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抜き書き帳『正岡子規』(その18)

2016年05月12日 | O60→70(オーバー70歳)
【354ページ】
・物いわぬよものけだものすらだにもあわれなるかな親の子を思ふ
のごとき何も別にめずらしき趣向もなく候えども一気呵成の処かえって真心を現して余りあり候。

【361~362ページ】
少し眼のある者は元勲がどれ位無能力かという事大臣は廻り持にて新聞記者より大臣に上りし実例ある事位は承知し説き聞かせ候えども田舎の先生は一向無頓着にてあいかわらず元勲崇拝なるも腹立たしき訳に候。----今まで隠居したる歌社会に老人崇拝の田舎者多きも怪むに足らねどもこの老人崇拝の弊を改めねば歌は進歩致すべからず候。歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賎もこれなく候。歌よまんとする少年あらば老人などにかまわず勝手に歌を詠むが善かるべくとご伝言くださるべく候。明治の漢詩壇が振るいたるは老人そちのけにして青年の詩人出たる故に候。俳句の観を改めたるも月並連に構わず思う通りを述べたる結果に外ならず候。

[ken] 文章というものは、いかなる観点から評価するかによって、良い悪いがまったく異なってしまいます。当然、どこに価値を置くのかによっても違いが出てきます。正岡子規さんの観点は形式をふまえつつ、それにしばられることなく、短歌の勢いや真心にも重きを置き、繰り返しになりますが「正直に書く」ことを推奨しています。
そして、世俗の権威、肩書き、通説を盲信するのではなく、年功序列、社会的地位などには目もくれず「勝手に詠む」ことが、歌の本来の姿であるとしています。私も長年、事務労働に従事してきましたが、まずは何を自分が書きたいのか、いかなる感動を伝えたいのか、それこそを重んじて後の体裁は熟練すれば身に付くものだ、と思いながら仕事を続けてきました。
もう少し簡単に述べると、「ビジネス文書であろうとも、文章を読んで書き手の顔が浮かぶ、その人の臭いがする」くらいでなければ、文章を書く意味がないとまで思っていました。うまくいったかどうかは、ちょっと自信はないのですが--------。(つづく)
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