香山リカ(以下、香山) スマナサーラ師が長老をつとめる「テーラワーダ仏教」は、一般的な仏教と比べ、どのような違いがあるのでしょうか。
スマナサーラ 日本に伝わった仏教の多くは、お釈迦様の死後、数100年を経てから発達した宗派で、特定の仏様を拝んだり、念仏を唱えたりすることで極楽浄土に行けるといったような、信仰型の宗教です。
これに対し、テーラワーダ仏教は、2500年以上前にお釈迦様自身が弟子たちに語った教えを、ほぼそのままの形で受け継いでいます。それは、人間の心を深く見つめ分析することから導き出された、苦しみから逃れて、楽しく明るく生きるための具体的かつ実践的な智慧(ちえ)であり、神秘的・呪術的な要素は一切ありません。逆に私たちは、「信仰」することを禁止しています。なぜならそれは何者かにすがる行為だからです。
香山 すると、宗教というより哲学というイメージでしょうか。
スマナサーラ いいえ、むしろ科学に近いと考えています。お釈迦様は、自分の考えが万人に当てはまるかどうか、徹底的に検証しました。理論と実証、それはまさに科学の方法論なのです。
香山 ということは、反証が出てきて仮説が覆り、教えの内容が変わってしまうこともあるのでしょうか。
スマナサーラ 物質を扱う科学の場合、研究対象は膨大で、どの分野もまだまだ証拠不十分。そこを推論で埋めるしかないという、発展途上の段階ですから、反証が出てくるのも当然でしょう。
これに対して、仏教は人間の心のみを扱い、推論を差し挟まず、100%の証拠がそろって初めて事実と認めるという態度を貫いて、検証を行ってきました。ですから、私たちの教えの体系は、ほぼ完成しているという自信に満ちたものなのです。
香山 「地球は丸い」ということと同じレベルの、実証済みの事実だということですか。
スマナサーラ その通りです。ですから私たちの教えには選択の余地がありません。
どういうことかというと、一般の信仰型宗教は、どの神様、仏様を信じるか選べますよね。その代わり、宗教の側では信者と信者以外を区別し、ほかの宗教に対しては排他的になります。
ところがテーラワーダ仏教は、誰にとっても地球が丸いことと同様、どんな神様を信じていようと、あるいは信じていまいと、受け入れざるを得ない真理なのです。従って私たちは、どんな人も差別しませんし、ほかの宗教と衝突することもありません。「生きとし生けるものを慈しみなさい」と堂々と言える、本当の意味での世界宗教と言っていいでしょう。
香山 心を扱う科学という点では、まさに私の専門である精神科の医学と重なるわけですね。
スマナサーラ お釈迦様自身、自分は医者だと言っています。ただし、心のみを治し、体は管轄外だと。
香山 医学と宗教がどう手を結ぶか、なかなか難しい課題ですが、例えばスリランカではどのような状況ですか。
スマナサーラ テーラワーダ仏教と科学とは協力関係が成り立っています。ですから、体の医者は多くいますが、精神科医は非常に少ないのです。脳にはっきりした障害が認められ、薬品や手術などでの治療が適切な患者さんだけがそちらへ行き、それ以外の心の問題は、私たちが引き受けているわけです。
日本では、精神科医がある程度私たちの役割も果たさなければならないと思うので、仏教の方法論を研究することは有効なのではないでしょうか。
香山 お話に出た心の問題、病気を抱えた人は、今まさに日本で増加しています。私のところにもたくさんの患者さんが来ますが、彼らの多くが、「自分の人生は、こんなはずじゃなかった」と言います。じゃあ本当は何がやりたいのかと聞くと、困ったことに、それもよく分かっていないようです。
スマナサーラ 私の説法でもよく扱うテーマです。現状に不満で、ただそこから逃避したいために漠然と将来から目をそらしても、不安や焦りにつながるだけです。
大切なことは「今」を生きること。何をしたらいいか分からないといっても、人は常に何かをしているわけですから、そのことをしっかりやってみる。例えば、テレビを見るときに内容についてきちんと考える、水をじっくり味わいながら飲む、といったことでもいいんです。30分、あるいは10分、5分と時間を短く区切って目の前のことに集中してみると、そこで自分が成し遂げた成果がはっきり分かります。
香山 しかし現実には、彼らにとって、「意味のあること」とは、例えばイチロー選手が放つヒットのように、自分にしかできないこと、他人では代われないことととらえているようです。
スマナサーラ イチローがどんなにすごい選手でも、彼がいなくなったところで大リーグも日本の球界もビクともしないでしょう。総理大臣だって、1年もたたずにコロコロ変わっているのが現状です。
