ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



仕事に命をかけるって? って記事があったけど、第一に、という書き出しだったよね。続きがあるんでしょ。第二は、どうなってるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仕事と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 仕事に命をかける第二の方法として言っておきたいのは、やはり熱意こそが最重要事であるということです。
 世の中には、「この人はずいぶん頭のよい人だな」と思える人がたくさんいます。ところが、そうした人が、仕事という面で見て、非常にすばらしい立派な仕事をしているかというと、必ずしもそうではありません。それだけの仕事をしていない、それだけの地位に就いていない、それだけの報酬をもらっていないので、「こんなに頭のよい人が…」と思うことがよくあります。私はそれが不思議になって、「なぜなのだろうか」と、よく観察してきました。
 その結果、得られた結論は、熱意が足りないということでした。どれほど頭のよい人であっても、熱意がなければ道は開けません。熱意があればこそ、その仕事に磨きがかかるのです。
 陶器を焼く場合、たとえ、どのような名陶器職人が焼いたとしても、その粘土がいくらよかったとしても、その上薬がいくらよかったとしても、その模様がいくらよかったとしても、窯の火の熱が足りなければ、よいものは焼けず、よい陶器は決してできません。
 よい色艶を出し、みごとに焼き上げるために必要な火が、熱意なのです。この熱意なくしては、いくら材料がよくとも、いくらデザインがよくとも、一級のものはできないものなのです。
 イエスがあれだけの仕事をしたのも、熱意があったからでしょう。また、ソクラテスは頭のよい人だったでしょうが、あれだけの大きな名前を人類史に遺したのは、やはり熱意があったからでしょう。孔子があれだけの仕事をし、諸国を巡りながら教えを説きつづけた原動力は、やはり熱意にあったのでしょう。
 釈尊があれだけ大きな仕事を遺せたのも、熱意があったればこそのことでしよう。頭のよい人のことを、「お釈迦様のようだ」と昔はよく言ったわけですが、頭がよいだけでは、あのような大きな仕事はできないものです。結局、熱意が勝っていなければだめなのです。
 どんなにすばらしいものであっても、埋もれてしまえばそれまでです。埋もれさせないで、最後の磨きをかけ、輝きを生み出すのに必要なものが熱意なのです。
 仕事には体力も必要でしょう。知力も必要でしょう。しかし、すべてに勝るものは熱意です。熱意のある仕事こそが、ほんとうに道を開いていくものなのだということです。熱意なきときには、決してよい仕事はできません。
 これは会社仕事だけについて言っているのではありません。家庭に目を転ずるならば、主婦の仕事ひとつをとっても、そのとおりなのです。熱意を持って家事を切り盛りし、夫を支えている主婦があればこそ、夫は職場に出て獅子奮迅の活躍ができるのです。(中略)
 このように、熱意はすべてに勝る宝だということを、忘れないでいただきたいと思います。
(36~40ページ)

仕事に命をかけるために二番めに大事なのは、熱意であるのだ──。

考えてみると、熱意って、若者が一番持ってるものかもしれないって、思いませんか?

若者の財産って、知力とか体力だったりするのかもしれません。

でも、持って生まれたそんな能力を超えて、熱意でもって、道を開いて行きたいものだと私は改めて思っているのです。 

 

『仕事と愛』

 大川隆法著

 

