神様や仏様って、ほんとにいるのかな。いるんだったら、アメーパとかから進化してきたサルが先祖で人間ができたって、学校で教えられるのは間違ってるのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『新・心の探究』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
結果に対しては原因があるということを考えれば、やはり、この世界を創ったものがあると考えることは、常識的に考えても筋が通っております。
この世界を偶然にできたと考えるのは、最近の流行ではあるけれども、これはある意味で、長い目、あるいは広い目で見るならば、異常な思考といわざるをえません。偶然に人間ができるでしょうか。人間がアメーバーから偶然に進化してくるでしょうか。
人間というものは、いってみれば、超高層建築のようなものです。四十階建て、五十階建ての高層建築のような、目的性を持ったしくみを持っているのです。
ところが、現在の進化論の主流というのは、偶然の連鎖によって人間ができていると、現時点の肉体と精神を持った人間ができていると主張しております。
これはいってみれば、コンクリートのかたまりや砂や砂利や、あるいはブロックとか、鉄筋とか、こういうものが転がっていて、偶然に風が吹き、偶然に雨が降って、コンクリートがこねあげられて、そして、いつの間にか鉄筋が積み上がって、つまり、偶然に地震か何かで鉄筋が積み上がって、そして超高層ビルができた、というのと同じなのです。
人間のしくみの複雑さを知れば知るほど、それが偶然に、そういう材料の寄せ集めでできたものでないことは、明らかであります。それは、目的性を持っているのです。人間の肉体だけを見ても、DNAとかRNAとかいうような、遺伝子の情報システムによって、人間の肉体ができているということが、生物学によって解明されているけれども、これをもってしても説明とはなっていないのです。
なぜ両親からDNAとかRNAとかいうような遺伝子の情報が伝えられるのか。この情報とは、そもそも何なのか。この分析ができていないのです。偶然にそういう情報が伝わると考えるのは異常であります。
これは、今の例でいうならば、五十階建ての超高層建築ができたなら、その設計図を窓からひらりと落としたならば、隣にもまた同じようなどルが建ったということと同じようなことになります。遺伝子情報があるからといって、まったく同じものができるという、その不思議そのものを探究しなければ、意味がないわけです。ビルの設計図を落としたところで、もう一つのビルは建たないのです。ビルを建てるためには、その設計図を見て、それを造る人がいなければ建たないのです。そういうことだと思います。
(31~33ページ)
この世界を偶然にできたと考えるのは、最近の流行であるが、ある意味で異常な思考である。
人間のしくみの複雑さを知れば知るほど、目的性を持っているのであって、それが偶然にできたものでないことは明らかである。
結果に対しては原因があるのだから、この世界を創ったものがあると考えることは、常識的に考えても筋が通っている──。
「神」と呼ぼうが「仏」と呼ぼうが、この世界を創った造物主があるのだ、と考えるのは、自分の頭でよくよく考えてみると、とても理にかなっている、ということですね。
アメリカでは、けっこう以前から真剣に、進化論を学校で教えていいのか、教えるにしても、それはまだ立証されてない仮説だと教えて、神がこの世を作って人を作ったという聖書の考え方も一緒に教えるべきだという議論が、盛んになされてると聞きます。
当然の話ではありますよね。
この日本においても、この「進化論」というのは、いかに普通でない理論であるか、むしろ間違いと言うべきものではないかという認識が、もっともっと広がってほしいと、改めて私は思っているのです。
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『新・心の探究』
大川隆法著
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