人生の意味とは、自我意識、エゴから生まれた幻想だと、私たちは考えています。西洋近代哲学は、「我思う、ゆえに我あり」から出発しました。私たちから見ると、これこそが「無知」の始まり。そして、さまざまなトラブルがここから起こってくる、恐ろしい妄想なのです。「私」という存在をきちんと分析していけば、それが実体のない概念にすぎないということが分かるでしょう。
香山 自殺したがっている患者さんに、「みんなが同じように苦しんでいるんだから」と話すと、以前は納得されたのですが、最近はあまり効果がありません。人のことは関係ないとか、自分の苦しみは人とは違うと、聞く耳を持ちません。これも自我意識の問題なんでしょうね。
明治以前のわが国の美術には自画像がほとんどないのですが、それは日本人の自我意識が弱かったことを示していると言われていますから、こうした問題は今より少なかったかもしれません。ただもちろん当時は、厳しい身分制度があって、自由はなく、違う苦しみがあったでしょうけど。
スマナサーラ クマから逃げたらライオンがいた、というように、トラブルの種類が変わるだけです。幻想が作り出した問題を、別の幻想で解決しているわけですから。
よく「昔は良かった」と言いますが、新しいトラブルへの免疫がないために、昔のほうが楽だったように思えるだけのこと。そこに戻ってみても、なんの解決にもなりません。
香山 立教大学には「女性就労とワーク・ライフ・バランス」というユニークな授業があって、私はそのコーディネーターを務めています。まだまだ遅れているわが国の女性の社会進出の問題を扱っていますが、スリランカでの女性の地位はどうなっていますか。
スマナサーラ まず仏教の世界では、男女はまったく平等です。お釈迦様は、修行のレベルに応じた弟子の地位も、男女に等しく与えました。
そしてスリランカの社会でも、女性は当たり前に重要な地位に就いています。日本では、例えば、子育てを、“女性の一生の仕事”のように肥大化させて考えていますが、それはおかしいですよね。
香山 前述の授業でも、子育てと仕事の両立が大きなテーマとなっていて、それを実現するシステムをどう作るかといったことを考えます。ただ、ともすると、結婚して子どもを産んで、かつ仕事も続けることが理想の生き方だというようにも聞こえてしまうかもしれません。そこで、私は精神科医として、結婚しない生き方、子どもを持たない生き方、いろいろな生き方があっていいんだよという話を、敢えてしたのですが、仏教には、生き方のモデルのようなものはあるんですか。
スマナサーラ 男性はこう、女性はこう、あるいは何歳ならこう生きるべきといった観念的なモデルは一切ありません。そうしたものは、時代や社会によって当然変わります。それが「無常」ということです。
でもそれは、人が社会の中で演じる役割の話。私たちはみな、ある時は父親、ある時は夫、ある時は会社員として生きていますが、大事なのは、一個の人間としての一貫した生き方です。
感情に流されず理性に従って生きる、目の前の現実をありのままにしっかり見つめる、あらゆる生命を慈しむ。仏教が教えるこうしたベーシックな生き方の智慧(ちえ)が、時代や社会に関係なく有効であると実証されていることは、先ほどお話しした通りです。そして、それを人々に伝え、いわば人として生きるための免許を与えるのが、私たちの本来の仕事というわけです。
香山 わが国では、それは誰がどのように教えたらいいんでしょうか。
スマナサーラ まず親ですね。それから幼稚園、小学校……と、いわゆる勉強と平行して教えられるシステムが構築できれば理想なんですが。面白いのは、難しい内容の真理でも、言葉を選んで教えさえすれば、大人よりむしろ子どものほうが理解が速いこともあるということです。
香山 そうした面では、日本の家庭教育や初等・中等教育は、残念ながらうまく機能しているとは言えず、しわ寄せが大学に来ているというのが現状です。私自身は、やはり大学はアカデミックな知識や方法論を身に付ける場であると考えていて、学生にもそう話しています。
スマナサーラ 大学は大人の一歩手前ですから、社会に出てプロとして活躍するための専門性を身に付ける場となることが本来の姿だと、私も思います。ただ、私は現実主義なので、ニーズがあるのなら、人間としての生き方に関する必修科目を設けるべきであると考えています。
香山 その意味で、立教大学がリベラルアーツ(教養)教育に力を入れ、人格形成につながる科目を数多く設置していることは、理にかなっていますね。キリスト教の「善く生きる智慧(ちえ)」という部分では、仏教と共通するところも少なくないと思います。
今日は貴重なお話をありがとうございました。
http://www.asahi.com/ad/clients/rikkyo/taidan/taidan20_01.html