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臓器移植が盛んになってきていて、臓器が売買されてるって話を聞くことがあるんだけど、これってどうなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 それから、懸念されることは、やはり、臓器ビジネス、臓器の売買です。これによって、闇の世界がかなり広がりつつあります。地獄的なものが、かなり広がっています。
 臓器は貴重なものなので、高く売れます。そのため、闇取引がかなり流行っているのです。
 東南アジアでは、生きている子供の腎臓の片方を取って売る親が出てきています。貧しい家では、子供の臓器を売る親も出てくるのです。今後、そういう闇の取引、非合法の売買も増えていくでしょう。怖いことです。
 そのような思想がまかり通るのであれば、たとえば、死刑囚に対して、「×月×日×時に電気椅子で処刑された」ということにして、現実には麻酔をかけて臓器を切り取ってもかまわないことになります。「電気椅子にかけられて死んだ」ということにすれば、新鮮な臓器を取れるのです。「どうせ、その時刻に死ぬのだから、同じことだ。だから、臓器を取ってしまえばよい」というわけです。
 そういうことだって起きるでしょう。
 「本人に、『死んでもよい』という自殺の意志があり、臓器を提供する意志もある」という場合の臓器ビジネスも流行ってくるかもしれません。
 「生きたい」という人間の欲望に付け込んで、臓器が何百万円や何千万円といぅ値段で取引される商売が始まると、やはり、穢(けが)れが入ってきます。
 仏教的には、布施について、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」ということがよく言われています。布施をする人、布施を受ける人、布施するもの、この三つにおいて、どれにも穢れがないこと、執着がないことが大事なのです。
 この基準で見ると、布施をする人、すなわち、臓器を提供する人が、まだ、臓器に執着したり、この世に執着したりしている場合には、そこに穢れがあります。
 また、施物(せもつ)、すなわち臓器そのものも、そういう闇のビジネスで取引されていると、そこに大変な穢れが発生します。
 さらに、臓器を受ける本人や家族のほうも、唯物論的に、ただただ「寿命を延ばせばよい」と考え、物だと思って臓器をもらうようであれば、そこにも穢れが生じます。
 脳死状態は突然にやってくるため、しかたがない面はあるのですが、ほんとうは、「真実の世界を知った上で、『私の臓器を、この方にあげたい』という気持ちがあって、臓器を提供する。そして、安らかに死んでいき、執着なしで天国に還っていける」というかたちがよいのです。
 そのかたちになるのならば、三輪清浄が成立する可能性はあると思います。
 しかし、現実を見ると、「それは、かなり厳しいのではないか。そこまで悟った人が、この世に、それほどたくさんいるだろうか」と感じます。(中略)
 したがって、「臓器移植には、けっこう厳しいものがある」と私は述べているのです。(79~83ページ)

布施については、仏教的には「三輪清浄」が必要とされる。

つまり、布施をする人、布施を受ける人、布施するもの、の三つにおいて、どれにも穢れがないこと、執着がないことが大事である。

同様に、臓器移植でも、臓器を提供する人、臓器を受ける人、移植される臓器、の三つに穢れがないこと、執着がないことが大事である──。

そう考えたときには、この「三輪清浄」の条件を満たした臓器移植は、現実にはかなり厳しいと認識しておく必要があるのだと私は理解しているのです。

 

『復活の法』

 大川隆法著



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親子って、別の魂なんでしょ。遺伝子がなんとかいっても、別の魂なんだから、性格まで似てる必要なんてないじゃない。どうして似てることが多いの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ティータイム』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 子供が両親を選んで生まれてくる場合、大部分のみなさん、おそらく八割以上のみなさんにとって、一つの法則があります。
 それは、「魂的に、ある程度、親和性がなければ、子供として生まれてくることはできない」ということです。それが原則としてあります。
 これが、魂は別なのに親子が似ることの理由の一つです。

 女性は妊娠して子供を宿すのですが、妊娠は霊現象であって、女性の肉体のなか、心のなかに異質なるものが宿るわけです。魂のなかに他の魂が宿ってくるのです。
 言葉は悪いかもしれませんが、妊娠は、変わった意味における憑依現象であることは事実です。
 憑依には、「同類、相通ずる」という原則があり、子供の魂は、だいたい自分と波長の似た人のところに出てきます。
 「それでは、奥さんに引かれて出るのであって、ご主人とは関係がないのではないか」と思う人もいると思いますが、奥さんとご主人が結ばれるのは、やはり、似た者同士が引き付け合うからで、結果的には、ご主人と子供も同じような波長であることが多いのです。

 親が自分の子供を一歳か二歳ぐらいから観察していると、自分に似たところがけっこうあります。生物学的に似ているだけではなくて、魂の傾向性で似ているところがあるのです。
(18~20ページ)

