ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



日本人って、英語のテストで国際比較すると、成績悪いんでしょ。やっぱり、英語が合わない民族だったりするのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 TOEICやTOEFLなど、英語の試験で国際比較をすると、確かに、「日本は、国力の割には順位が低めである」という見方をすることもできます。ただ、受験している人数を国の人口比で見てみると、日本では、年間、百数十万人もの人が試験を受けていて、明らかに他の国とは違います。これだけの人数が受けていれば、平均点が下がるのは、ある程度、やむをえないことです。
 よその国は受験者数が少ないのです。(中略)例えば、「中国の平均点は高い」といっても、(中略)実際の受験者数は数千人程度であり、それほど受けてはいないのです。
 もし、優秀な人だけが受けていて、「点数が高い」と言っているならば、それはフェアではありません。(中略)
 したがって、日本人の英語力が低いわけではないのです。逆に言えば、「受けているだけ偉い」という見方もあるのです。
 日本に弱点があるとすれば、「減点型」のテスト教育をだいぶ行ってきたために、「勇気を持って話す」という教育のほうをあまり進めていなかった点です。(中略)
 私は、かつてニューヨークにいたことがあり、他のさまざまな国から来た人たちの英語を数多く聴きましたが、彼らの英語は下手でした。(中略)
 「『これは巻き舌でピンピン跳ねているから、中国語を話しているのだろう』と思ったら英語だった」「韓国語だと思ったら英語だった」ということが何度もあるのです。
 インド人の英語なども、聴き取るのは、けっこう難しいのです。「これは英語だろうか」というような英語をけっこう話します。(中略)
 ただ、そういう人々について言えることは、「彼らは恥ずかしくないらしい」ということです。日本人以外の人々は、たとえ英語が下手でも、恥ずかしくないようなのです。
 「英語圏で生まれ、英語を使って育ってきた人が、英語を話すのは当たり前だ。英語圏でない所で生まれた人は、英語が下手で当然であり、何か話せるだけでも大したものだ」というような開き直りがあります。
 ある意味で、彼らはチャレンジングで勇気があるのです。日本人にもそういう精神が加わればよいわけです。(中略)
 “日本人英語”は、文法的で、けっこう分かりやすいのです。英語独特の発音など、一定の苦手な部分をマスターしさえすれば、“日本人英語”は、実によく分かる、グラマティカルな英語です。日本人の英語は、文法的に正確な英語なので、他のアジアやアフリカの人たちの英語に比べて劣るとは、私は思いません。正確な英語を話しています。実に正確です。
 そして、わずかなミスでも、深く反省をします。とても謙虚です。「複数形の"s"を落とした」「冠詞の"the"や"a"を落とした」などと言って反省している姿を見ると、「日本人は、なんという、心優しく、反省深く、奥ゆかしい民族か。実に立派な民族である」と感じます。
 したがって、もう少し考え方を変えたほうがよいのではないかと思うのです。
(207~214ページ)

英語の試験の受験人数を見ると、受験者数が少ない他の国と違って、日本は年間、百数十万人も受けているから、平均点が下がってもやむをえないところがある。

日本の弱点は、減点型の教育を行なってきたことで、勇気を持って話す教育が進んでいないことである。

日本人の英語は、文法的に正確で、他のアジアやアフリカの人たちの英語に比べて劣ることはなにもないから、もう少し考え方を変えたほうがよい──。

なるほど、なるほど、です。

大川隆法先生は、「日本人よ、もっと自信を持て」と、ここでも叱咤激励して下さっているのではないでしょうか。

日本人は謙虚といえば謙虚なんですが、勇気がないだけだと言われれば、自分自身を含めて、まったくそのとおりだ、と感じます。

この温かい励ましの声に応えて、一人でも多くの日本人が語学に取り組み、勇気をもって外国人とコミュニケーションを図って、しっかりと世界で活躍していきたいものだと改めて私は思っているのです。
 

日本の繁栄は、絶対に揺るがない―不況を乗り越えるポイント (OR books)

『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』

 大川隆法著

 

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愛に生きたいよね。でも、どうすれば、愛に生きたことになるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 また、愛のなかで「許し」の部分が大事であることも語ってきました。
 愛において、もう一つ大事なことは、「多くの人のために、他の人のために、自分の時間、自分のエネルギーを割く」ということです。
 愛は、いろいろと難しい議論を含んでいますが、あえて二つに要約するならば、愛には、「許し」の側面と、「自分のものを惜しまず、自分のものを節してでも、多くのものを他の人に与える」という側面があります。
 後者は、他から奪い搾取する思いを捨て、できるだけ他に与えていこうとする、そういう思いだと言えるでしょう。「一日二十四時間のなかで、どれだけ多くのものを他の人に与えることができるか」、こういう考えの下に生きていくことが、「愛を生きている」「愛に生きている」ということだと私は思います。
 「他の人からしてもらうことは、できるだけ少なく、他の人にしてあげることは、できるだけ多く」という思想を持って生きていく人が、世の中に満ち溢れるならば、地上は必ずや天国になり、幸福に満ち溢れることになるのです。
 私は、「人間らしさの根本は、不安定な心理が、許しを得て、美しいものへ、善なるものへと転化していく過程にある」と思います。そして、「自分も他人も、悪を犯しうるものではあるが、できるだけ多くの善を生み出す努力をしていくところに、人間らしい営みがある」と考えます。
 悪の産出をなるべく少なくし、善をできるだけ多くつくり出していくことが大事です。これは、別の面から見るならば、自分が得ようとするものは少なくし、多くのものを人々に与えていこうとする過程でもあります。こういう行為が増えることによって地上の悪は少なくなるのだということを、深く深く理解していただきたいのです。
(116~118ページ)

「愛」を、あえて2つに要約すれば、「許し」の側面と、「自分のものを惜しまず、自分のものを節してでも、多くのものを他の人に与える」という側面がある。

「愛に生きる」というのは、この後者、1日24時間のなかでどれだけ多くのものを他の人に与えることができるか、という考えの下に生きていくことである。

他の人からしてもらうことはできるだけ少なく、他の人にしてあげることはできるだけ多く、という思想を持った人が世の中に満ち溢れるならば、地上は天国になる──。

今日は要するに、「愛に生きる」という角度から、地上天国の創りかたを教えていただいたのだと私は思っているのです。
 

限りなく優しくあれ―愛の大河の中で (OR books)

『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著


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神とか仏とか信じられなくても、愛だけは、やっぱり信じられるでしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔新装版〕(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「あの世は存在する。そして、数多くの魂が、この地上に生命を持って生まれ変わってきている」ということを認めることができない人たちは、気の毒ではありますが、人生というものを「非常につまらないものだ」と思っているのではないかと私は思うのです。自分自身の人生がつまらなく思えるだけではなく、おそらく他の人の人生もつまらなく見えることでしょう。
 なぜならば、そうした人たちは、「人間は、何年か何十年かのちには、死んで土に還る存在、二酸化炭素と水に変わってしまう存在だ」と思っているからです。二酸化炭素の成分は炭素と酸素です。炭素は炭と同じ要素でできていますが、それがそれほど尊いものでしょうか。「そうではない」と私は言いたいのです。
 唯物論的に「物質のみが存在する」と言い張るのは結構ですが、それは、自分自身に対しても、他の人に対しても、親切なことではありません。なぜなら、その考え方には、「愛」という言葉の生まれてくる余地がどこにもないからです。
 愛が生まれてくる原点には、生きているものの尊さに対する無限の信頼があります。「生きているもののすべてが尊い」と思わずに、どうして愛の気持ちが湧き起こってくるでしょうか。地球や、そこに生きている人間が、宇宙の塵にも等しい、つまらない存在であるならば、どうして愛が生まれてくるでしょうか。
 人間が、そうしたつまらない存在であるならば、この二、三千年、あるいは、それ以上の長きにわたる、文明・文化という名の営み自体が、わずか数十年だけ地上に生きる人間の慰み事にしかすぎないことになってしまいます。すべての宗教や道徳は、また、おそらくは哲学も、虚妄、世迷い言となってしまうでしょう。
 みなさんは、自分自身や他人を、そして、生きているものすべてを卑しめる、そのような思想に、心の底から共鳴できるのでしょうか。私は、それを問いたいのです。
 「いや、そうではありません。私は、人間の尊さ、生き物の尊さを信じます。その生命が無限なるものから分かれてきていることを信じます。
 人間は、一時の仮の世である、この世だけの存在ではなく、はるかなる世界に永遠のすみかを持つ存在であり、この地上に幾度も生まれ変わってきては、また去っていき、また来たる存在なのです」
 このように考えることができる人にとっては、他の人には苦悩に満ちた地上界が、きっとユートピアのごとく見え、まったく違った世界が展開していくでしょう。そのときに初めて、人生というものは、虚しいものではなく、積極的なる意味を持ったものになると思うのです。
 したがって、真実の人生を生きるためには、その出発点として、「霊的なる人生観」を打ち立てる必要があります。これなくしては、いくら議論を積み重ねたとしても、すべてが虚しくなるのです。
 それは、ちょうど、砂浜で子供が砂の城をつくるようなものです。子供の目には、その砂の城は堅固な要塞のように見えるかもしれません。しかし、やがて沖から波が寄せてきて、その上を通り過ぎたとき、砂の城は、はかなくも消え去ってしまうのです。
(14~17ページ)

唯物論的に物質のみが存在するという考え方には、「愛」という言葉の生まれてくる余地がどこにもない。

愛が生まれてくる原点には、生きているものの尊さに対する無限の信頼がある。

真実の人生を生きるためには、その出発点として、「霊的なる人生観」を打ち立てる必要がある──。

仏神によって人間が創られたという真実。

あの世があって、この世がある真実。

そして、死後も人間は永遠の生命を持っているという真実。

現代日本においては、このあたりまえの事実を認めない人生観や哲学を持っている人も、少なくないわけですが、でもそれはほんとうに虚しいものだと思います。

いま、大川隆法先生の教えに触れることができたのだから。

正しい「霊的人生観」を持ち、この世の意味をしっかりと認めて、限られた今世の生命を燃やし尽くしていきたいものだと、改めてしみじみと私は思っているのです。

愛、無限―偉大なる信仰の力 (OR books)

『愛、無限〔新装版〕

 大川隆法著


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思いには力があるって教えてもらってるけど、でも、ぜんぜん思ってるとおりにならないんだけど? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、「人間は、その人が考えているとおりの者である」「その人が考えていることを見れば、どんな人かが分かる」「その人と、その人が考えていることはイコールであり、同価値である」「その人が考えているとおりに人生は展開していく」ということを説いていますが、二十代ぐらいの人は、それを聴いても、ストレートにそうは思えず、「自分が思ったり考えたりしたとおりには、なかなかならない」と思う人のほうが多いでしょう。
 しかし、私には、二十年、三十年の歳月を経て、「ああ、それは本当だな」という実感が、ひしひしと押し寄せてきたのです。(中略)
 若いころには、客観的な材料として周りの人たちの意見等を聴いても、自分の姿を客観的に描くことがどうしてもできなかったのですが、今の私は、若いころに思っていたとおりの姿になってきています。まことに不思議です。(中略)
 本当に不思議ですが、十年単位の歳月を経なければ、それが分かるようにはならないのです。(中略)
 むしろ、十代、二十代という年代においては、自分が思い描いている理想の姿と現在の自分とが、あまりに違いすぎ、そのギャップに苦しむことのほうが多いのではないでしょうか。理想家であればあるほど、理想と現実が違いすぎ、「思ったことは、ほとんど実現しない。手の届かない高嶺の花である」という場合が多いわけです。
 また、「他の人が『よい』と思っているから、自分も目指した」というものは、結局、実現しないことのほうが多いのではないかと思います。(中略)
 ただ、心の奥深いところから繰り返し何度も出てくる思いや、「ふと気がつくと、そのことを考えている」というような思いを、心のなかに深く長く描き続けていると、いつしか、そのとおりになっていきます。そういうかたちで自己実現はなされていくのです。
 みなさんは、このことを信じたほうがよいでしょう。信じなければ、そのようにはなりません。まずは、自分の理想像を繰り返し心のなかで描くことが大事です。
 それを繰り返し心に描く力があるかどうか。それが、実は、あなたの才能でもあるのです。
 才能とは、ある分野において何事かを成し遂げるために、その人が生まれつき持っている性質や能力、気質のことですが、そうした才能がなければ、理想像を繰り返し心に描くことはできないだろうと思います。
 要するに、「理想像を繰り返し心に描く力がある」ということは、「理想像を実現するだけの才能がある」ということを意味するのです。
 やはり、理想的な自己像を繰り返し心に描く力を持っていない人が、ある職業において大きな成功を収めることはないでしょう。
 心に繰り返し描く理想像というものが、実は、人生の目的地であり、目標なのです。その目的地に向かって、人生の旅は進んでいくわけです。
 したがって、「繰り返し心に描くことができない理想像であるならば、それは変更されていく可能性が高い」と言ってよいのです。
(42~47ページ)