スマナサーラ 日本に伝わった仏教の多くは、お釈迦様の死後、数100年を経てから発達した宗派で、特定の仏様を拝んだり、念仏を唱えたりすることで極楽浄土に行けるといったような、信仰型の宗教です。
これに対し、テーラワーダ仏教は、2500年以上前にお釈迦様自身が弟子たちに語った教えを、ほぼそのままの形で受け継いでいます。それは、人間の心を深く見つめ分析することから導き出された、苦しみから逃れて、楽しく明るく生きるための具体的かつ実践的な智慧(ちえ)であり、神秘的・呪術的な要素は一切ありません。逆に私たちは、「信仰」することを禁止しています。なぜならそれは何者かにすがる行為だからです。
香山 すると、宗教というより哲学というイメージでしょうか。
スマナサーラ いいえ、むしろ科学に近いと考えています。お釈迦様は、自分の考えが万人に当てはまるかどうか、徹底的に検証しました。理論と実証、それはまさに科学の方法論なのです。
香山 ということは、反証が出てきて仮説が覆り、教えの内容が変わってしまうこともあるのでしょうか。
スマナサーラ 物質を扱う科学の場合、研究対象は膨大で、どの分野もまだまだ証拠不十分。そこを推論で埋めるしかないという、発展途上の段階ですから、反証が出てくるのも当然でしょう。
これに対して、仏教は人間の心のみを扱い、推論を差し挟まず、100%の証拠がそろって初めて事実と認めるという態度を貫いて、検証を行ってきました。ですから、私たちの教えの体系は、ほぼ完成しているという自信に満ちたものなのです。
香山 「地球は丸い」ということと同じレベルの、実証済みの事実だということですか。
スマナサーラ その通りです。ですから私たちの教えには選択の余地がありません。
どういうことかというと、一般の信仰型宗教は、どの神様、仏様を信じるか選べますよね。その代わり、宗教の側では信者と信者以外を区別し、ほかの宗教に対しては排他的になります。
ところがテーラワーダ仏教は、誰にとっても地球が丸いことと同様、どんな神様を信じていようと、あるいは信じていまいと、受け入れざるを得ない真理なのです。従って私たちは、どんな人も差別しませんし、ほかの宗教と衝突することもありません。「生きとし生けるものを慈しみなさい」と堂々と言える、本当の意味での世界宗教と言っていいでしょう。
香山 心を扱う科学という点では、まさに私の専門である精神科の医学と重なるわけですね。
スマナサーラ お釈迦様自身、自分は医者だと言っています。ただし、心のみを治し、体は管轄外だと。
香山 医学と宗教がどう手を結ぶか、なかなか難しい課題ですが、例えばスリランカではどのような状況ですか。
スマナサーラ テーラワーダ仏教と科学とは協力関係が成り立っています。ですから、体の医者は多くいますが、精神科医は非常に少ないのです。脳にはっきりした障害が認められ、薬品や手術などでの治療が適切な患者さんだけがそちらへ行き、それ以外の心の問題は、私たちが引き受けているわけです。
日本では、精神科医がある程度私たちの役割も果たさなければならないと思うので、仏教の方法論を研究することは有効なのではないでしょうか。
香山 お話に出た心の問題、病気を抱えた人は、今まさに日本で増加しています。私のところにもたくさんの患者さんが来ますが、彼らの多くが、「自分の人生は、こんなはずじゃなかった」と言います。じゃあ本当は何がやりたいのかと聞くと、困ったことに、それもよく分かっていないようです。
スマナサーラ 私の説法でもよく扱うテーマです。現状に不満で、ただそこから逃避したいために漠然と将来から目をそらしても、不安や焦りにつながるだけです。
大切なことは「今」を生きること。何をしたらいいか分からないといっても、人は常に何かをしているわけですから、そのことをしっかりやってみる。例えば、テレビを見るときに内容についてきちんと考える、水をじっくり味わいながら飲む、といったことでもいいんです。30分、あるいは10分、5分と時間を短く区切って目の前のことに集中してみると、そこで自分が成し遂げた成果がはっきり分かります。
香山 しかし現実には、彼らにとって、「意味のあること」とは、例えばイチロー選手が放つヒットのように、自分にしかできないこと、他人では代われないことととらえているようです。
スマナサーラ イチローがどんなにすごい選手でも、彼がいなくなったところで大リーグも日本の球界もビクともしないでしょう。総理大臣だって、1年もたたずにコロコロ変わっているのが現状です。
人生の意味とは、自我意識、エゴから生まれた幻想だと、私たちは考えています。西洋近代哲学は、「我思う、ゆえに我あり」から出発しました。私たちから見ると、これこそが「無知」の始まり。そして、さまざまなトラブルがここから起こってくる、恐ろしい妄想なのです。「私」という存在をきちんと分析していけば、それが実体のない概念にすぎないということが分かるでしょう。
