たたきあげで政治家になる人は、いい意味でも悪い意味でも、たくましい。
別の世界の人と思うことがある。
別の世界の人と思うことがある。
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おごりの春の片隅で 「後列のひと」 清武英利 文芸春秋 2021年発行
竹岡和彦は、同志社大学時代は新左翼系学生運動の闘士であった。
反対デモで捕まったこともある。
ただし、思想的な根は浅い。
のちに、「森下仁丹」社長で自民党参院議員だった森下泰を「師匠」と仰ぎ、
同党の大阪府議会議員も務めている。
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1974年6月、森下の参院選挙運動が始まる。
竹岡はビラを配り、ポスターを貼り、マイクを握る。
間もなく騒ぎが持ち上がった。
証紙を貼ったポスター以外に、事前運動用のものを貼り続け公職選挙法違反に問われようとしていた。
貼ったのは森下仁丹社員だったが身代わりで自首し、肝心なところでは黙秘を貫いた。
森下事務所に入って12年後、彼も候補者を支える側から選ばれる側に回る。
大阪府議選、さらには参院選へと出馬する。
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「竹岡さんの奥さんな、いつも同じ八百屋さんで野菜買うてはるけど、あれは具合悪いで。
あっちこっちで買わなあかんのんちがうか」
妻は遠くまで買い物に出るようになった。
竹岡は家で髪を洗わないようにした。
出かける先々で床屋を訪れ、洗髪をするためである。
妻は、犬にまでお辞儀しそうになった、とぼやいた。
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自宅にかかってきた怪電話を15歳の娘が受けてしまったこともある。
「あんたのお父さん、別のところに女の人がいて,子どもがおるそうやで」
宗教票を二千万円で買えると持ち掛けられたこともある。
それを断って結局落選した。
妻は選挙後、すぐに娘を連れて実家に戻り、離婚届を弁護士を通して渡してきた。
哀しかった。
「死ぬこと以外はカスリ傷」と口にしてきたが、これは深手だった。
その直後に師匠の森下を心不全で失い、竹岡は政界から引退する。
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それから約30年が過ぎ、ヒルトン大阪で『無鉄砲』の出版祝賀会に約130人が集まった。
あれから竹岡はハワイでゴルフ場を手掛け、不動産業を営み、パチロット(パチスロ)事業にもからんで、しぶとく生きてきた。
政財界からアンダーグラウンド世界で、裸の大阪を観察してきた。
自伝には著名人の実名が満載だが、それでも原稿からヤクザや芸能人は削除されている。
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