新約時代になると、「新しい服」を着ることは、「義の衣を着る」(イザヤ61・10)というイメージになります。キリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者には、キリストの「義の衣」が与えられます。パウロは、「主イエス・キリストを着」(ローマ3・14)なさい、「自分を脱ぎ捨てて新し人」(エフェソ4・24)を着なさい、勧めます。

 「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」とイエスは言われました。

  「革袋」は、羊や山羊一頭を丸はぎして作った袋状の水や酒などの貯蔵・運搬に用いる遊牧生活に必要な容器です。新しいぶどう酒を古い革袋に入れれば、発酵の際の圧力によって、弾力性のない古い革袋は破れてしまいます。これは古いものには古いものがふさわしく、新しいものには新しいものがふさわしいことを教えています

 「古い革袋」はヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの断食の習慣をたとえており、ユダヤ教の律法を重んじる人々のことを指しています。また新しいぶどう酒はイエスの弟子たちが断食をしないことをたとえており、イエスによる福音に生きる弟子たちのことを指しています。新秩序であるイエスの救いを古い民族宗教内に閉じこめようとすると両方が駄目になります。新しいイエスの救いは、徴税人や<罪人>をも受け入れる神の愛と憐れみによる、従来の律法を完成させる新しい律法です。

 弟子たちに聖霊降臨があった日、エルサレムの人々は驚き、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言いました。聖霊の働きを、「新しいぶどう酒」による酩酊と人々は間違えて判断したのです。聖霊は「新しいぶどう酒」による酩酊とは全く違う、神から受ける聖なる力です。

 イエスによる「新しい酒」と、それを入れる「革袋」は、新約時代には、「聖霊」と、聖霊を宿す「体」のイメージとなり、わたしたちの「体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(1コリント6・19-20)であり、「わたしたちはこの宝を土の器に持っています」(2コリント4・7)という、パウロの勧めになります。

 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」とイエスは言われました。

   イスラエルの神の救いの歴史が続くうちに、救いへの準備としての古い秩序になじんでしまったイスラエルの人々は、それだけで満足し、いざ自分たちが長年にわたって一生かけて準備し、待望して来たはずの救いが、イエスによって突如到来すると、それを拒む人々が多いのです。神の救いそのものよりも、自分たちが築いてきた救いの準備だけで沢山であると、これまでの宗教的習慣や伝統を重んじるのです。

 ファリサイ派の人々とイエスの福音に生きる人々とは、生き方が違います。これは、根本的には「神の国」の理解に対する違いからきます。ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって御国に入ろうとします。福音に生きる人々は、イエスの到来とともにすでに始まっている神の支配の中に自らの身を委ねます。それは自分の努力によって義を獲得するのではなく、神の恵みであるイエスの義による罪の赦しを信じ、罪を心から悔いて、主イエスにすべてを委ねるのです。ここにイエスと共に生きる喜びと新しい歩みを与えられるのです。

 古い自己に全く死んで、キリストにおいて新生したキリスト者はイエス様の支配、イエス様の導きに従って生きるのです。洗礼はこの生まれかわりのしるしです。古い自己のままでの修養、努力をするのではありません。絶対に奪い去られることのない花婿との喜びの日々が、イエスの復活と聖霊降臨と言う出来事によって、わたしたちに与えられています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4・4、)、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」(一テサロニケ5・16)と使徒パウロは勧めています。

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