香山 自殺したがっている患者さんに、「みんなが同じように苦しんでいるんだから」と話すと、以前は納得されたのですが、最近はあまり効果がありません。人のことは関係ないとか、自分の苦しみは人とは違うと、聞く耳を持ちません。これも自我意識の問題なんでしょうね。
明治以前のわが国の美術には自画像がほとんどないのですが、それは日本人の自我意識が弱かったことを示していると言われていますから、こうした問題は今より少なかったかもしれません。ただもちろん当時は、厳しい身分制度があって、自由はなく、違う苦しみがあったでしょうけど。
スマナサーラ クマから逃げたらライオンがいた、というように、トラブルの種類が変わるだけです。幻想が作り出した問題を、別の幻想で解決しているわけですから。
よく「昔は良かった」と言いますが、新しいトラブルへの免疫がないために、昔のほうが楽だったように思えるだけのこと。そこに戻ってみても、なんの解決にもなりません。
香山 立教大学には「女性就労とワーク・ライフ・バランス」というユニークな授業があって、私はそのコーディネーターを務めています。まだまだ遅れているわが国の女性の社会進出の問題を扱っていますが、スリランカでの女性の地位はどうなっていますか。
スマナサーラ まず仏教の世界では、男女はまったく平等です。お釈迦様は、修行のレベルに応じた弟子の地位も、男女に等しく与えました。
そしてスリランカの社会でも、女性は当たり前に重要な地位に就いています。日本では、例えば、子育てを、“女性の一生の仕事”のように肥大化させて考えていますが、それはおかしいですよね。
香山 前述の授業でも、子育てと仕事の両立が大きなテーマとなっていて、それを実現するシステムをどう作るかといったことを考えます。ただ、ともすると、結婚して子どもを産んで、かつ仕事も続けることが理想の生き方だというようにも聞こえてしまうかもしれません。そこで、私は精神科医として、結婚しない生き方、子どもを持たない生き方、いろいろな生き方があっていいんだよという話を、敢えてしたのですが、仏教には、生き方のモデルのようなものはあるんですか。
スマナサーラ 男性はこう、女性はこう、あるいは何歳ならこう生きるべきといった観念的なモデルは一切ありません。そうしたものは、時代や社会によって当然変わります。それが「無常」ということです。
でもそれは、人が社会の中で演じる役割の話。私たちはみな、ある時は父親、ある時は夫、ある時は会社員として生きていますが、大事なのは、一個の人間としての一貫した生き方です。
感情に流されず理性に従って生きる、目の前の現実をありのままにしっかり見つめる、あらゆる生命を慈しむ。仏教が教えるこうしたベーシックな生き方の智慧(ちえ)が、時代や社会に関係なく有効であると実証されていることは、先ほどお話しした通りです。そして、それを人々に伝え、いわば人として生きるための免許を与えるのが、私たちの本来の仕事というわけです。
香山 わが国では、それは誰がどのように教えたらいいんでしょうか。
スマナサーラ まず親ですね。それから幼稚園、小学校……と、いわゆる勉強と平行して教えられるシステムが構築できれば理想なんですが。面白いのは、難しい内容の真理でも、言葉を選んで教えさえすれば、大人よりむしろ子どものほうが理解が速いこともあるということです。
香山 そうした面では、日本の家庭教育や初等・中等教育は、残念ながらうまく機能しているとは言えず、しわ寄せが大学に来ているというのが現状です。私自身は、やはり大学はアカデミックな知識や方法論を身に付ける場であると考えていて、学生にもそう話しています。
スマナサーラ 大学は大人の一歩手前ですから、社会に出てプロとして活躍するための専門性を身に付ける場となることが本来の姿だと、私も思います。ただ、私は現実主義なので、ニーズがあるのなら、人間としての生き方に関する必修科目を設けるべきであると考えています。
香山 その意味で、立教大学がリベラルアーツ(教養)教育に力を入れ、人格形成につながる科目を数多く設置していることは、理にかなっていますね。キリスト教の「善く生きる智慧(ちえ)」という部分では、仏教と共通するところも少なくないと思います。
今日は貴重なお話をありがとうございました。
http://www.asahi.com/ad/clients/rikkyo/taidan/taidan20_01.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます