富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の日の先駆者」マラキ書3章19~24節

2023-12-12 22:50:33 | キリスト教

   見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 マラキ3:23

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

降誕節第三主日  2023年12月17日(日) 午後2時~2時50分

        礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂のひかり)

交読詩編    19(天は神の栄光を物語り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マラキ書3章19~24節(旧p.1501)

説  教      「主の日の先駆者」    辺見宗邦牧師

祈 祷                                         

讃美歌(21) 263(あら野のはてに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

      次週礼拝 クリスマス礼拝 12月24日(日)

      午後2時~2時50分、礼拝後の祝会30分位   

      聖 書 ルカによる福音書2章1~20節

      説教題 「キリストの降誕」

      讃美歌(21) 267  263 27 交読詩篇 113

  本日の聖書 マラキ書3章19~24節

 3:19見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。20しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。21わたしが備えているその日にあなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。22わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。23見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。24彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。

 本日の説教

 マラキ書のマラキは「私の使者」を意味します。マラキ書の著者が誰であるかが知られていなかったので、3章1節の<見よ、わたしは使者(マラキ)を送る>から、この書の呼び名としています。神の到来に先立って道を準備する使者を語り始めた預言者の書です。旧約聖書のホセア書から始まる「十二小預言書」の最後の預言書です。マラキが指摘する祭儀の乱れは、エズラによる宗教改革(紀元前458年)以前の状態を反映しているので、マラキはそれ以前に活動していると考えられ、紀元前465年頃に活動したと推定されています。

 マラキ書の背景についてお話しいたします。強制移住をさせられたバビロン捕囚が終わり、59~48年間も捕らわれていたユダヤ人は、バビロンを倒したペルシアの王クロスの勅令によって、BC538年解放され、エルサレムへ帰ることを許されました。クロス王は、それまでの覇者のような民族の強制移住による反乱の防止,人材の登用という占領政策を廃して、むしろ捕囚になっていた諸民族を帰国させ、それぞれの宗教を尊重することによって,国の平穏を図る政策を採用しました。クロス王は、ユダヤ人に対して神殿の再建を許可し、バビロンのネブカデネザル王によって奪われていた神殿の宝物も返還するよう命じました。さらには、神殿再建に対して経済的な援助も約束したのです。

 最初の帰還の指導者として、ユダ王家の末裔である総督ゼルバベルが任命され、第一回目の帰還がなされました。この時に帰還したのは4万2千人ほどでした。さっそく神殿再建工事が着手されました。ところがさまざまな妨害にあって、基礎工事で頓挫、以後18年間、再建工事は中止されました。妨害したのは、捕囚期にこの地に住みついて既得権を主張する雑種民でした。

 ユダヤ人は、預言者ハガイやゼカリヤ(520~518)に励まされ、中断状態になっていたエルサレム神殿を5年後のB.C. 515年に再建しました。これが第二神殿です。預言者ハガイやゼカリヤは、神殿再建のあかつきには、イスラエルは栄光に満ち、土地も豊かな恵みをもたらすと約束しました。

 しかし、ハガイやゼカリヤより35年後のマラキの時代になっても、そのしるしは現れないばかりか、相変わらずペルシヤの支配に甘んじなければなりませんでした。そのような中で、神殿再建が民にもたらした熱狂的な興奮はすでにさめ、やり場のない失望だけが民の間に広がっていました。マラキ書は、このような時代に、イスラエルの民が神の愛、恵みに気づき主への恐れと感動を再び思い起こし、祭司や民の心を再び神ヘ立ち帰らせようとしたのです。

 3章19節から21節では、神が備えている「その日」(主の日)には、「悪を行う者」と主の「名を畏れ敬う」者の「区別を見る」(18節)出来事が明らかにされています。

 

イタリアの画家ジョット(1226年~1336年)の預言者マラキ、イタリアのパドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂の天井画(1305年の作品)

 「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。」(3:19)

 「高慢な者、悪を行う者」には、「その日」は「炉のように燃える日」として到来すると言っています。その火は「わら」を焼き尽くすように、「根も枝も残さない」完全に焼き尽くす火として語られています。主に逆らう高慢な者、悪を行う者に下される徹底した裁きが、語られています。「高慢な者」とは、主の律法を捨て、人間の物差しでものごとを推し量る人のことです。現在の彼らの繁栄を見るのではなく、神に逆らう人の最後と、主の名を畏れ敬う人の最後を「区別して」見るべきです。

