富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「病を癒すキリスト」 ルカによる福音書5章12-26節

2019-02-21 00:08:26 | キリスト教

      ↑ カファルナウムで中風の人を癒すイエス イコン画

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

             日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

  降誕節第9主日 2019年2月24日(日)    午後5時~5時50分 

          礼 拝 順 序

                                                司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 206(七日の旅路)

交読詩編  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)

主の祈り   93-5、A132

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)ルカによる福音書5章12-26節(新p.110)

説  教  「病を癒すキリスト」

祈 祷                 辺見宗邦牧師                

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝 3月3日(日) 午後5時~5時50分 

                聖 書  ルカによる福音書9章10-17節

                説教題   「奇跡を行うキリスト」 

                讃美歌(21) 132 198 24 交読詩編 46

  本日の聖書  ルカによる福音書5章12-26節  

 5:12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。 13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。 14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」 15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。 16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。                                                  17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

         本日の説教

  ガリラヤで伝道を始めたイエスは、カファルナウムで「汚れた霊に取りつかれた男」を癒し(ルカ4:31~37)、シモンの家で熱病で苦しんでいるシモンのしゅうとめを癒し、いろいろの病気で苦しむ者の一人一人に手を置いて癒されました(ルカ4:38~41)。 ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)で、漁師たち、シモン・ペトロとシモンの仲間、ヤコブとその兄弟のヨハネを弟子にされました。

 イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。そして、イエスがある町におられるとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいました。 「重い皮膚病」は、ギリシャ語原典では「レプラ」という語が用いられています。「レプラ(らい病・ハンセン氏病)」は、ヘブライ語の「ツァ-ラアト」の訳語で、「ツァ-ラアト」は現代医学でいうハンセン氏病だけでなく、治療がきわめて困難な皮膚病を含もものでした(レビ記13-14章参照)。この場面に登場する患者がどのような皮膚病を患う患者であったかは明らかではありませんが、「ツァ-ラアト」患う者は当時は恐れや無知から非常に不思議で恐ろしいものとされ、イスラエルの律法では不浄の者と見做され、この病気に罹った人々は人々の目に触れない所に隔離され、町の外に住まねばならなかったのです。健康な人々との接触は許されず、だれかが近づいたなら、<わたしは汚れた者です。汚れた者です>と呼ばわって警告しなければなりませんでした。それは伝染病予防処置のために義務づけた律法でしたが、本人にとっては、自らを「汚れた者」とし、人と交わることのもできない、屈辱を味わう苦痛をともなうものでした。

 この男は人から聞いて、イエスなら自分を助けることができると信じたのです。この男は刑罰を受けることは覚悟のうえで、律法を犯して町に入り、イエスを見て、ひれ伏しました。そして、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願いました。「主よ、あなたがそうしようとお思いになりさえすれば、あなたにできないことはないのです。あなたの御心次第で私を清くすることがおできないなるのです」というイエスに対する信仰と信頼を告白して、癒しを求めました。

 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去りました。マルコ福音書には、「イエスが深く憐れんで」その人に触れて癒した、と記しています。主イエスはこの男に触れることによって、社会から汚れた者として疎外されてその人の孤独と恥を共に負われたのです。そしてイエスのこの行為と<清くなれ>という言葉によって、全身をおおっていた「重い皮膚病」はたちまち彼から去りました。イエスの命令によって、古い汚れた状態から新しい清い状態への大逆転が、一瞬にして起きたのです。

  重い皮膚病が癒されたその人に、イエスは二つの指示を与えました。一つは、彼は誰にもこのことを語ってはならない、ということです。イエスはすでにたくさんの人々に取り囲まれており、これ以上、うわさが広まると、4章42節で起こったように、群衆に引き止められ、ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせることが出来なくなるためであったと思われます。もう一つの指示は、祭司の所に行って見せ、律法に適った儀式として、清めの献げ物をし(レビ記14章)、人々に証明しなさいと命じたのです。

 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来ました。 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられました。父なる神との絶えざる祈りの交わりが、イエスの霊の力に満たされる源だったのです。

 ある日のこと、イエスが再びカファルナウムに来られと、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになりました。シモンとアンデレの家のようです。イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていました。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのです。彼らは宗教指導者として、イエスに関して流布されている話の真相を確かめるために集まってきたのでしょう。

 イエスは病気の人をいやしておられました。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとしましたが、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つかりませんでした。

  中風(ちゅうぶ)とは、中国の医書で用いられた言葉で、「邪風に中(あた)って起こる半身の不随とか、腕や脚のマヒする病気です。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」とも言います。ここでは<中風の人(パラリュティコス)>は「不随の者」を意味し、病名を確定することは出来ませんが、いずれにしても、患者は歩けない状態にあった人です。