十年単位の歳月を経なければなかなか分からないものであるが、「人間は、その人が考えているとおりの者である」「その人が考えているとおりに人生は展開していく」というのは、本当である。

他の人がよいと思っているから自分も目指したものは、実現しないことのほうが多いが、心の奥深いところから繰り返し何度も出てくる思いを、深く長く描き続けていると、いつしかそのとおりになっていく。

それを繰り返し心に描く力があるかどうか、それが実は、あなたの才能でもある──。

うーん、ほんとうに、目からウロコです。

今日もまた、「人生における成功」のための本当に大切な秘密を教えていただいたのだと、私は改めて思っているのです。
 

未来の法―新たなる地球世紀へ (OR books)

『未来の法』

  大川隆法著


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会社経営って、利益をあげればいいんだから、信仰なんかと関係ないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『未来産業のつくり方』(幸福の科学出版)で、発明家でありトヨタグループの創業者である豊田佐吉の霊言を、次のように紹介されています。

 しかしだな、自動車だって、みな交通安全のお守りぐらい、ぶら下げとるじゃないか。お祓いもするじゃないか、なあ? そりゃあ、人命にかかわることやから、信仰心を失ったら、事故がたくさん起きるわな。悪霊に入られたら、どこで事故を起こすか分からんもんね。そりゃ、非常に大事なことやけども、「近代的なメーカーが、信仰心とか、宗教や神社のことを言うのは、格好が悪い」という世相があるわけや。(中略)
 そりゃ、「会社で、宗教をやってるように見えるのが、格好悪いんだろうなあ」とは思うんだけど、基本的には、何ていうかなあ、うーん……。
 わしが、創業者といえるかどうか、自動車の創業者ではないので、創業者といえるかどうか分からんけれども、まあ、「トヨタの祖」であることは間違いない。
 まあ、そういう信仰心に基づく、何ていうかな? 勤勉? 二宮先生のお話にもあったけどなあ、そういう……。「資本主義の精神」だよ。君ぃ! やっと出てきた。わしは、この言葉を言いたかったんや。
 要するに、「創業者は、資本主義の精神を持っとる」ということね。そして、資本主義の精神というのが、単に、この世の金儲けだけで終わったら、それはもう、天国も地獄もないんや。それだけではな。その資本主義の精神が、「神様のために、この世を明るくし、よくするために、頑張っとるんじゃ」というようになることが大事なんだな。(中略)
 まあ、今、「社是で信仰心を掲げる」っちゅうのは、ものすごく勇気の要ることやろうから、なるべく引っ込めたいやろうなあとは思うけどな。
 いや、もう、「豊田佐吉の霊言」を出すしかないで! それ以外、方法はないわ。「豊田佐吉の霊言」を出して、本の扉か帯のところに、「やっぱり信仰心が大事だ。これがなかったら、会社の発展はない」と、こう豊田佐吉の言葉を入れて、売らないかんやろうね。
 ちょっと、引き締めんといかんかもしらんな。ま、幹部に要求するのは、ちょっと無理はあるかもしらん。今は、どっちか言うたら、「個人個人の問題だ」と考える気があるからね。「そうするのが現代的だ」と思うところがあるからね。
 ただ、私みたいに、インスピレーションっちゅうか、ひらめきをたくさんもらっとった人間は、神様を非常に近く感じておったのよ。うん。そういうところは、あるわなあ。(中略)
 世界に出て、世界一の企業になるためには、やっぱり、信仰心が必要や。「無宗教・無神論の企業が世界一になる」ちゅうのは、恥ずかしいことだよ。そんなの世界に通じません。先進国にも後進国にも通じません。ええ。(中略)
 やっぱり、信仰心があるのが、世界標準で、今の日本がおかしい。アメリカの企業なんて、利益の一パーセントぐらいだっけ? よく、宗教とか、慈善団体とか、NPOとかに寄付をして、活動を支えてるよな。そのように、しっかり儲けて、儲けた利益の一部を「分福」していく気持ちかなあ。それは持っていないといかんと思うな。
(98~108ページ)