妊娠は、ある意味で憑依現象なのだから、女性からみたら、自分と波長の似た魂しか、おなかに宿ることはできない、という法則がある。

また、母親と父親は、似た者同士だからこそ結婚したんであって、結果として父親と子供も同じような波長であることが多い。

親と子が似たところがけっこうあるのは、生物学的に似ているだけではなくて、魂の傾向性として似ているところがあるということである──。

自分の家族のことを思い浮かべながら、このお教えを味わってみると、なるほどなるほどと、とても腑に落ちてきます。

人生の不思議さの秘密を今日はまたひとつ学ぶことができた気が私はしているのです。

 

『ティータイム』

 大川隆法著

 

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人生最大の苦難・困難なんだよね。なんでこんな事件が起きるんだろ。私って、いまどうすればいいんだろう? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「人間は永遠の魂修行をしながら、くり返しくり返し、地上に生まれ変わっている」という考え方をとり、この視点から現在の自分の魂修行というものを見たときに、「自分がいま試練と考えているものは、ほんとうは違ったものではないのか」という、次の考え方が出てきます。(中略)
 特に、いま悩んでいること、まさしく悩みの中心となっているものは、みなさんの人生の問題集がいったい何であるかを教えているということなのです。「自分の人生の問題集が何であるのかを教えているのが、現在ただいまの悩み、特にいちばん深い悩みである」という教えを知っていただきたいのです。
 「苦しみの渦中にあると思いきや、いま自分は、今回の人生の問題集のなかで、いちばん大事な問題にさしかかっているのだ」「今回の魂修行にとっていちばん意味のあるところに、まさしくさしかかっているのである。これはおもしろい。エキサイティングである」──こうした考え方です。
 いよいよリングに上がったわけです。リングに上がる前には、首にタオルをかけて、シュッシュッシュッと、シャドーボクシングをやっていたわけですが、いっまでも練習ばかりをやっていたのではだめです。試合が始まって、「赤コーナー」と呼ばれたならば、やはりタオルを取って、リングに上がらなければなりません。「赤コーナー」と声がかかったときに、「トイレに行きたい」などと思ってもだめです。そのときには闘わざるをえないのです。
 今まさしく問題の渦中にあるということは、一カ月、二カ月、あるいは半年間、タイトルマッチのために練習してきて、やっと今リングに上がったのだということです。まさしくこのときのために今回の生があったのです。いや、今回の生というよりも、生まれ変わる前に、何十年か何百年か、実在界のどこかで修行してきて、「よし、今度は見ておれ。今度は見事にやるぞ」と思って地上に出てきたのです。したがって、その助走の期間だけをみても、少なくとも数百年はかかっています。場合によっては、もっとかかっている人もいます。それだけの期間をかけてトレーニングを積み、そしてタイトルマッチに出てきたのです。
 それなのに、リングに上がってから、「いまさら何を言っているか」ということです。リングに上がってしまえば、やらねばならないことは、わかりきっています。相手がいるのだから、あれこれ気にしないで、相手をノックアウトするしかありません。
 相手が人間であれば殴られると痛いけれども、実際は、みなさんの前にあって問題と見えているものは、人間ではなくて〝蜃気楼(しんきろう)″にしかすぎません。問題というかたち、悩みというかたちをとって現われている、みなさん自身のカルマにしかすぎないのです。リング上での対決は、他人との闘いではなく、みなさん自身のカルマとの対決です。これをノックアウトしなければいけません。それが今世の使命なのです。
(99~102ページ)

ボクシングをやったことはないんだけど、でも、そうなんだよね、と思えますよね。

このリング上での闘いというのは、他人との闘いではなく、自分自身のカルマとの対決なのだから、これをノックアウトしなくてはならない。

それが今世の使命なのである──。

「人生は一冊の問題集」というお教えを、いざその最大の問題が登場したときに、どう捉えればいいのか。

これを、とっても分かりやすく、しかもユーモラスに教えておられるのだと私は理解しているのです。

 

『常勝思考』

 大川隆法著

 

