ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「縁起の理法」って、よく聞くけど、いまいち納得できないんだよね。努力したからといって、それが結果として出るとは限らないじゃない? 自分は自分なんで、いくら努力しても変わらないんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『青春に贈る』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 高校時代は、英語、国語、数学、理科、社会などを勉強し、一定のレベルを修めて卒業します。それから、大学に入ったり、短大に入ったり、各種の専門学校その他に進学したりします。なかには、すぐに社会に出る人もいます。
 そこで、たとえば大学生を例にとると、どんなに優秀な高校生であったとしても、高校卒業時点では持っていないものを、大学で何年か学んだ大学生は持っているのです。どのような草深い田舎の大学生であっても、そうなのです。これは不思議ですが、大学生は高校生が持っていないものを持っています。(中略)
 もちろん、大学の専門領域はいろいろあります。たとえば文科系では、法律、政治、経済、経営、哲学、心理学、教育などがあります。理科系でも、理学部、工学部、医学部、薬学部など、たくさんの系統があります。
 しかし、これらはどれも高校で習うことはありません。したがって、こうした専門領域については、高校時代にいかに優秀な人であっても、その後、専門的な勉強をしなければ、身につかないものなのです。
 高校時代には、かなり優秀な人から、そうでない人までいたと思います。しかし、次の段階である大学に上がり、新しい学問に出合って四年間勉強すると、大学入学時には持っていなかった学力を、大学の卒業時点では持っています。
 このように、同じ人であっても、高校の卒業時点と大学の卒業時点では、学力の点では別の人間になっているのです。
 それは、大学に入って、それまで学んだことがないものを学んだ結果、頭のなかに入っているものが違ってくるからです。知識や情報のレベルにおいては、明らかに入れ替わっていて、別な人間になっています。つまり、十八歳の段階と、二十二歳の段階とでは、違う人間になっているのです。
 これは大学在学中の四年間の話ですが、同じようなことは、それから先にもあります。二十二歳と、三十歳、四十歳、五十歳とでは、別人になるのです。
 成人後は身長や体重がそう変わらないので、魂の入れ物である肉体は、確かにあまり大きくは変わらないかもしれません。
 しかし、目や耳などから、新しい経験や知識が常に流れ込んでいるので、中身は変わるのです。(中略)
 したがって、みなさんは、自分自身のことを、同じ水をたたえた池のような存在だと思っていたとしても、なかに流れている水は違ったものになってくるのです。(中略)
 この間、いろいろなものが新しい情報として入っては出ていき、みなさんは変化しています。形は同じく丸い池であっても、中身が違ってきます。どのくらいきれいな池になるか、魚が棲むか棲まないか、他の生き物が棲むか棲まないか、鳥が来ても養えるような池になるかならないかということが、まったく変わってくるのです。
 このように、縁起の立場は、「播いた種によって、あるいは努力によって、人生は変わっていくものだ」ということを明確に肯定するのです。
(28~32ページ)

これは、学生向けに、分かりやすく「縁起の理法」を説かれたところです。

ここでは、高校生が大学生や社会人になる、という大きな枠組みで、話を進めておられます。これはもっと遡って置き換えて、小学生が中学生になる、中学生が高校生になる、と考えてみてもいいですよね。

学校では、さぼってる人もいれば、熱心に学ぶ人もいるわけですが、「学ぶ」という努力を少しでもしていれば確実に、小学校、中学校、高校、大学、社会人と、自分の中身は変わっていきます。そこには、それなりの努力があるのは間違いない。

つまり、この大きな枠組みで、自分のこれまでの成長をみてくれば分かるとおり、努力という「播いた種」によって、人間は確実に変わっていけることを肯定するのが、「縁起の理法」なのだ、これは大宇宙を貫く偉大な法則なのだってこと。

だからこそ、私たちには、自分がよい方向に変わるよう、日々地道な努力を重ねていくことが勧められているのだと私は理解しているのです。

 

『青春に贈る』

  大川隆法著

 

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