豊田佐吉は、インスピレーションを天上界から数多く受けていた発明家として、在世中にも神様を非常に近く感じていた。

世界に出て、世界一の企業になるためには、信仰心が必要であって、それが世界標準である。

「やっぱり信仰心が大事だ。これがなかったら、会社の発展はない」──。

天上界に還っておられる、トヨタグループの創業者・豊田佐吉は、企業経営における信仰心の大切さを、このように自分の言葉で切々と説いておられます。

トヨタグループで仕事をしている方は、正社員だけでも何十万人もおられると聞きます。

その一人でも多くの方が、この「トヨタの祖」の言葉を、真正面から受け止めてくださればと私たちは思っているのです。

未来産業のつくり方―公開霊言豊田佐吉・盛田昭夫 (OR books) 『未来産業のつくり方』

 大川隆法著


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オレって、学歴高いんだよ。受験のときすごかったんだよ。でも、出世できないんだよね。これって、社会がおかしいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『不況に打ち克つ仕事法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ところで、世の中では、受験秀才は出世しやすいように思われていますが、受験秀才であっても、出世しない人もいます。そういう人を見ていると、だいたいの共通項として、一つには「気配りができない」ということがあります。勉強ができても、気配りができない人はやはりいるのです。
 次は、「勘が鈍い」ということです。こういうタイプもいます。勉強ができて、参考書の内容を覚えたり、問題集を解いたりすることはできても、勘の鈍い人はいるのです。
 さらには、「イマジネーション(想像力)がない」ということが挙げられます。およそ、この三つに尽きると言えます。
 このような、「受験勉強ができて学歴が高く、周りの人から期待されているのに、仕事ができない」という人は、率的に見ると、五割は超えませんが、三割ぐらい、あるいは、もう少しいるかもしれません。「この世的に学力がある」と評価された人のうち、六、七割ぐらいの人はそれなりの仕事をしますが、一定の率で、どうしても“空振り”をする人がいるわけです。(中略)
 「自分は、これほど高学歴なのに、どうして人の評価が低いのかな」「昔は、あんなに勉強ができたのに、どうして成功しないのかな」と思うのであれば、まず、自分は気配りができているか、点検する必要があります。(中略)そういう人のなかには、イデオロギー性の非常に強い人がいます。
 例えば、マルクス・レーニン主義を信奉している政党の人たちが、そうです。戦後、資本主義が発展し、繁栄した国の一つである日本というところで、その思想を当てはめたならば、結論がすべて反対になることがあります。(中略)
 このタイプの人のなかにも、よく勉強した人はいます。共産主義や左翼系の哲学を勉強したような人です。ただ、「そうした勉強がよくできる」ということと、「現実世界に、その考え方が合っているか」ということとは、別の問題なのです。(中略)
 次に、書類仕事に関しては、非常に判断が速いし、仕事も速いのですが、「この人は何だかもの足りないな」と思える人がいたならば、その人は、だいたいイマジネーションがありません。
 書類はつくれても、例えば、「この仕事を実際にやってみたら、どうなるか」「この書類に基づいて、大勢の人が動き、お金を使った結果、どうなるか」ということが想像できないのです。(中略)受験勉強においては、瞬間的判断を要求されることが多いので、受験的に頭がよい人は、そういう能力は持っています。しかし、「判断したあと、どうなっていくのか」ということについては、あまり教育されていないので、そこで躓(つまづ)きが起きやすいわけです。
 もし、「自分は頭がよい」と思っているのに、不遇をかこっている人がいたならば、「自分は、人に対する気配りができないのではないか」「勘が鈍いのではないか」「イマジネーションがないのではないか」ということを振り返っていただきたいのです。この三つを点検したら、必ずどれかに当たります。
(185~191ページ)

受験勉強ができて、学歴が高く、周りの人から期待されているのに仕事ができないという人は、実際に何割かはいる。

そういう人たちには、第一に、気配りができないこと、第二に、勘が鈍いこと、第三に、イマジネーション(想像力)がないこと、のいずれかの特徴を必ず持っている。

第一の気配りができない、という中には、イデオロギー性が非常に強い人が入っていることもある──。

うーん、まわりの人を見渡してみると、すごい難関校を出てるのに、仕事ができないなあ、という人が、何人か思い浮かびます。

そして、よくよく考えてみると、その人たちは、たしかに、この3つの特徴をだいたい持っているようです。

じゃあ、どうしたらいいの? と聞きたくなるわけですけど、その対策については、また次の機会に!

不況に打ち克つ仕事法 (OR books)

『不況に打ち克つ仕事法』

 大川隆法著


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不況だよね。お金持ちの人はおいといて、こんなときに庶民が繁栄するための方法って、ないのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『石田梅岩の庶民繁栄術──弱者救済への幸福論』のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。

まえがき
 江戸時代に一風変わった教えがはやった。宗教というほどではないが、思想を含んでおり、仏教、儒教、神道、道教などをベースにしつつ、勤倹貯蓄し、商売繁栄する道を説いた人、その人を石田梅岩といい、その教えを石門心学、あるいは単に「心学」と称する。
 私は若い頃、ニューヨークに学んだことがあり、書店巡りをすると、必ず自己啓発のコーナーがあって、庶民のための繁栄哲学が山積みされていた。「通俗哲学」と一般には軽く見られがちであるが、平凡人にとって大切なのは、カント以来の大哲学よりも、「心の持ち方」や「生きていく技術」といった実用レベルまで降りてきてくれる哲学だ。私もこの種の恩書に接してきたので、幸福の科学の教えも、実用性や有用性を片時も忘れずに説いている。本書を読んで、日本民族の独自性、偉大性に気づき、西洋化のみが現代の繁栄をつくったのではないことを知って下されば幸いである。

あとがき
 「弱者救済への幸福論」と副題を付けて、今はやりの「福祉国家」や「税と社会保障の一体化」の根拠になるような日本思想を求めてみたのだが、結果は、二宮尊徳の教えとそうかわらず、石田梅岩も棚からボタ餅型の経済繁栄術は説かなかった。凡人が成功するのは、やはり、かなり厳しい道なのだ。常に心の修養を怠らず、せっせと節倹、貯蓄に励み、一歩一歩大業に近づいていく。これがやはり王道なのだ。
 情緒的に弱者に優しいだけではだめで、やはり心の力を鍛え抜き、自分の将来に備える力を身につけた人が、他の人を導ける存在となるのだ。この経済的繁栄の原点は、私の若い頃から心がけていたものと同じである。
 この国が峠を下るか、まだ登るかも、この一点にかかっている。
(1~2、126~127ページ)

日本には、江戸時代には「心学」があったのであり、西洋化のみが現代の繁栄をつくったのではない。

常に心の修養を怠らず、節倹、貯蓄に励み、一歩一歩大業に近づいていくのが王道である。

情緒的に弱者に優しいだけではだめであり、心の力を鍛え抜き、自分の将来に備える力を身につけた人が、他の人を導ける存在となるのだ──。

大川隆法先生が紹介される偉人たちの教えは、やはり、とても堅実で、とても納得できるものだと思います。

これらの霊言集で初めてお名前を知ることができた方の思想も、地道にひとつひとつ自分のものにしていきたいものだと、改めて私は思っているんどえす。

石田梅岩の庶民繁栄術―弱者救済への幸福論 (OR books)