 「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て跳び回る。」(3:20)

 主の名を畏れ敬う正しい人の上には、「義の太陽」が昇ります。「義」は救い、勝利の意味です。「義の太陽」はオリエント(古代ローマから見て東方にある世界)で礼拝された太陽神のイメージが借用されています。オリエントで礼拝された太陽神は、光線を翼のように広げた円盤によって表されました。その翼の先には手がついており、その手は癒す力があり、礼拝者に命と保護を与える、と考えられていました。

 主なる神は「義の太陽」となって、その強い光で、闇のような時代にある私たちを癒し、力づけ、喜びで満たしてくださる、ということが歌われています。またその日には、高慢で悪事を行う者に苦しめられ、じっと耐え忍んでいた正しい者は、牛舎に閉じ込められていた子牛のように、解放と自由を得て喜びを味わう時でもあると言われいます。

 オリエントで<義の太陽>として礼拝で使われた太陽神。太陽の光線は翼のように広げた円盤によって表され、その翼の先には手がついており、その手が礼拝者に命と保護を与える、と信じられていました。

 創造主を畏れ敬うのと反対の道は、偶像崇拝に生きることです。偶像の最たるものは、異教神や、物質、金銭、名誉欲、地上の人間としての欲望だけではなく、現代においては、勝手に作り上げた自己のイメージが多くの人々の偶像になっています。

 「わたしが備えているその日に、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。」(3:21)

 21節には、17節で用いられた「わたしが備えているその日」という言葉が繰り返して用いられています。17節では、主を畏れ敬う民は、主の憐れみを受けて「宝となる」ことが言われていましたが、ここでは、主に逆らう者に対する、主の勝利が語られています。この勝利は、「主を畏れ敬う者」が自らの敬虔さによって勝ち取った勝利ではありません。神がもたらす勝利として語られています。主が備えられたその日の勝利は、主の恩恵の力によってもたらされる逆転であるからです。

 それは、新約の光に照らすと「復活の日」の勝利です。無力に踏みつけられた、主に従う者の十字架の苦しみは、主の日に完全に現れる復活の力により逆転し、喜びと希望に変えられます。そして、自分たちを苦しめる者たちは、主キリストの「足の下に置かれ」ます(1コリント15:25)。

 「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。」(3:22)

  3章22節~24節は新約への橋渡しをする重要な結論です。、マラキ書の編集者によって追加された結びになります。「わが僕モ―セの教えを思い起こせ」とは、律法の規定だけでなく、モーセ五書に記された出来事をも指しています。編集者が、これらの言葉を21節の後に置いたのは、「主の日」の到来を待ち望む信仰のあり方を示すためです。かつて主がなされた救いの御業を思い起こし、来るべき主の日になされる救いの確かさを確信すること、その教えの御言葉に堅く立つ信仰こそが今求められている、というメッセージを伝えるためです。

 「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(3:23)

 3章1節では名指しされなかった使者が、3章23では「おそるべきおそるべき主の日が来る前に、預言者エリヤをイスラエルの民に遣わす」と預言したのです。エリヤは生きたまま天に上った人物なので、神が遣わす使者に最もふさわし人物でした。彼はエリヤによって不和は終ると考え、希望と慰めを語ったのです。

「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。」(3:24) 

 彼(預言者エリヤ)は、「父の心を子に」向けさせる「父」は神ではありません。普通の家庭の父です。再来するエリヤの役割は父と子に和解をもたらすことです。和解が成立していなければ、この地は破滅に見舞われると預言されているので、この不和は深刻であったに違いありません。この不和はただ家庭の危機にとどまらず、若い世代と壮・老齢世代との間に深い溝を作り出しました。この溝は、共同体の基盤をそのものを脅かしていました。

 新約聖書では「洗礼者のヨハネ」がエリヤの再来とされています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼(洗礼者ヨハネ)は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11:14)と主イエスは言われています。そのヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりもすぐれておられる。」(マタイ3:11)と言い、獄中でキリストのなさったことを聞き、自分の弟子たちを送って、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と尋ねさせました。

イエス・キリストこそ、「父の心を子に子の心を父に向けさせる」方です。「父の心を子に」という和解は、キリストの十字架においてのみ実現するからです。マラキ書3章24節は、「破滅をもって、この地を撃つことがないように」、エリヤ、ヨハネ、最終は主イエスをこの地に送ってくださる神の愛を預言して終わっています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする