子どもは「遊び」の天才

2012年07月10日 13時26分20秒 | Weblog
 学校に行けない子どもたちの居場所・学びの場として、フリースクール「夢街道・国際交流子ども館」を開設してから10年が過ぎました。今までの子どもたちは、地元の京都府、私が学校に勤務していた関係で隣の奈良県、そして大阪からもやってくる中学生・高校生がほとんどでしたが、この春からは一気に小学生が4人も入ってきて、様相が一変しました。

 どの子も学習しようなどという殊勝な気配は微塵もなく、頭の中、否、身体全体を支配しているのはひたすら「遊ぶ」ことです。子ども館の押し入れ、三階のロフトなどいたる所に秘密基地を作って遊んでいます。そうかと思えば、散歩、サイクリング、様々な種類の運動など、疲れを知らぬ子どもたちの動きにタフなスタッフたちもいささか閉口気味です。

■子どもは遊びの天才

 「勉強をサボって遊んでばかりいる」と思う人も少なくないかもしれません。しかし、彼らは真っ当で、健康なのです。引きこもっていた頃、遊ぶことすらしていなかったのですから。そんな彼らが、なぜ子ども館で遊べるようになったのでしょう。それは、「人間本来の姿」に戻ったからだと思うのです。

 遠い昔、彼らの年齢の頃、私にとって学校とは友だちと遊ぶ場所でした。馬とび、押しくら饅頭、Sケン(ケンケン合戦)……。先生や親には秘密の場所でのベッタン(メンコ)、ベーゴマ、ビー玉、泥棒と警察ごっこなど、大人たちに何と言われようと子ども同士の秘密を守り合ったものです。学校での勉強は、授業の時間が過ぎればそれで「終わり」でした。

 このように、もともと子どもは集まれば自然と遊ぶものです。子どもは遊びの天才と言っても過言ではありません。ですから、子ども館にやってきた子どもたちは、人間らしい生活を送ることで、子ども本来の姿に戻っていき、のびのびと遊べるようになったのだと思います。たとえば、大好きなスポーツを封印して学業に励み、有名私立中学に合格したK。入学後、ハイスピードで進む授業にKの心身がSOSを発したのでしょう。学校生活に終止符を打ち、子ども館にやってきました。

 子ども館では、サッカーやソフトボール、川遊び、キャンプなど例を挙げれば切りがないほどたくさんの遊びを楽しみました。Kはまるで喉の渇きを潤すかのように、本来の自分を取り戻していき、表情が豊かになっていったのです。

■生きるエネルギーを発散させてあげる

 また、私の人生で唯一の小学校1年生の担任の経験は、まさに「遊び」の大切さ、「押さえつけても生きる力は育たない」ということを教えてくれました。彼らの一向に止まないイタズラにどう対処すべきか悩んでいた私は、ある時「彼らは生きるエネルギーがあり余っているのだ。だからそれを発散させてあげればいいのだ」と気付きました。

 子ども館同様、様々な遊びを通じて日々蓄えられるエネルギーを発散することで、楽しさを発見し、心を充実させていったのでしょう。そうして磨かれた内面は、学習面でも輝きを放ったことを、私は今でも忘れません。(詳細は『こうして彼らは不登校から翔びたった 子どもを包む、3つの言葉』116ページ参照)

■「子どもが子どもである時間」を奪ってしまった大人たち

 戦後のわが国は、何もかも失った戦争から立ち直ることをベースに生きてきました。しかし、やがては高度経済成長を目指してひた走ることになります。それは子どもたちにも波及して、彼らの大事な遊び場であった原っぱや道路などを、大人たちの都合で排除していきました。そればかりか、「習いごとだ」「塾だ」と尻を叩いて、「子どもが子どもである時間」を奪ってしまったのです。

 「それが子どもたちの幸せにつながる」と妄信してきたツケが、今、子どもたちのさまざまな否定的な状況の遠因であることを疑うことはできないでしょう。

 臨床心理士の河合隼雄さんは、「大人たち(特に教育者と言われる人たち)は、指導したり、言い聞かせたりすることが好き過ぎる。自由な遊びのなかに、子どもたちの創造活動が現れ、自ら育ってゆくのである。遊びによって子ども時代に養われるイマジネーションのはたらきは、成人してからも創造活動をするときに、そのベースとなっている。『お勉強』で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである」と言っています。

 更に、子どもたちへの遊戯療法の視点から「治療はあくまでも子どもの宇宙への畏敬の念を基礎にして行なわれる。畏敬すべきこれほどの存在に対して『教育者』『指導者』と自認する人たちが、それを圧殺することにどれだけ加担しているのか、そのことを知っていただきたいのである。魂の殺害は、制度や法律によって防ぐことは不可能である」とも言っています。

■優等生の家庭内暴力と「魂の殺害」

 この峻烈な問いかけから、私自身も逃れられません。一つは教員時代に関わった子どもたちから。もう一つは2人の息子を育てた親として――。

 つまり、親や先生は、良かれと思って子どもたちを指導したり、言い聞かせたりしています。しかし、無意識のうちに子どもを傷つけてしまうことも、決して珍しくはありません。たとえば、ギャングエイジと呼ばれる成長過程に突入する、元気印の小学校3年生のクラスで、一人だけ背筋を伸ばして着席していたM。ヤンチャ坊主たちとは一線を画し、生真面目で宿題もきっちりこなし、品行方正そのもの。特等席を設けてあげたいくらいの優等生でした。

 しかし、そんなMが中学生になり、家庭内暴力をふるっていること、母親が丹精込めて育てていた鉢植えをことごとく壊してしまったということを、人づてに聞きました。

 遊ぶことはもちろん、同年代の子どもたちと群れることも許されず、ひたすら学ぶことに全てを向けられ、親の敷いたレールの上をまっしぐらに走らされたM。魂を殺害されたことへの反逆、抗議のあらわれであることは論を俟ちません。ずたずたにされてしまった自分の魂へのさらなる自虐行為でしょう。この惨めさを伝える言葉を探すことができません。

 私自身も、教師として、親として、「加害者」になってしまったこともあると自覚しています。傷つける気はなかっただけに、制度や法律で防げない「魂の殺害」を、どのようになくしていけるのか……。答えを模索する日々が続いています。

■否定的に捉えられる「遊び」

 更に視点を変えてみましょう。今日、私たちの生活の中から、スポーツと芸術を奪ってしまったら、人生そのものが無味乾燥になってしまうことは誰しもが認めるはずです。この2つこそが人類の「遊び」を昇華させた高度な傑作であることに異を唱える人がないように、「遊び」は子どもたちにだけでなく、大人、つまり人間にとってかけがえのない大切なものなのです。

 それにもかかわらず、「遊び半分」とか「遊び人」といったように、「遊び」は「勉強」や「仕事」と対比され軽く見られたり、否定的に捉えられたりしがちです。

 しかし、今の大人たちが子どもの頃の遊びは「ハンカチ落とし」「ゴムとび」「縄とび」「Sケン」「缶けり」など、身体全体を使うだけでなく、仲間たちと遊ぶものでした。これが生活の大事な一部だったのです。遊びの中で、上下関係や人と人とのルールを会得していったものです。

 翻って今、子どもたちはゲームメーカーの作ったゲーム機をはじめ、遊戯施設でお金を払って遊ばせてもらっています。こうした現象を見ていると、大袈裟に言うならば「時間とお金をかけて、人間らしく発達することからどんどん疎外されている」ように思えてなりません。

■夏休みは子どもを思いっきり「遊ばせる」

 遊びとは本来、大人から子どもへと伝承され発展させていく「文化」に他ならない、民族の大切な遺産の一つです。このままでは、その文化がなくなるかもしれません。戦争に負けて生き抜くことに必死で、余裕も自信も失ってしまった大人たちは、子どもに対して自信を持って教えることをためらい、とりわけ親はわが子を育てる価値観が中途半端になっているように思えてならないのです。

 加えて、序列にこだわる時代の風潮の中でよりよい大学に入ることが幸福な人生につながると考え、そのために「遊ぶ」ことをトコトン否定される子どもたちがこんなにも多いことに一種の憤りを禁じ得ない昨今です。

 これから、子どもたちが楽しみにしている夏休みがやってきます。「非日常」を楽しむためにも、テレビやゲーム、パソコンの電源を消してみるのはどうでしょうか。家族団欒の大切さを思い出すかもしれません。また、豪華な遊戯施設に連れていくのではなく、自然の中に子どもを放り出してみてください。いつの時代も子どもたちは好奇心旺盛です。部屋に閉じこもって指だけを一生懸命に動かして遊ぶよりも、身体を動かし、五感を働かせて五官がキャッチする感動をいくつも体験させてあげてください。それが大人の責務だと思うのです。私たちがそうして育てられたように――。

著者:比嘉 昇(夢街道・国際交流子ども館 理事長)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120710-00000303-wedge-soci