『石田梅岩の庶民繁栄術』

 大川隆法著


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新しい時代なんだから、過去のエリート像と違う、まったく新しいエリート像って、あるんじゃないかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学学園の創立者でもある大川隆法先生は、『教育の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本ではエリートの定義が間違っています。
 東京大学の卒業生や在学生、その前段階であるエリート進学校の在学生等を見ると、「ミスを恐れる心」「事なかれ主義」「まったく失敗をせず、通り過ぎることをもって幸福とする考え方」が蔓延しています。これでは駄目です。新しい時代には、こういう人たちはエリートとは言えないのです。
 新しい時代のエリートたちは、失敗を恐れず果敢に挑戦して、未来を拓いていこうとする人材でなければいけません。
 人の批判を恐れるようであってはいけません。新しいことをやろうとすると、たいてい批判が出るのです。
 批判を恐れ、「批判をされないように生きることが優等生の生き方である」と思うなら、それは、「この国に対しても、世界に対しても、何ら貢献をするつもりはない」ということを意味しています。
 したがって、批判に怯まず、信念を貫き通すような人材をつくり出していかなければなりません。
 では、勇気は、いったい、どこから湧いてくるのでしょうか。
 その根本にあるものは何であるかというと、やはり信仰心であると私は思うのです。信仰心を持っていればこそ、さまざまな批判、世間の波風に耐えることができるのです。
 「地球全体の幸福をつくり出そう」と強く念じるならば、地球を指導している神仏への信仰心を根本に持たなければ駄目です。
 そういう信仰心を持ったエリートを育てなければ、この国に未来はなく、また、世界にも未来はないと思わなければなりません。
 未来はまだまだつくり出していくことができます。新しい未来をつくり出そうとする「努力」によって、また、今までのやり方にとらわれることなく、新しいやり方に堂々と挑戦していく「勇気」によって、つくることができるのです。
 今、エリートと言われる秀才たちのほとんどが、今までのやり方を変えることを怖がり、旧態依然としたこと、すなわち、「前はこうだったから、今もこうする」ということを繰り返し行っています。そういうタイプの人が非常に多くいるのです。
 したがって、私は、「あえて、新しい挑戦をしていく」ということを勧めたいのです。
(233~236ページ)

ミスを恐れることなかれ主義、失敗せず通り過ぎることで幸福とする考えが蔓延しているが、新しい時代には、これではエリートとは言えない。

新しい時代のエリートたちは、失敗を恐れず果敢に挑戦して、未来を拓いていこうとする人材でなければいけない。

人の批判を恐れない勇気の根本にあるのは、やはり信仰心であり、地球全体の幸福をつくり出そうと強く念じるならば、地球を指導している神仏への信仰心を根本に持たなければならない──。

信仰をもっているからこそ、新時代のエリートになれるのだ、と大川隆法先生は教えられます。

そして、世を変えていこう、自分が地球の幸福をつくり出す一翼を担っていこう、そう強く念じて、失敗を恐れず新しい挑戦をしていく、勇気ある若者たちが地に満ちることを強く願っておられます。

成果を上げつつある2つ幸福の科学学園を先頭にして、日本の教育をぜひともそういう理想的な方向へと変えていきたいものだと私は心から思っているのです。
 

教育の法―信仰と実学の間で (OR books)

『教育の法』

  大川隆法著


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今日は、昨日に続いて、憲法の「信教の自由」の規定について、第二弾です。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)で、昨日引用した部分に続いて、こう説いておられます。

 また、憲法の後ろのほうには、「宗教団体や私立学校などには、資金援助をしてはならない」という趣旨の条文がありますが(第八十九条)、国は私学助成金を出しています。これは文部科学省が私立学校などを支配するために必要なのでやっているのです。(中略)
 これは、逆に言うと、この憲法の条文が宗教の範囲を制約して縛っているように見えます。すなわち、「神、仏は、教えのなかで、政治については説いてはならない」と言っているように読めるのです。
 しかし、日本神道という宗教を見るかぎり、長らく政治とは一体であったと思います。もちろん、天皇が教祖だったと思いますが、ほかの宗教でも、そういうことはたくさんあります。
 したがって、憲法によって、「宗教家は、政治に関する発言はできない。あるいは、神は、政治思想や政治行為について、何も発言してはならない」と、“神の口封じ”を命じているということであれば、これはやはり、少しおかしいのではないかと思います。
 神が政治や経済について発言したならば、それを受けて行動するのが信者として当然のことであって、「信教の自由」を保障している以上、当然、それは起きうることであるのです。
 その神が、政治に関心のない神であれば、政治以外の話をしていても、それはかまわないし、そういう宗教があってもよいけれども、政治や経済や国際情勢について発言する神も、世の中にはいるわけです。
 「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然、ありうるのです。
 アメリカにも、かたちだけは政教分離規定がありますが、現実には、アメリカの大統領は、『聖書』に向かって宣誓をしています。オバマ大統領の就任式でも、宗教家が出てきて前に立ち、オバマ氏は古い『聖書』に向かって宣誓していました。やはり、きちんとそういうことをやっています。
 さらに、アメリカでは、(中略)現実には宗教が活発に政治活動をしています。自分たちの代表を大統領なり議員なりにしようという運動をしているのです。そういう意味では、今、メガチャーチが非常に大きな権力を行使しています。
 政治的制度としてではなく、圧力団体としては、いかなるかたちの存在もありうるので、宗教が一定の圧力団体として意見を言うことは当たり前のことです。自分たちの団体の利害にかかわることを、政治的に発言できないのはおかしいということです。
 宗教と政治は、原理的には、やや違う点はあると思うので、別組織をつくりながらやっていくのがよいと思います。ただ、「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家と言わざるをえず、基本的に間違っていると思います。
 さらに、宗教教育はやはり大事であると私は思うので、第八十九条の文言はカットすべきだと思います。
(69~72ページ)