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「心の法則」って言葉が、このブログではよく出てくるけど、これってどういうものなのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の「心」というものは、単に道徳的な存在ではなくて、「仏光(ぶっこう)物理学」に基づいてつくられたものだと言えます。この「仏光物理学」とは、大宇宙は仏の意志によって存在し、大宇宙の法則は、仏の光の物理学的法則によって支配されるということです。つまり、三次元宇宙空間とそれ以降の多次元空間を支配する法則を、仏の光の性質に帰そうとする考え方なのです。そして、この考え方は、実在界の物理学者たちの多数の支持を受けております。
 仏光物理学には、三つの基本命題(テーゼ)があります。
 第一のテーゼは、仏の光は、親和的性質を持ったものに出合うと増幅され、排他的性質を持ったものに出合うと、それを避けて通るというものです。
 これは、イエスが、「持てる者はさらに与えられ、持たざる者はさらに奪われるであろう」と語ったことの真意なのです。つまり、仏の光と親和性のある人には、ますます、仏の光、恵みが与えられ、仏の光を排斥する性質を持つ人には、だんだん、仏の光が射さなくなる。これが真相です。(中略)
 第二のテーゼは、仏の光は、その凝集・拡散というプロセスによって、創造と破壊を行なうということです。つまり、念のカによって、仏の光が目的性を持って凝集すると、そこに、霊的実体が現われる。さらに、その波動を緊密なものにしてゆくと、物質が現われる。その逆に、念による目的意識が解除されると、物質はその形態を失う。霊的実体も、仏の光が拡散を始めると、別なものになる以外は存続しえなくなる。こういう物理法則があるのです。そして、人霊創造のプロセス、人体創造のプロセスは、この仏光物理学のなかの、光の凝集・拡散の法則によって、明らかにされるのだと言えます。
 第三のテーゼは、仏の光は周波性を持つということです。つまり、高周波は高周波と通じ、低周波は低周波と合うということです。多次元空間をも含めた大宇宙空間には、仏の光のなかに伝達の意識を込めた念波というものが飛び交っています。しかし、この念波も、同波長のものしか通じ合わないのです。(中略)
 ここで考えなけれぱならないのは、人間の実体も光子体であり、仏の光の性質をそのまま内包しているということです。
 第一のテーゼにより、愛、善、美、真といった、仏の光に親和性のある心の状態を保てば、幸福な人生が待っています。しかし、憎悪、怒り、嫉妬、猜疑心、愚痴、利己主義などの心の状態を保てば、仏の光を排斥し、やがては不幸を招来することとなるのです。
 第二のテーゼにより、光明思想を持っていると、霊的に健全になるのはもちろんですが、肉体も健康です。逆に、心に悪想念を持っていると、それが病念をつくり、やがて、肉体的にも病気となって現われます。
 第三のテーゼにより、心を高級霊と波長の合う性質に変えてゆくことによって、幸福がもたらされます。しかし、低級霊と同調すると、だんだんに不幸になってゆくことは明らかです。
(25~31ページ)

うーむ、なるほど。

ということは、「心の法則」として、さまざまな場面で語られていたのは、実は、この仏光物理学の三つのテーゼがいかに適用されるのかを、分かりやすい形で説かれていたにすぎなかった。

そんなことが改めて理解できた気が私はしているのです。

 

『黄金の法』

 大川隆法著

 