  戸口から運び入れることができなかった男たちは屋根に上って瓦をはがし、開けた穴から、人々の真ん中にいるイエスの前に、病人を寝床ごとつり降ろしました。

         「中風の人を癒すイエス」

  当時パレスチナの家屋の屋根はおそらく横梁(よこばり)の上に角材を並べ、その上に木の枝や柴を編み、粘土で練り固めた平屋根でした。屋根には外から階段で上ることができました。屋根は、マルコ福音書では<屋根をはがして穴をあけ>とあるので、粘土を固めた屋根のようですが、ルカ福音書では<瓦をはがし>とあります。これはどの文化の国の人にも分かるように、ルカの出身のギリシヤの家の構造で言い表しています。男たちは、瓦の屋根をはがして、イエスの前に病人を床ごとつり降ろしました。<床>は貧しい人が使う小さくて粗末なベッドで、担架のように運べるものでした。マルコ福音書には、床を運んでいる人は四人と記しています。床の四隅を持つ人が思い描かれます。

 イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われました。<その人たちの信仰>とは、中風の患者を運ぶ人たちの信仰です。中風の患者も癒された後、「神を賛美しながら帰って行った」とあるので、患者の信仰も含まれていると思われます。彼らの信仰は、イエスの権威と奇跡的な力に対する信頼です。中風の人へのイエスの最初の言葉が、「人よ、あなたの罪は赦された」と言う言葉でした。イエスは罪だけが病気や災難の原因とは決して考えませんでした(ヨハネ9・2-3)。しかしこの場合は「罪」は複数形で表わされ、彼の病気は彼の霊的な状態と関係していることが明らかに暗示されています。イエスが、あなたの罪は赦されたと言えば、病人は癒されたも同然なのです。イエスは神の子として、罪を赦し病を癒す<主なる神からの力>(17節)を与えられているのです。

 ところが、そこに律法学者たちやファリサイ派の人々が数人座っていて、心の中であれこれと考え始めました。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えたのです。「罪を赦すこと」は、旧約聖書では神の特権です。神の特権を横取りする者は、石打ちの刑で殺されることになっていました(レビ記24・15-16)。律法に通じている律法学者たちは、イエスが神ご自身のように振る舞われたので、神を汚したと考えたのです。罪の赦しは、神の恵みによるものです。ところが、律法を守ることによって罪が赦されると考え自分の行いに頼る彼らの傲慢な心は、自分たちの罪深さに気付かず、神の恵みを見失ってしまっているのです。

 イエスは、彼らの考えていることをを見抜いて、お答えになりました。「何を心の中で考えているのか。中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。「あなたの罪は赦された」と言うことは、誰もその結果の真偽をすぐ具体的に判定できないので、言うことは簡単なことです。しかしイエスにとっては罪を赦すのも病を癒すのも同じ権威に属することでした。病を癒すイエス行為は、罪の赦しによって与えられる神との好ましい関係の見える「しるし」なのです。これがイエスが病人を癒す理由であり、<圧迫されている人を自由にする>(4:18)ということでもあり、神の救いの見えるしるしです。

 イエスは自分がメシア(救世主)である自覚をもっておられたが、人々の無用な誤解を避けるために、普通の「人」の意味にもとれる「人の子」という言葉を用いて、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。そして、イエスは中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。その人は癒されてすぐさま立ち上がって、寝ていた台を取り上げ担いで、神を賛美しながら家へ帰って行きました。主イエスの癒しの権威により、この人は、古い病の状態から健康な全く新しい完全な状態に転換した神の救いの喜びを賛美しました。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めました。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言いました。

                     「病人を癒すキリスト」

  イエスは四福音書の随所で幅広い病気を治しています。失明、難聴、中風、重い皮膚病、てんかん、歩行困難、手の委縮など身体的症状が最も多いが、他に、悪霊を追い出す必要がある状態として描かれる、精神的疾患があります。イエスは症状にあわせ、触れる、言葉をかける、唾(つばき)を使うというような異なる手段をとっています。新約聖書の癒しの話は、罪の赦しの話であり、罪の赦しによる神との好ましい関係の見える「しるし」であり、神の国へ入れる救いなのです。

 「それは預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するため」でした(マタイ8:17)。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(イザヤ書53:4)とあります。神の子イエスは、苦難の僕として、わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担って、それを癒してくださったのです。イエスの罪の赦しと癒しの宣言はただ口先だけの言葉ではありません。わたしたちの罪を負い赦すために、身代わりとなって十字架の死をとげ、わたしたちを罪の支配と死の恐れから解放するために復活されることと結びついているのです。

 中風の人の癒しの伝承は、後の弟子たちの時代にも伝えられ、弟子たちは癒しの霊の賜物を与えられ、生まれながらの足の不自由な男を<イエス・キリストの名によって>癒しています(使徒言行録3:6)。

 「重い皮膚病を患っている人」の「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というイエスに対する信仰や、中風の病人を屋根に穴をあけてまでイエスのもとに連び入れた人たちの強い信仰を学び、イエス様によって癒された人たちのように、わたしたちも、罪を赦され、聖霊を与えられて立ち上がり、神を賛美しながら、日々主イエスに従って行く者となりましょう。

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