憲法の「信教の自由」は、条文のつくり方が混乱を呼んでいる。

「信教の自由」を保障した本文のあとに、付帯条項で「してはならない」という文言がたくさん付いているため、「宗教活動はしてはならない」と言っているように読めるのが、宗教迫害の材料になっている。本文以外は不要である。

「宗教団体や私立学校などには資金援助をしてはならない」という趣旨の条文は、間違っているので、削除すべきである──。

憲法について、かなり大胆な改正の提言がなされていることが分かります。

大川隆法先生は、その考え方の延長線上に、『新・日本国憲法試案』を発表されたのだと改めて私は腑に落ちた気がしているのです。

幸福実現党宣言 -この国の未来をデザインする (OR books) 『幸福実現党宣言』

 大川隆法著


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憲法には、信教の自由が保障されてるんでしょ。日本の憲法って、けっこういいんじゃないの? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 第十九条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という条文があって、さらに、駄目押しのように、第二十条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」(第一項)、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(第二項)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(第三項)とあります。
 この二十条のつくり方が、かなり混乱を呼んでいると思います。
 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」というだけなら、それでよいのです。
 ところが、そのあとに、付帯条項で、「してはならない」という文言がたくさん付いているために、結局、「宗教活動はしてはならない」と言っているように読めるのです。
 国や公共団体に関しては、「一切、宗教活動に触れてはならない」というタブーのようになっていて、事実上、「宗教については、国や公共団体は何もしないから、宗教だけで勝手にやってくれ」と言っているように見えなくはないのです。
 これを善意に解釈し、「宗教間の自由競争に任せるのだ。言論の自由と同じで、宗教が勝手に競争すればよいのであって、国は関与しないのだ」と捉える見方もあろうかと思いますが、この書き方から見るかぎり、やはり、迫害の材料になっていると言わざるをえません。
 例えば、第二十三条を見たらよいのです。「学問の自由」に関して、「学問の自由は、これを保障する。」という一行で終わっています。これと同じでよいのです。「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」ということだけで終わればよいのです。あとは要りません。
 あとのことについては、「こういう場合には、こうする」というものを、法律か何かでつくればよいのであって、憲法に入れるべきではありません。こういうものを入れるから、「公立学校で宗教教育をしてはいけない」と言ったり、左翼のほうが非常に強くなったりするのです。
 「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものではあるのですが、条文を正確に読むならば、今の天皇制自体も、これに当たるわけです。
 天皇自体は、日本神道の最高の祭司、神官であり、儀式を行っています。
 例えば、天皇家では、先の天皇が亡くなったら、「殯(もがり)」といって、その亡くなった天皇の遺体を棺桶に入れて祀り、次の天皇はその隣で一緒に寝たりしなければいけないのです。これは明らかに宗教行為です。弥生時代か縄文時代から続いているような儀式ですが、そういうことをやっています。
 天皇家は、こうした政治には関係のない宗教行為を幾つか行っています。これは、れっきとした宗教行為です。したがって、現実に特権を受けています。
(65~68ページ)

うーん、今日は憲法論でむずかしくって、簡単にまとまりません。明日に続きます…。

幸福実現党宣言 -この国の未来をデザインする (OR books) 『幸福実現党宣言』

 大川隆法著


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人生観にはいろいろあるんだから、正しい人生観なんて、あるわけないよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『救世の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 どうか、正しい人生観を持っていただきたいのです。正しい人生観に基づいて生きていただきたいのです。それが、後悔しない生き方なのです。
 「死んでからあと、死後の世界があります。
 あなたの本質は肉体ではありません。肉体のなかに宿る精神的存在、魂、別の言葉で言うならば、心と呼ばれているものが、あなた自身の本質です。
 その事実をもとにして、現在ただいまの生き方を考えてください。そうすれば、残された人生において、あなたが道を間違うことはないでしょう」
 私は、そう申し上げているのです。
 その真実の人生観から見たとき、過去の何十年かの生き方を振り返って、それが、もし、誤っているならば、間違っているならば、今こそ、それを反省し、正しい道に入るべきなのです。
 今がチャンスです。手遅れになる前に、早く真実に目覚め、真実の人生を生き切ることです。
 幸福の科学では、「病気が治る」という奇跡は、全世界で、いくらでも起きています。今後も数多く起き続けるでしょう。
 真実の世界に目覚めたときに、「この世は仮の世界であり、自分の肉体が本当の自分ではない。自分の人生の主人公は、自分の肉体のなかに宿る心というものなのだ」ということに目覚めたときに、奇跡が起きるのです。
 あなたが、偽物の自分を「自分だ」と思っていた人生を変え、本物の自分自身を見つけたときに、あなたを取り巻く環境は変わってきます。
 自分ではないものを「自分だ」と思っていたために、今、いろいろな苦しみがあるのです。
 偽物の自分を捨てて、本物の自分をつかんでください。
 そして、本物の自分をつかむためには、どうしても、どうしても、仏法真理に触れる必要があるのです。
(181~183ページ)

死んだあとには、死後の世界がある。人間の本質は、肉体ではなく、そこに宿る精神的存在、魂や心と呼ばれているものである、というのが正しい人生観である。

この正しい人生観に目覚め、本物の自分自身を見つけたとき、あなたを取り巻く環境は変わってくる。たとえば、病気が治るような奇跡は、全世界で、いくらでも起きているし、今後も数多く起き続けるだろう。

そして、本物の自分をつかむためには、どうしても、どうしても、仏法真理に触れる必要があるのである──。

このブログの読者のみなさんは、少なくともこのブログを通して、もうすでに仏法真理に触れておられるわけです。

そして、ここにいう正しい人生観についてのお教えにも、一度ならず触れておられるのではないでしょうか。

問題は、その先ですが、みなさんはみなさんなりの「奇跡」を、もう体験されたでしょうか?