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昔と違っててさ、今って、民主主義の世の中だし、自由に生きてていいんだよね。いろんな考え方があるんだけど、だからこそ、どうやって生きていけばいいのって、分かんなくなってきちゃった。どう考えていけばいいのかな? なーんて哲学的疑問をもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『生命(いのち)の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 まず、みなさんにお勧めしたいことは、「知識や価値観が多様な時代を生きていくには、一定の論理とでも言うべきものを、自分なりに立てようと努力することが大事である」ということです。
 論理というと難しく聞こえるかもしれませんが、別の言葉で言えば、「自分は、このように生きるのだ」という、「人生のポリシー」のことです。そういう、生き方の基準になるものを、混沌状態のなかからつかみ出し、一つの考え方として立てようと努力することが大事です。
 さらに別の言い方をすると、「自分は、こういう場合には、これを選び、あれを捨てる」「ある二つのものが並び立たなくなったときは、これを取り、あれを捨てる」という考え方であり、選択の基準になるものでもあります。(中略)
 若いうちは未熟なので失敗も多いでしょうが、諦めずに考えを重ね、自分なりの、生きていく上での論理、ポリシー、方針を立てようと、常に努力したほうがよいでしょう。
 論理を立てることは大変ですが、いったん立てたら、あとは、わりあい楽な生き方ができるのです。ここで言う楽とは、「無用な混乱を起こさずに、簡素に、簡潔に生きることができる。無駄なことに精神的なエネルギーを使わなくて済む」という意味であり、論理を立てることには、「人生の時間を節約できる」という利点があるのです。
 すなわち、常に、「自分は、こういう考え方で生きるのだ」ということを思い、自分自身を説得していれば、みずからの考え方に反するものに深入りすることがなくなります。
 また、友人や知人など、ほかの人から、いろいろな意見を言われ、混乱し、判断に迷ったときも、原点に戻り、「自分としては、こういう考え方で生きるのだ」ということをよく考え、それを納得すれば、ほかの人の考えに振り回されなくなります。
 つまり、考え方が、無用な堕落や混乱から自分を護り、救うようになるのです。(中略)
 このときに気をつけなければいけないことは、「あまりにエゴイスティック、自分中心主義になってはならない」ということです。他の人を、一切、無視するような生き方は、よくありません。
 また、自分を害して駄目にしてしまうような生き方もよくありません。
 自分なりの論理を立てるときには、「自分も害さず、人も害さない生き方であるか」というところを点検することが大切です。
 積極的な言い方をすれば、「自分を幸せにし、周りの人も幸せにできるような生き方であるかどうか」ということです。(中略)
 私は、「自分も害さず、人も害さない。自分のためにもなり、人のためにもなる。あるいは、自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方を勧めているのです。そういう考え方を持って、自分なりの生き方を求め、ときどき、みずからの生き方に修正を加えながら発展させていくことが大事です。
(18~22ページ)

現代社会のように知識や価値観が多様な時代を生きていくには、まず一定の論理、ポリシーを、自分なりに立てる努力をすることが大事である。

しかし、そのとき、あまりに自分中心主義であってはならないし、自分を害して駄目にしてしまうのもよくない。

「自分も害さず、人も害さない。自分も幸福になり、人も幸福になる」という考え方が勧められる──。

なるほど、なるほど、です。

やっぱり学生時代というのは、この自分なりの論血、ポリシーを立てるための、大切な大切な期間であるのだと確認できた気が私はしているのです。 


『生命の法』

 大川隆法著

 

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いつまでも歳をとらずに、このまま生き続けれたらいいのに。なんで人は死んでしまうの。人間が、仏さまや神さまに作られたんだったら、そんな無慈悲な話ってないじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
 
幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、今のままで、千年、二千年、五千年、一万年と生きつづけたら、みなさんは、それを楽しいと感じるでしょうか。素晴らしいと感じるでしょうか。
 経済学の法則の一つに、「収穫逓減の法則」というものがあります。
 たとえば、同じ畑で作物を穫っていても、何回も何回も獲っていると、だんだん収穫量が落ちてきます。収穫量が落ちないようにするためには、肥やしをやったり、水をやったり、耕したりして、いろいろ手入れをしなければなりません。
 また、空腹の人が一杯目のご飯を食べた時の喜びは大変なものですが、二杯目、三杯目になると、その喜びはだんだん減っていきます。あるいは、車を持っていない人が初めて車を買った時には、非常にうれしいものですが、二台目、三台目となると、車を買った時のうれしさは減っていきます。
 このように、同じことを続けることによって、手に入れるものの成果が少なくなること、その幸福度、満足度が少なくなることを、「収穫逓減の法則」といいます。別な言葉でいえば、「慣れてしまうと刺激がなくなってくる」ということです。
 ですから、肉体に宿っている人間であるならば、通常は、「このままの状態が永遠に続けばいいのに…」と思うかもしれませんが、そうした永遠の状態は、ある意味においては、一種の地獄であるとも言えるのではないかと思います。そのため、大きな目で見た幸福を得るために、小さな目で見た幸福を脱ぎ捨てる必要があるのです。
 何千年、何万年、何十万年、あるいはそれ以上の期間における、魂の成長・進化ということを考えると、「わずか一回限りの人生で、すべてに満足し、すべてを堪能し、すべてを終わらせようとするのは、非常に難しいことである」ということを悟らねばなりません。
 一回の人生だけでみると、早死にすることもあります。歳をとり、苦しい晩年を送って死ぬこともあります。病気や事故で死ぬこともあります。ですから、たまたま幸福なことも不幸なこともありますが、「その折々に、一つの人生として何らかの成果を得れば、それはそれでよいのではないか」という考えもあると思います。数十年で人生を終えたがために、また来世、天上界での生活があり、そしてさらに、次の時代、次の地域へと、生まれ変わることができるのです。
 人間は、何十年かのちには必ず死ななければならないということは、たとえようもなく苦しく、つらく、悲しいことであるかのように思えるかもしれません。しかし、それは、小さな幸福を捨てることによって、より大きな幸福を手に入れることができるという、仏の慈悲に基づいているのです。(中略)「大いなる目で見たら、それはまた、次のチャンスを与えられているのだ」と考えなくてはならないのです。魂のより大きな悦びを選んでいるのです。そうした大きな愛のなかを、愛の大河のなかを、みなさんは魂修行しているのです。
(20~24ページ)

たしかに、百歳まで生きるだけでも大変な気がするのに、このままの肉体で千年とか1万年なんて、生きてられませんよね、やっぱり。

だらけてしまうだけで、得られるものがしだいに少なくなるのは、よくよく考えてみると、当然のことだなあと思えます。

一見無慈悲な気がするんだけれども、でもそれも、小さな幸福を捨てることによって、より大きな幸福を手に入れることができるようにという、大きな大きな仏の愛。

人間に寿命があるって、ほんとはとてもありがたいことだったのだと、改めて腑に落ちた気が私はしているのです。

 

『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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あーあ、落ち込んじゃうんだよね。明るく生きることが大切って、教えられても、なかなかそうは行かないよ。どうすればいいの? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『アイム・ファイン』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

光明の人生を生きていくために、
常に心掛けなければならないことは、
「屈託なく生きる」ということです。

想像してほしいのです。
春の日差しのなかの、
そう、そんなに深くはない、
わずか二十センチ、三十センチの深さのせせらぎを。
その緩やかな水の流れに日差しが当たって、
せせらぎの水底が、まるで金色に輝いているようにも見え、
小川が、緩やかな水紋を映しながら、
うれしそうな声を上げて流れていく、そのさまを。

この小川の水が透明であるように、
みなさんの生き方も透明でなくてはなりません。
生き方が透明であるとは、
複雑なものの考え方をしないで、
単純に、素朴に生きることです。

人を疑って生きたり、猫疑心のなかに生きたり、
深い劣等感や感傷的な気持ちのなかに
生きたりするのではなく、
明るく、素朴に、単純に生きるのです。
もし、あなたを裏切ったり、
騙したりする人が現れたとしても、
「そんなこと、気にもかけない」というように、
素朴に生きることなのです。

子供は一晩眠れば何もかも忘れてしまうように、
屈託のない明るい生き方は可能です。
心のなかの重荷、レンガを取り払いましょう。
そして、風通しをよくしましょう。
(12~15ページ)

都会に住んでる人は、なかなかむずかしいかもしれませんけど、たまには、小川のせせらぎを眺めに行くといいですよね。

小川の水が、透明に流れていくように、「屈託なく生きる」こと──。

これって、大切な大切な、幸福な人生の秘訣なんだと私は思っているのです。

 

『アイム・ファイン』

 大川隆法著

 

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