仏法真理をつかんだらつかんだだけのその人なりの奇跡がその身に及ぶ、というのが、悟りの世界の不思議さであり、また凄さであろうと思います。

神々の声をストレートに伝えられる救世主(仏陀)がこの現代日本に降りられ、法を説いておられる奇跡の時代。

一人でも多くの方が、その教えに触れ、実践し、本物の自分をつかむという「幸福」を真に味わっていただきたいものだと改めて心より私は思っているのです。
 

救世の法―信仰と未来社会 (OR books)

『救世の法』

  大川隆法著


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日本って、最近、なんだか残念な国なのかなって感じだけど、でもほんとにそうなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本人はもっと胸を張ってよいのです。日本は意外に進んでいるのです。
 環境問題等についても日本は先進国です。
 私の若いころ、一九七〇年代は、公害がひどく、「公害で人類が滅びるのではないか」と言われていました。
 当時は、至る所で、工場から工業排水が垂れ流され、川の水は汚染されていました。その結果、生まれてくる子供が障害を負ったり、さまざまな動物に奇形が発生したりし、また、空は工場の煙で真っ黒になっていました。
 「このままでは、人類は公害で滅びるのではないか。世紀末現象とは、実は『公害で滅びる』ということではないか」と、マスコミも大騒ぎしていました。しかし、気がつけば、いつの間にか、公害問題は乗り越えていたのです。
 これは、「企業努力」によって乗り越えていったものです。
 「公害を出さないようにしよう」と、各企業が工業排水や煙から有害物質を取り除くように工夫しながら、一生懸命にコストダウンも図り、乗り越えていったのです。その結果、川の水はきれいになり、魚が戻ってきたわけです。日本における環境問題への取り組みは、企業が自主的に行ってきたことなのです。
 この部分は、今後の中国もまねをしていかなければならないところでしょう。現在、中国の川は、工業排水が垂れ流されていて、泥のように濁っています。このままでは、これからも奇形の魚が出てくるでしょうし、人間にも数多くの病気が流行ってくることでしょう。インドについても、おそらく同様のことが言えます。(中略)
 日本には、他の国々に教えるべきものがたくさんあります。(中略)少なくとも、中国やインド、アジア諸国の人たちにとってのモデルは日本にあるだろうと思います。日本をまねしたらよいのです。
 また、中東の砂漠地帯やアフリカのイスラム圏の人たちにも、今後、自国をどのようにしていくべきかを考える際に、「アメリカモデル」で行くかどうかという問題があります。
 彼らは、「キリスト教文明」対「イスラム教文明」で、けっこうやり合っているため、そのままストレートに、キリスト教文明に“帰依”したいとまでは、なかなか思わないでしょう。(中略)そのため、どちらかといえば、日本のほうに親近感を持っていると思われるのです。
 今、オバマ大統領が、「イスラム圏」対「アメリカ」の戦争や、「イスラム圏」対「イスラエル」の戦いなどについても調停型で対応しようとしていますが、現実にそれができるのは、アメリカではなく日本だろうと思うのです。
 イスラム圏から見たら、日本は、彼らと同じく有色人種の国です。しかも、強大な兵器を所有して世界に戦争を仕掛けることができるアメリカとも友好関係を持っているため、彼らもそれなりに日本を尊敬しているところがあります。
 したがって、そうした対立の調停を買って出られる国は、実は日本なのです。日本は、その橋渡しをすべき立場にあるのです。
(200~204ページ)

日本は意外に進んでいるのだから、日本人はもっと胸を張ってよい。

たとえば日本は、環境問題をはじめとして、他の国々に教えるべきものがたくさんある。少なくとも、中国やインド、アジア諸国にとってのモデルは日本にある。

また、中東やアフリカのイスラム圏とアメリカの対立の調停を買って出られる国は、実は日本しかない──。

本書は2009年に出版されたものですが、2022年のいま読んでも、なるほど、なるほどと思えます

私自身の経験ですが、ちょっとした海外旅行をしたとき、外国からみて、日本って、なんていい国なんだろうと思ったことがありました。

今日のお教えを受けて、この日本が世界の中で果たすべき重要な役割、そしてその国民としての私たちは何ができるのかを、もっとしっかりと考えなくてはならないと、改めて私は思っているのです。

日本の繁栄は、絶対に揺るがない―不況を乗り越えるポイント (OR books)

『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』

 大川隆法著


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ときどきいると思うんだけど、育ちがよすぎるリーダーって、どうなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 もう一つ、育ちがよすぎる人も要注意です。
 それは、たとえば、名家と言われるような、よい家に生まれた人です。
 人からうらやまれるような、何代も続いた財産家の家系や、何代も続いた秀才の家系など、日本の名家には、いろいろな家があるでしょう。「家柄がとてもよい」という家もあれば、「お父さんも偉かった。おじいさんも偉かった。ひいおじいさんも偉かった。その前の、江戸時代の人も偉かった」という家もあるでしょう。
 こういう家に生まれた、育ちのよい人が、リーダーとして来たときには、注意したほうがよいのです。彼らには、押しなべて、冷たいところがあるからです。
 彼らは、他の人に対して、あまり恩義を感じません。他の人が一生懸命に努力し、頑張って協力しても、そのときだけは、その事実を見てくれますが、すぐに忘れてしまいます。育ちがよすぎる人は、人からほめられることに慣れすぎているので、ほかの人が努力して“獲物”を獲ってきても、その努力の部分が分からないのです。
 たとえて言えば、「鵜飼いの鵜が、一生懸命、川に潜って鮎を獲ってきても、鵜匠のほうは、獲った鮎を見て、『きょうは十匹か。まあまあだな』と思う。そして、それ以上のことは考えない」というような感じに近いのです。
 彼らは、こちらが一生懸命に恩を売ったつもりでも、それを分かってくれないことが多いのです。
 才能がありすぎる人や育ちがよすぎる人をリーダーに持ったときには、そういう弱点に気をつけてください。
 みずからに才能がありすぎる人、「小さいうちから才能があって、サーッと上がってきた」という人や、「家柄がよくて、親の力などによってパーッと上がってきた」という人には、そのようなところがあります。
 政治家でも、「何代も続く政治家の家に生まれた」という人がいます。ほかの家、たとえば農家に生まれた場合、個人で選挙に出られるかといえば、普通は、なかなか出られませんが、政治家の家に生まれると、「親の七光りによって、二十代で政治家になれ、四十代で大臣になれる」ということがあります。ところが、そういう人は、それを自分の実力だと思い、ほんとうは自分より実力の高い人を低く見てしまったりするのです。
 そのような人に一生懸命に尽くしても、あとで裏切られることがあります。
 その辺については、自分がそういう政治家である人も、そういう人に仕えている人も、よく知らなければいけません。だいたい、そのようなものなのです。
 また、名家には、昔で言えば歴代の王朝につながる家もあれば、代々、学者が出ている家もあるでしょうが、そういう家の人をあまり信用しすぎてもいけない面があります。
(240~243ページ)

たとえば名家と言われるような、よい家に生まれた育ちのよい人がリーダーとして来たとき、彼らには、押しなべて冷たいところがあるから、注意したほうがよい。

育ちがよすぎる人は、人からほめられることに慣れすぎているので、ほかの人が努力して“獲物”を獲ってきても、その努力の部分が分からず、あまり恩義を感じない。

こちらが一生懸命に恩を売ったつもりでも、それを分かってくれないことが多いという弱点があるので、気をつけたほうがよい──。

たとえば、高い学歴で何代も続く政治家一家の出身として知られる、鳩山元首相などを念頭に置くと、とても腑に落ちるお教えではないでしょうか。

育ちがよいと自負しておられる方は、自らの弱点を認識するために。

またそんな方を上司に持ってしまった方は、人生の荒波を乗り切るために。

今日のお教えは、よりよい人生を生きるための大切な智慧の一つになると私は思っているのです。
 

希望の法―光は、ここにある

『希望の法』

  大川隆法著

 

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学校に行けなくなっちゃた子がいるんだけど、これって病気なのかな。どうしたらいいのかな? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊性と教育──公開霊言 ルソー・カント・シュタイナー』(幸福の科学出版)で、「シュタイナー教育」で有名なルドルフ・シュタイナーの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 私は、基本的に、「すべての人が、一クラス四十人の学級で教育を受けて、大人になっていける」というようなことが実際にありえたらおかしいと思っています。そんなはずはないと思いますよ。(中略)
 野菜であれば工場で栽培ができるでしょうが、動物の場合はなかなかそうはいかないし、牛のように家畜小屋に閉じ込め、乳だけを絞るというわけにはいかないと思います。やはり、放牧されている姿が自然の状態でありましょうし、柵を越えていくものもいれば、牛舎に帰ってこないものもいると思うんですよね。まあ、それが動物の特徴です。
 元気な盛りに、すべての人を同じカリキュラム、同じスタイルで縛りつけるのは、そうとう難しいと思うので、学校に不適応を起こす人が一定の比率で出るということは、当たり前だと私は思いますね。それを、「あってはならない不自然なことだ」と考えるほうが健全でないと思います。
 ですから、「同じようなカリキュラム、同じような生活のスタイルには、とてもついていけない」という子が出てくることを前提にして、そうした子たちが生きていける道をつくっておくことが大事です。
 集団生活ができずに、不適応を起こすから、そうした人たちが駄目かと言えば、全然、そんなことはないわけです。そういう人たちのなかに、他の人と違う異質な目を持った人、異質な才能を持った人、先見的な目を持った人などがたくさんいらっしゃいます。
 もちろん、同学年についていけず、遅れる人もいるとは思いますが、そのなかには、型にはめることができないようなスケールの大きな方もいらっしゃるわけです。
 だから、学校教育というのは、まあ、八割ぐらいが満足してくれればいいほうで、やはり、「二割ぐらいはみ出しても、当たり前だ」と思わなければいけません。 
 その残りの二割に関しては、それぞれの向き不向きに合わせた受け皿を多角的に研究していくことが、教育の使命だと思いますね。それは、フリースクールのようなものでも、あるいは才能教育のようなものでも構わないと思うのです。(中略)
 今は、高等学校でも、勉強はそうとう難しいと思います。全教科を三年間勉強するのは、本当に、大変つらいことだと思うんですよね。
 だから、「全教科をやるのがとても嫌だ」という子の場合には、いっそのこと好きな教科だけを勉強してもいい学校や、あるいは専門学校のようなものに入れても構わないと私は思うんです。それだけでも、十分、役に立ちますのでね。(中略)
 そういう人たちが一定の比率で出てくることを許容するだけの力が、社会になければいけないと思います。「全員が全員、“サラリーマン予備軍”として、育てられることが幸福だ」とは、私は思わないですね。
 義務教育は中学までのはずですが、今では、高校もほぼ全入制になっていて、同じ教育で縛られています。さらに、大学まで全入制にしようとしているようですが、それが、必ずしも、人類の幸福になるとは思えないのです。やはり、義務教育をやっていいのは、せいぜい、中学ぐらいまでです。
(136~142ページ)

人間も動物である以上、学校に不適応を起こす人が一定の比率で出るのは、当たり前である。

だから、同じようなカリキュラムや生活のスタイルについていけない子が出てくることを前提にして、そうした子たちが生きていける、たとえばフリースクールや才能教育のような道をつくっておくことが大事である。

そして、義務教育をやっていいのは、せいぜい中学ぐらいまでである──。

こういうふうにハッキリ説かれると、目からウロコですよね。

画一的な学校教育についていけない子は、むしろ一定比率でいるのが当たり前だというのが、ルドルフ・シュタイナーの意見です。

そうすると、戦前にはかなり多様な学校教育の仕組みがあったのに、戦後、画一化が進みすぎたことが、いまの不登校の問題を生んでいる原因の一つではないかと思えてきます。

そなふうに考えてみることで、教育の世界がこれから向かうべき一つの方向性が、見えてくる気が私はしているのです。


霊性と教育 (OR books) 『霊性と教育──公開霊言 ルソー・カント・シュタイナー』

 大川隆法著

 

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